【デザイナー社長の告白】崩壊する事業と炎上する組織からの再生

2019/2/7
「変革の痛みはあまりに大きかった」
 そう語るのは、「戦略とUXの統合」を掲げる注目のクリエイティブファームZEPPELINのCEO鳥越康平氏。
大学で建築とデザインを学んだ後、デザイナーとして最先端の携帯電話を開発しているサムスン電子で活躍、 2005年10月に日本へ帰国。物質的な豊かさだけでなく、人間らしさや美しさに基づく価値を築くためにZEPPELINを設立。以来、通信、エレクトロニクス、自動車、放送、教育など、グローバル企業のUX構築に従事。現在、企業ビジョンの策定や新規事業の創造、ブランド価値の伝達、組織改革など幅広い活動を行いデジタルイノベーションを推進している。
 兄妹2人でフリーランスに近いかたちで始めた受託のデザイン会社から、今のクリエイティブファームに進化を遂げるまで、苦節15年。
 今では、デジタルサービスのUX/UI設計、UX戦略コンサルティング、UXブランディングまでを手がけている。
 組織を率いるCEO・鳥越康平氏は、大学で建築とデザインを学び、SAMSUNGのデザイナーとしてキャリアをスタートさせた変わり種。
「やりたいことは“人と人をつなぐこと”」
 という鳥越氏の思想は、創業当初から変わっていない。
 本稿では、ZEPPELINと鳥越氏が体験した2つのレイヤーの物語が重なっている。
・世の中の流れがハードウェア、機能起点からUX起点になる過程
・ZEPPELIN社が、受託のデザイン会社から事業創造を支援するクリエィブファームへ変革する過程
 それらを通して、経営視点で「戦略とUXを統合する」ことを体現していくわけだが、その貴重な経験の過程で生じた「変革の痛み」を語ってもらった。
 鳥越氏には、当時の状況と心境をできるだけ克明に語ってもらうため、資料を掘り返し、衣装やヘアメイクを施し、過去に立ち返ってもらった。
 簡単に手に取れるようなノウハウばかりではないが、そこには激しい時代の変化の中でのたうち回る、創造の苦しみがあり、経営の実践がある。
 鳥越氏の率直な語りを通して、変革のリアルをお伝えする。
 心の準備はいいだろうか。
 話は、韓国から始まる。
 私は2001年に大学卒業後、韓国に渡り、SAMSUNGに入社しました。
 社内に600人ほどいた“プロダクト”デザイナーの一人として採用されました。当時SAMSUNG本部には日本人は一人もいませんでしたが、韓国人以外の欧米人など様々な人種がいるグローバルチームに配属されました。
 今では考えられないですが、その中で誰もインターフェイスやUIを手がける人はいなかった。
 でも、私のやりたいことはそこにありました。
 画面を通して、「誰かとつながる」。そこで何がやれるか、どんな価値を生み出せるかということは、無限大の可能性を秘めている。
 みながプロダクトデザイナーとして、携帯の形状などをデザインするのに躍起になる中、私一人、ガラケーの画面の中のUIに、異常な興味を持っていました。でも液晶画面のデザインは下請けにすべて発注してしまい、社内では誰も気にしない。
 新しい価値を生み出す場所として、無限の可能性を秘めているのは“ここ”(液晶を指さしながら)なんだ、と話しても、みんな「ぽかーん」と口を開けていました。
 ある日、新商品企画に向けた重要なプレゼンで、4カ月間かけて作ったUX/UI案を、発表の直前に削除されました。ハードウェア以外の説明は必要ないという上司の判断です。
「ハードウェア」が価値を持つ時代はいずれ終わり、UX/UIこそがコアな価値になると考えていた自分にはとてつもない衝撃でしたね。
 結局どれだけ社内で説得を続けて、プレゼンをしてみても、何も変化を起こすことができなかったので、2年半で会社を辞めて、日本に帰国しました。やりたいことをやれる場を自分で作ろうと思ったんです。
 帰国後は、UX/UIを中心としたデザインの受託という形で事業をスタートさせました。ZEPPELINの航海の始まりです。ちなみに社名は、「飛行船」を意味します。
 ちょうど妹が美大を卒業して就職先に悩んでいたので、「じゃあ、ちょっとだけ面倒を見るよ」と言って声をかけて、2人で始めました。妹は今でも仕事のパートナーです。
2005年、デザイン会社として妹とZEPPELINを設立
 当時なんの実績もなかった私たちに依頼はこない。営業の方法も知りません。
 ためていたわずかばかりの資金も徐々に底をつき始めます。今でもふと思い出すことがありますが、渋谷駅までの150円の切符を買う時に、預金残額を頭の中で思い返しながら購入するようなギリギリの状態でした。
 そんな中、知人のつてで大手企業の携帯事業の担当者と会いました。
 担当者が「明日までにUI企画案を10個持ってきて」と。そのミーティングが夕方で、提案が翌日です。
 残りは18時間。2人で一睡もせず、思いつく限りの案を作成して、翌日プレゼンしました。本当に緊張しましたね。
 結果は上々でしたが、それからはずっと毎週徹夜を続けるような日々が続きます。極限状態に放り込まれて、そのたびになんとか乗り越える。そういうことを何年も続けました。
 いまだにGoogleで検索すると、僕らがつくったガラケーの画面デザインが山ほど出てきます。懐かしいです。
 2006年、当時はUX/UIの重要性に、大企業でもまだ一部の人しか気がついていないころでした。
 ハードウェアの「機能」がそのまま事業戦略。ガラケーの端末が何ミリ薄くなったか、画面が他社よりどれくらい大きいか、カメラの画素数が何百万画素になった、とか。
 そんな中、携帯端末にはもっと可能性があるはずだからと、携帯端末が5年後10年後にどうなっていくのかを企画して、UX/UIを作りプレゼンするという、いわゆる「次世代コンセプト」の提案もよく行っていました。
 しかし、提案するUX/UIと上流の事業戦略が一致せず、最終的に製品化されることがないということが延々と続きます。このころからでしょうか、うまくいかないゆえのモヤモヤした黒い塊のような思いを抱え始めます。
 そして、ようやく時代に大きな転換点が訪れます。
 すべてが変わったのは、2007年。そう、iPhoneの登場でした。
 ふたを開けてみれば、私たちがコンセプトとして言い続けていたようなことを、iPhoneはすべて具現化していました。しかも信じられないほどの完成度で。
 iPhoneは、ユーザーがあっと驚く体験と、プラットフォームを中心にした事業戦略が見事なまでに融合されたものでした。
 悔しかったか、ですか。
 そうですね。死ぬほど悔しかった。
 それまで「次世代コンセプト」の提案でも、ネットに常時接続し、デジタルサービスのプラットフォームを提供するデバイスを考え、散々プレゼンしていました。でもそれは絵空事だと片付けられていた。そしてそれをクライアントのせいにしていた未熟な自分がいた。
 それをAppleが次々実現していくんです。「どうして私は、そして日本企業はこれを作れないのか」と苦しくなっていきました。
 AppleがiPhoneを出したら、GoogleがAndroidを出す。そういう切磋琢磨(せっさたくま)の中に、自分たちZEPPELINの居場所はない。急速に移り変わろうとしている時代をひしひしと感じながら、今までと同じハードウェア至上主義、機能至上主義の末端でデザインの受託仕事を続けていくことに、葛藤が大きくなっていきました。
 このころから、まるで真っ暗闇の中、上下左右も分からない中、トンネルをずっとスコップで掘り続けているような気持ちになっていきます。とにかくこの暗闇から出たかった。
 そこからですね。自分の思い描いていることを具現化しなければという思いに駆られて、事業づくりにのめり込むようになります。iPhoneという強烈な成功モデルを見て焦りのようなものが生まれ、何かを生み出さなければならないという強迫観念に駆られていました。
 そして社員や周囲の反対をよそに、いろいろな事業をつくることに手を染めます。
 そこから新たな苦難の始まりでした。
 その後、狂ったようにいくつもの事業をやり始めては、うまくいかずに頓挫するということを繰り返しました。パッと思い出せる限りでも、
・仮想通貨サービス
・メッセンジャーサービス
・音声対話ホームデバイス
 など、考えられるだけのサービスを考え、試しては、途中でうまくいかなくなり、プロジェクトを打ち切るということが続きます。
 そして、今もCTOを務める中島聡との出会いをきっかけに、最終的に動画アプリに力を入れ始めます。
中島聡 ZEPPELIN最高技術責任者:早稲田大学大学院修了。マイクロソフト日本法人を経て、1989年にマイクロソフト本社に移籍。Windows95、Internet Explorer 3.0/4.0、Windows98のチーフアーキテクトを務めた。2000年マイクロソフト退社後、UIEvolution Inc.を起業。現在は同社取締役のほか、非営利団体シンギュラリティソサエティを創立、メルマガ「週刊 Life is beautiful」を毎週火曜日発行中。2014年、ZEPPELINの最高技術責任者に就任。ITとデザインを融合させた可能性を追求し、ZEPPELINを牽引している。
 しかし、このころから新規事業の方に意識が向いてしまい、どんどん社員と距離が離れてしまい確執が生まれ始めます。
 会社経営というのは本当に難しいですね。
 私が声高に、新しい事業のビジョンや変革を話せば話すほど、社員たちを困らせることになりました。
 社員からして見れば、「デザイン会社」だと思って入社してきたのに、社長は「Appleを乗り越える」だの、「iOSみたいなOSを作りたい」だなんて、よく分からないことを言っているぞと。
 事業方針と組織状況がまったくかみ合っていなかった。
 UXが我々の中核にあるということは確信していましたが、事業戦略がそれに伴っていなかった。そしてそれを社員に説明できなかった。
 私自身あまり器用な方ではありません。口数も多い方ではなく、人に弱みを見せるのも苦手でした。父も職人気質の自営業でしたが、背中を見ていれば覚えるだろうという姿勢でした。
 必死で働いていれば、分かってくれるだろうと期待していた。私自身も経営者兼プレイングマネジャーとして、仕事をしていますから、彼らがやれなかったら「どうしてできないんだ!」と責めるような場面もありました。
 気づけば孤立していました。
 すいません。暗い話が続きますが、こんな内容で大丈夫ですか。
 さらなる混乱を起こすきっかけとして、子会社をアメリカにつくろうとします。今思い返せば「なんと無謀なことを」と分かりますが。
 ZEPPELIN Holdingという親会社をつくり、そこにデザイン会社のZEPPELINと動画サービス会社を束ねる、ということをやりました。これには周囲の大反対を受けました。
 特にZEPPELINの経営顧問をお願いしている安本隆晴先生にも大反対されました。
安本隆晴 ZEPPELIN経営顧問:早稲田大学商学部卒業後、朝日監査法人(現:あずさ監査法人)、株式会社ブレインコア取締役を経て、安本公認会計士事務所を設立。現在、株式会社ファーストリテイリング、アスクル株式会社、株式会社UBIC等の監査役を兼任するとともに、未来経営塾塾長を務める。『ユニクロ!監査役実録』等、多くの著書を執筆。現在、公認会計士、株式上場コンサルタントとして活躍している。
「やりたいことは分からないでもないが、一つずつ丁寧に進めた方がいい。不確定要素ばかりでまだ何も見えていない。『力』がつくまで辛抱した方がいい」
 という、アドバイスを受けたのですが、それを押し切って、「Veemob」という動画サービスの事業を行う子会社をアメリカにつくったのです。
 アメリカの子会社のメンバーは私と中島聡、他数名で構成されていました。
VeemobのUI
 今思い返せば、事業戦略も何もなく、このUX/UIであればユーザーにも受け入れられるだろうという感覚で突っ走りました。あるのは、これは絶対にユーザーに受けるだろうという謎の確信だけ(笑)。
 それでうまくいきっこありませんよね。
 ユーザーは定着しない。資金ばかりが減っていく。そして何よりチームのモチベーションは低下。次第に何を目指しているのかが分からなくなっていきました。
 そして、このサービスも結局は失敗に終わります。
 当時の私はビジネスモデルのことも、狙うべきマーケットのサイズも、どういうプラットフォームを作るべきか、ということも、まったく分かっていなかった。
 それまでクライアントには次世代のコンセプトについて散々コンサルティングしてきたけれども、自分でやってみると何百倍も難しかった。あらゆるスキルと経験が足りなすぎました。
 一方で、私がアメリカに出張している間に、日本の社員と私の溝はさらに深まっていました。日々忙しいのに、社長はアメリカに行って、なにやら失敗してきたらしい、なんだそれと。
 そして、社員との確執が決定的になってきたある日、事件が起こりました。
 ある日、5人のメンバーがZEPPELNを辞めると言ってきたんです。
 当時のZEPPELINは20人ほどの会社でしたから、5人が抜けるというのはとてつもないインパクトです。
 話を聞かせてくれと言って、去っていくメンバーを集めて外で話をしました。今思えば、詰問に近かった。
 社員はためらったあと、以下のようなことを言いました。
「社員全員が苦しんでいる。受託の仕事は多忙を極めている。会社の中が少しも楽しくない。アメリカに会社をつくって社長たちだけ遊んでいるように見える」
 あまりのショックに、がくぜんとしました。帰り道は、どこをどう会社に帰ったのか覚えていないですね。
 その当時は、「次は誰が辞めそうだ?」そういう話ばかりが社内に蔓延していました。
 ガラガラと組織が瓦解していく音が、響き渡るようでした。
 活路が見いだせず、ボロボロになったある日、安本先生からメールをもらいました。
 そこにはリーダーとしての心得が書かれていました。
「ビジョンを示し、そこまでの道のりを伝え、周りを鼓舞しながら、何度も丁寧に説明する。そういう人に周りの人はついていき、会社は成長する」
 そういうことが書いてありました。周囲の反対を押し切って、一人突っ走ってきた数年間が走馬灯のように頭を駆け巡りました。
 これまでたどってきた道のりをもう変えることはできません。ですから、そこから何が学べるのか、何をどうすれば良かったのか、一からもう一度考え始めたんです。
 確かに、思い返せば、焦っていました。ただ一人焦っていた。社員と一緒に力を合わせてつくっていくことができていなかった。
 本来どうすべきだったのか?
戦略にまつわるこれらの要素、
・明確で分かりやすいビジョンとその達成のための中長期のマイルストーン
・ユーザーの問題とそのための解決方法、つまり価値は何か?
・市場はどこで、どれだけの規模なのか? 競合が誰なのか?
・それらを達成するためのチーム構成、チームのマインド、チームのカルチャー
・目標達成のための各自の責任/役割/KPIの設定と実行
 それらすべてのことが不明瞭でした。
 もちろん、すぐにすべてのことに気がついたわけではありません。それまでの失敗を思い返しながら、一つ一つ問題点に気がついたというのが正直なところです。
 UX、つまりサービスの内容があっても、経営戦略・事業戦略がなければ、そして、それと統合されなければ、すべてはバラバラになり、事業の終わりへと向かいます。
 ほぼ丸12年近くかけて、これらのことに気がついたんです。
 長かったですね。
 そこからは私自身が、最前線で受託を引っ張ることにしました。それしか、みんなが円満に私の決断を応援してくれる方法がなかったんです。
 先頭を走っている人が、しっかりと実績を見せること。これが組織運営のすべてにおいて、効いてきました。社員から改めて敬意を勝ち取り、その人の話を聞いてみようかなと思わせる効果がある。
 それから、私の方から社員を愛する、信頼する、尊敬する。向こうには何も求めないということを徹底しました。これをやったことで、私自身のマネジメント力も伸びたように思います。
 そのうえで現場の一つ一つで、事業戦略を改めて紡ぎました。
 市場規模を見定め、自分たちのやるべきことを明確にし、ユーザーが抱えている課題とユーザーへの提供価値も明らかにしました。
 なにより、先日、深津さんともお話をさせてもらいましたが、まず旗となるような明快なビジョンを研ぎ澄ますことが大事だと気づきました。
お金よりも強いビジョン〈宗教的思想〉が事業拡大の鍵になる理由
 さらに、そのビジョンとそれを達成するためのマイルストーンを構築し、丁寧に説明し、さらにそれらのマイルストーンを達成するためのKPIを設定しました。
 ポイントは自分が将来起こしたい未来のユーザー体験(=ビジョン)と現在のマーケットをいかにしてつなぐかということだと思います。
 壮大で美しいビジョンほど、現在の人々が求めていることと大きなズレがあります。そのため、ビジョンまでのステップを、中長期の時間軸で設計し、一つずつ丁寧に実現していく必要があるのです。
 過去の多くの失敗から学んだそれらのことを、何年も継続して実践したことで、少しずつですが社員に、戦略を練ることが、事業づくりのだいご味なのだと気づいてもらえた。自分の中でまさに戦略とUXが結びついた瞬間でした。
 社内の状況は少しずつですが、確実に変わっていきました。
 わが社の波瀾(はらん)万丈な道において救いとなったのは、グローバルな人材です。2011年ころに、人員を増やし始めてから今まで、優秀な人材は国内外関係なく採用しています。
ZEPPELINの社員のうち、海外の人材が半数以上を占める
 それは、やはり私がSAMSUNGでキャリアをスタートさせたことが大きいと思います。所属していたのがグローバルチームだったので、それが当たり前だと思っていたんですね。
 メンバーは国も文化も違うところから来ているので、見てる視点がまるで違う。日本で生まれ育った人たちだけが集まると、割と似たような視点の中で議論をしたり、ぶつかることがありますよね。
 しかし、はなから生まれも育ちも違うメンバーが集まって話すと、そもそも違う意見だということは前提で議論をするので、受け入れる土壌が全員にできやすいんです。失敗も、突拍子のないことを言っても受け入れることができる。
 いろいろな失敗を積み重ねてきましたが、このやり方は続けてきてよかった点です。
 そうやって2017年ころから、「UXと戦略を統合する」という足場から、UX/UIのナレッジを、クライアントに対して提供できるようになっていきました。
 ほとんどのクライアントは、戦略とUXとをどのように統合すれば良いか分からないという悩みを持っています。
 多くの企業の新しい事業創造のプロジェクトに携わることで、ナレッジと経験が蓄積されていくのですが、そこに自身のもがき苦しんだ経験がなにより生きました。
 KDDIのデザインチームづくりやライフネットの事業成長など、これまでにない産業のパートナーと新規事業の立ち上げをご一緒するようになってきていきます。
 かつてのようにデザインだけを提供するのではなく、社員全員が事業戦略から捉えられるようになったおかげで、1人当たりの売り上げは1.7倍にまで増え、時間当たりの売り上げは2倍以上になりました。
 目に見える形でも結果が生まれ始めてきました。
 その日のことはよく覚えています。
 確か全社員が集まったミーティングをしている時だったと思います。
 社員がUXと経営戦略について、非常に活発に意見を出し合っている。とても視座の高い議論を私抜きでしているその集団をすこし引いた目で眺めていて、突然なんですが、真っ暗闇のトンネルを抜けた感じがしたんです。
 びっくりしました。
 組織変革の痛みにのたうち回り、クライアントの案件に必死に食らいついていくことを繰り返す中で、いつの間にか自社に、戦略とUXの統合を実践するプロフェッショナル集団が、存在していました。
 そして“人と人をつなぐこと”が、自然とビジネスの真ん中にありました。
 全社でそれを体現できている。
 それこそまるでスコップを突き立てたらボコッとトンネルから抜けたような瞬間が。あとは登り続けるだけの道が見えた。
 その感覚を得たころから、昔はあれだけうまくいかなかったのに、クライアントのみなさんにも、UX/UIの重要性を理解してもらうことができるようになってきました。もちろん時代の流れもあったでしょう。
 そして、社内にエンジニアが増え、自分たちの技術と力で、思い描く新しいデジタルサービスを事業化することができるようになってきました。
新たな動画コミュニケーションサービス『Feelit』。「世界中の人をつなぐ共感プラットフォームをつくる」というビジョンのもとに生まれ、短い動画をユーザー同士で送り合うことができる。
 私のこれまでの人生は、言うならば、UX/UIを真ん中に据えた事業創造にすべてをかけてきたようなものです。
 曲がりくねったトンネルを抜けて、やっとスタートラインにも立ったばかりですが、ようやく確かな足場が出来上がってきました。
 これからまだまだUX/UIの重要性は飛躍的に増していくと思います。
 私たちの変革の体験は、新たにデジタルイノベーションを起こそうとする、どの会社でも起こりうることだと思います。
 大事なのは、イノベーションのアイデアでも、デジタルのツールでもなく、「変革の体験」だと思います。
 新しい事業を生み出すのは生易しいものではない。本やネットで得られる知識だけでは乗り越えられない、ときには辛く厳しい実体験をくぐり抜けてこそ、新しい世界をつくれるのだと私は学びました。
 実際に事業創造を何度もやってみて、試行錯誤から学んだことがいかに大きかったか。
 事業創造における「変革の体験」を共有しながら、未来のUXを変えるためのイノベーションを起こして、ぜひ、みなさんと新しい時代をつくっていけたらと思っています。
 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
(編集・構成:中島洋一 コーディネート:阿部洋子 撮影:木川将史 ヘアメイク:宮坂和典[mod's hair] スタイリング:樽山リナ デザイン:九喜洋介)

ZEPPELIN代表・鳥越氏のイベント開催

「変革のダークサイドを超えていけ」
〜ZEPPELIN鳥越康平の新規事業創造 道場〜
2019年3月1日(金)19:00-21:00