1. 外国人労働者に依存する工場

米アイオワ州南東部に位置するマウントプレザント。この小さな町の端から車で3キロほど走ったところで、デイブ・ヒートン(77)の目に「Now Hiring」と書かれた求人広告が目に入ってきた。
別に珍しくはなかった。いまや食肉加工工場やウォルマートの配送センター、ピザハットの店舗、プラスチック工場など、そこらじゅうに求人広告が貼ってあるのだから。
それでも、ヒートンが町外れからさらに先で見たそのサインは、彼の注意を引いた。そんな離れた場所で見たことはなかったからだ。まるで地元企業がわれ先にと争って、できるだけ町の端に求人を出しているようだった。外から来る人たちに、最初に見つけてらえるように──。
「それだけ必死になっているということです」と、ヒートンは言う。マウントプレザントの人口は8500人ほど。過去5年間、1日平均200~300件の求人がある。
共和党員のヒートンは25年前、州議会下院議員に初当選した。当時、この町で大手の働き口といえば、スクールバス「ブルーバード」の製造工場や電子メーカー「モトローラ」の工場などがあった。だが、それらは吸収合併やアウトソーシングによって徐々に姿を消していった。
中間所得層が都市部での仕事を求めるようになった結果、小さな田舎町の労働力はどんどん縮小していった。マウントプレザントは、そんな州全体で起きていた変化の縮図だった。
それから、ちょっと妙なことも起きた。次々と工場がつぶれていった小さな町に新しいビジネスが入ってきたのだ。最初は農産物加工業だった。
食品メーカーは1990年代までに、工場を都市に置くよりも農場や家畜小屋に近い場所に移したほうが節約できるという結論に達していた。そして、さらなるコストカットのために、彼らは仕事の性質そのものを変えた。
たとえば、食肉加工工場ではそれまでスキルを必要とする労働者を数多く雇い、収入も高額だった。現在の貨幣価値だと、年収約8万5000ドルに相当する。
ところが、21世紀が始まるころには、そうした職業の大半にスキルが求められなくなってしまった。新しい工場は「流れ作業」の場になり、単純作業を一日中繰り返す、低賃金労働者たちが働くようになった。
このように労働力が縮小する一方で単純労働者の需要が拡大した結果、マウントプレザントの労働市場は一変した。多くの企業が、外国人労働者に目を向けるようになっていったのだ。

2. 不法移民に対する複雑な感情

ヒートンをはじめマウントプレザントの住民の多くは、自分たちはこの変化にほかの町よりもうまく対応できると考えていた。1970年代から80年代初めにかけて、ベトナムとラオスから難民を受け入れていたからだ。
当時、ヒートンは町で唯一の高級レストラン「アイリス」を経営し、そうした移民を雇っていた。彼らは勤勉で礼儀正しく、信頼できる最高の従業員だったと、ヒートンは話す。うち何人かとは今でも友人関係が続いているという。
一方、90年代以降にマウントプレザントにやって来た移民──ヒートンは「セカンドウェーブ」と呼ぶ──は、大半が中南米系だった。そしてヒスパニックの彼らには、アジア人とは少し違った視線が向けられた。ヒートンは町の広場にあるカフェで、こう話し始めた。
「暖かい日にここの公園に来ると、彼らはベンチで座っているんだ。ヨーロッパみたいな光景だ。彼らはアパートの中にいない。通りに出てきてダラダラと過ごしたり、スペイン語でおしゃべりしたり。英語はいっさい聞こえないね」。それがヒートンの気に障るらしい。
彼は移民問題について、州議会では移民排斥を唱える強硬派とは距離を置く穏健派だ。というのも、ヒートンは地元企業における移民労働者の必要性を知っているし、彼らを「隣人」として迎えたいと思っているからだ。
ただ、だからこそ彼らもマウントプレザントに溶けこむように努力すべきだと考えている。
「誤解しないでほしい」と、2019年で州議会議員を引退するヒートンは言う。「私が嫌なのは一つだけ。彼らは移住してくるなら、ここに溶けこまないといけない。『ヒスパニック地区』は必要ない。故郷をそのまま持ってきて暮らしているような特別な区域は要らない。混ざり合うのなら、混ざり合わないと」
ヒートンの複雑な感情は、まさに地元住民の気持ちを代弁している。多くの人は同じような意見を持ちながらも、それを公の場で認めようとはしないだけだ。
マウントプレザントは不法滞在の外国人労働者に大きく依存するようになる一方、彼らに対する不快感も抱いてきた。その矛盾した感情から目を背けることは簡単だったし、何年間もそうしてきた。2018年5月9日の朝までは──。

3. 拘束された32人中、22人がグアテマラ人

その日、町の広場から1.5キロほど離れたウェストワシントン通りにヘリコプターが降下し始めたとき、ヒートンはダイナーで食事をしていた。
ヘリの音を聞いたヒートンは、すぐに車に乗り込み、プレキャストコンクリート部材を製造する「MPCエンタープライズ」の工場へ向かった。
それは、移民税関捜査局(ICE)による強制捜査だった。ICEに協力していたのは、不法移民について長年、見て見ぬふりをしていた地元の警察官たちだった。
ヒートンは、工場の外で数十人の男性たちが後ろ手に手錠を掛けられた状態で、しゃがんでいるのを見た。多くは足かせもはめられていた。
ヒートンにとって、彼らはある意味で謎だった。その日拘束された32人のうち、22人はグアテマラ出身。しかも、同国中部の山岳地方、キチェ県から来た人が多かった。
ヒートンの頭は疑問でいっぱいになった。彼らはいったい誰なのか。どんな経緯で、ここで働くようになったのか。いったいどうやって、グアテマラの人里離れた田舎が、米中部の小さな町と深いつながりを持つことになったのか。ヒートンは考えた。
「彼らは、住んでいた場所から数千キロも北上してアメリカに不法入国したのか。家族と別れてまで自分の育った町を去るなんて、できるだろうか。彼らは想像できないほどひどい環境で暮らしていたに違いない」

4. アイオワからの仕送りで建てた家

キチェ県のチョコクスは、村と呼ぶには小さすぎる集落だ。人里離れた険しい山腹に位置し、15世帯ほどが緩やかな隣人関係を築いている。
チョコクスへ行くには、首都グアテマラシティから車で約8時間かかり、曲がりくねった道をいくつも通らないとアクセスできない。
チョコクスに一番近い集落オホ・デ・アグアまで到達すると、狭い砂利道の真ん中でくつろぐ年老いた犬に出会うだろう。犬を追い払いつつ、数分進むと、緩やかな坂道が見えてくる。ウリサル家へと続く道だ。
エルメル・ウリサル・ロペス(42)は、マンゴーの木が茂るその坂道を重い足どりで上っていった。とげだらけのサボテンを越えると、泥レンガ造りの掘っ建て小屋が見えてきた。かつてウリサル一家が暮らしていた家だ。
そこから30メートルも行かないところに新居はある。掘っ建て小屋の3倍の大きさだ。
新居はまだ完成していない。マウントプレザントのコンクリート工場で働いていたウリサルが拘束されたと同時に、アメリカからの仕送りが途絶えたからだ。ウリサルはICEに手錠をかけられてから3カ月後の2018年8月、グアテマラへ強制送還された。
新しい家の建設が途中で止まっているとはいえ、ウリサルがマウントプレザントにいた4年半の間に送金したドルのおかげで、いくつかの部屋は住めるまでに形になっていた。
それは、どこから見ても立派な家だ。本物の赤レンガにコンクリートの柱、部屋にはしっくいの壁、床には装飾タイルが使われている。表にはパティオが造られ、敷地は壁で囲まれ、ウォータータンクも設置されている。
この家を見た者は誰もが思うだろう。アメリカから送られた金で建てたに違いない、と。キチェの僻地で、こんな邸宅を建てられる手段はほかにないからだ。
ウリサルは、そこから数百メートルのところにある家で育ち、その集落唯一の小学校へ通った。彼の母親と6人のきょうだいは、まだ同じ場所で暮らしている。ここには働き口がないため、彼らは仕事をしていない。自分たちが食べるものは畑でつくる、そんな暮らしだ。

5. コヨーテに借金をして国境を越える

今から約5年前、ウリサルは隣の集落オホ・デ・アグアの友人からマウントプレザントについて聞いた。キチェ出身の人たちが小さなコミュニティを作っているという。
それは特段、珍しい話でもなかった。グアテマラの農村出身の移民たちが、アメリカで小さなコミュニティを形成していることはよくあった。
グアテマラシティの弁護士ペドロ・パブロ・ソラレスは、2008~2014年に全米を回り、グアテマラからの移民2万5000人以上にインタビューした。
ソラレスによれば、田舎から田舎への移住パターンは「ミラータウン」現象を生んでいるという。グアテマラとアメリカで小さな姉妹都市ができて、あまり気づかれないかたちで互いに助け合っているのだ。
ウリサルの友人は、キチェ出身の何人かの男性がマウントプレザントのコンクリート工場で働いていると話した。ウリサルも希望すれば、そこで職を得られるだろう、と。
ウリサルは妻のセリアに相談し、2人はチャンスに賭けてみることにした。夫妻には子どもが3人──息子1人と娘2人がいた。
彼らのチョコクスでの将来を考えたとき、ここに明るい要素はないと、ウリサルは思った。限られた教育機会、過酷な貧困など、自分たちと同じ厳しい人生が待っているだけだ。でもアメリカへ行けば、それを変えられると、ウリサルは信じた。
米国境まで2100キロ。「旅費」を捻出するため、ウリサルは土地を担保に入れて約1万ドルを借りた。不動産の所有権を、密入国を請け負う「コヨーテ」に譲渡したのだった。
コヨーテが連れて行ってくれるのはテキサス州まで。そこからアイオワ州マウントプレザントまでは自力で行く計画を、ウリサルは立てた。
ウリサルはトラックの後ろで揺られながら、いくつもの夜を明かし、グアテマラからメキシコへ抜けた。同じようにアメリカを目指す移民たちも同乗していた。
そして、2014年1月のある深夜、彼らは米メキシコ国境の街レイノサに到着した。そこからリオグランデ川を越えれば、テキサス州マッカレンだ。ウリサルたちはゴムボートに乗り込み、闇に包まれた川を渡り始めた。
ようやく対岸に着き、やぶの中をかき分けるように進んでいたときだった。米国境警備隊のヘリコプターのライトに照らされ、ウリサルは拘束された。午前2時だった。それから何日もたたないうちに、ウリサルはグアテマラへ送還され、チョコクスへ戻ってきた。
だが彼はあきらめなかった。1カ月後、再びアメリカを目指して故郷を後にした。コヨーテと交わした1万ドルの契約では、3回までの挑戦が保証されていた。ただし、3回やってもだめなら、コヨーテはそれ以上助けない。ウリサルの土地はコヨーテのものになる。
2014年2月、ウリサルは2回目の挑戦で成功した。

6. 息子もマウントプレザントへ

ウリサルがマウントプレザントで暮らしたのは、町の広場に近い場所にある、屋根の垂れ下がった黄色い家だった。その2階をほかの人とシェアした。
コンクリート工場での労働時間は1日8~10時間。ときに12時間働く日もあった。稼いだ給料から、だいたい週150ドル以上をグアテマラに送った。
グアテマラ側では、妻のセリアと息子のヴァルフレドがバイクで1時間ほどのところにある銀行で現金を引き出していた。そのうち、一家はコヨーテへの借金を返して土地の権利を回復。新居の建設が始まった。
ヴァルフレドが中学校に進学したころ、ウリサルのマウントプレザントでの生活は3年近くになっていた。ヴァルフレドは母親に、学校はギャングだらけで麻薬の密売をしろとプレッシャーをかけられていると話した。
怖くなったセリアはウリサルに相談し、「その時が来た」という見解で一致した。息子を父親のいるマウントプレザントへ行かせよう──。
ウリサルはこう振り返る。「学のない私たちにとって人生とは、斧、シャベル、つるはしです。でも子どもたちには、私たちのように苦しむことがないよう、教育を受けさせたい。だからヴァルフレドにも(マウントプレザントへ)行ってほしかった。勉強のために」
ヴァルフレドはチャンスに飛びついた。当時は、保護者が同伴していない未成年者の密入国は簡単だった。
子どもなら、国境まで到達することができれば、たいていの場合、米当局によってアメリカにいる「身元保証人」に引き渡された。その保証人自身、不法滞在者のこともあった。このため、コヨーテは大人よりも安い値段で子どもの密入国を請け負っていた。
ヴァルフレドは14歳の誕生日を迎えた1カ月後に国境まで到達。当局は彼の保護者であるウリサルに引き渡した。
2人は、ウリサルが住んでいた黄色い家の1階で暮らし始めた。ヴァルフレドはマウントプレザントの高校へ入り、英語を学んだ。
ウリサルがコンクリート工場での仕事から帰宅すると、親子は一緒に夕食をとった。チキンスープ「カルド・デ・ガジーナ」などのグアテマラ料理が多かったが、特別な日には「サブウェイ」のサンドイッチをほおばることもあった。
※ 続きは明日掲載予定です。
原文はこちら(英語)。
(執筆:Monte Reel記者、翻訳:中村エマ、写真:©2019 Bloomberg L.P)
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This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.