2008年の金融危機の渦中に「なぜわれわれはお金に翻弄されるのか」との疑問を抱いたウォール街の投資銀行家が著した『貨幣の「新」世界史 ハンムラビ法典からビットコインまで』。著者のカビール・セガールが25カ国以上を訪問し、さまざまな専門家の取材を重ねて著した同書には「貨幣の文明論」が展開されている。

ここまで見てきたように、貨幣は社会という〝超頭脳〟の変化によってその形が左右されてきた。第4回は強気の展開、すなわち技術の進歩や統合が広範囲にわたって急速に進み、世界が順調に進歩していく場合、貨幣はどのような姿に変わっていくのか予測していく。

【貨幣の新歴史】第1回:お金はハードか、それともソフトか
【貨幣の新歴史】第2回:ローマと現代、共通する貨幣戦略
【貨幣の新歴史】第3回:ソフトマネーはなぜ創造されたのか

世界に広く普及する携帯電話

強気の展開においては、お金の将来に携帯電話やタブレットなどのモバイル機器が関わってくるだろう。その傾向は先進国でも途上国でも変わらない。なぜなら、携帯電話はクレジットカードよりもはるかに普及率が高い。
国際電気通信連合によれば、世界の人口は70億近くだが、携帯電話の契約者数は68億件で、普及率は先進国で128パーセント(複数の電話を所有する人が多い)、途上国で89パーセントに達するという。
携帯機器が広く普及している状況には、起業家も注目している。クレジット産業は2011年に9000億ドルの収益を確保したが、モバイル決済システムを構築してそこに参入し、できれば数字を大きく増やしたいと意欲を燃やしている。
調査会社ガートナーによれば、現在すでにモバイル決済の利用者は世界中で1億4000万人以上に達するという。モバイル決済の取引量はカード決済の5パーセントにも満たないが、今後は62パーセントから100パーセントの勢いで順調に成長するとマッキンゼーは予測している。モバイル決済の未来は明るい。
そもそもこれらのシステムの成長は、大手クレジットカード会社の犠牲を伴わない。今日フェイスブックやツイッターは、既存のネットワークであるインターネットに依存している。
同様に、スクエア、ペイパル、アップルペイなどのモバイルテクノロジーは、VISA、マスターカード、アメリカンエキスプレスなどが管理する既存のクレジットカード(あるいはデビットカード)決済ネットワークに依存している。
銀行間取引においては、クレジットカードのネットワークがルートを緻密に設定しているおかげで、承認や決済の作業がスムーズに進行していく。信頼性も効率も安全性も抜群で、カードを受け付けない業者でさえ、その点についてはほとんど不満を口にしない。
そんな素晴らしいクレジットカードのネットワークを放棄して、新しいネットワークをわざわざ構築するとなれば、大事な個人情報や銀行口座の詳細を提供してもらわなければならず、顧客を説得するのは並大抵の努力ではない。

「モバイルリーダー」の場合

代わりに既存のシステムを利用した新しいモバイルシステムを構築する際には、取引時点、すなわち顧客が製品を購入する時点でのプロセスの簡素化と改善を目指せばよい。
モバイル決済についての理解を深めるため、ここではテクノロジーを以下の3つのグループに分類する。(1)モバイルリーダー。(2)モバイルウォレット。(3)モバイルコマースの3つだ。
モバイルリーダーを使うと、モバイル機器がクレジットカードを受け付ける。
毎日ニューヨークではランチの時間になると、私のオフィスの外に数台の移動式屋台が並ぶ。スパイシーなブリトーから甘酸っぱいミートボールまで様々な種類のおいしい食べものが販売されるが、私は滅多に利用しない。クレジットカードが利用できず、私はほとんど現金を持ち歩かないからだ。
一方、ハイテクの町として有名なテキサス州オースティンを訪れるときは、多くの屋台がクレジットカードを受け付けるのでランチを購入する。必要なのは、カードリーダーにモバイル機器を指しこむことだけ。味はよいし、決済のプロセスは簡単このうえない。
ダイナースクラブの創設者のフランク・マクナマラは現金の持ち合わせがなくて気まずい思いをしたが、スクエアの共同設立者ジム・マッケルビーも同様に、苦い経験からスクエア・リーダーを考案した。
彼はソフトウェアのエンジニアでガラス器の製造も手がけていたが、手吹きのガラス製蛇口の受注に失敗し、2500ドルをふいにした。理由は、クレジットカードを受け付けていなかったからだ。
しかしマッケルビーはこの経験をもとに新会社を立ち上げ、ひと月に10万件の業者を顧客として獲得することに成功し、年間の売上高は150億ドルを記録した。
何百万もの業者がスクエアを利用するのは、仕組みが簡単で価格設定が透明で、しかも決済の時間が短いからだ。カードリーダーのなかではスクエアが最も広く利用されているが、ペイパルのヒアやインテュイットのゴーペイメントもこの市場に参入している。

「モバイルウォレット」の場合

一方、モバイルウォレットを使えば、顧客は電話を決済デバイスのように利用できる。
ブルーボトルコーヒーで私の友人は、今はなきスクエアウォレットを使ってコーヒーを購入した。友人がコーヒーショップに入っていくと、バリスタの持っているスクエアの端末が友人の携帯電話を検知して、彼の映像がレジのスクリーンに現れる。
バリスタはその映像から友人を確認し、取引が成立した後にはクレジットカードによって料金を引き落とし、Eメールで領収書を送る。しかしこの確認方法は匿名性が確保できず、ほかのテクノロジーほど普及しなかった。
一方、近距離無線通信(NFC)を使えば、店の決済リーダーの近くで携帯電話を振りかざすだけで取引が成立する。現在この技術はグーグル・ウォレットに利用されている。ほかにはショートメールをベースにしたタイプの決済システムもあり、ヨーロッパや途上国で広く利用されている。
モバイルウォレットの仕組みはそれぞれ異なるが、カードをたくさん持ち歩く必要がなく、ペイメントネットワークに依存している点はどれも共通している。
すでに競争は激しい。アップルペイはNFCテクノロジーやアップルの膨大な顧客ベースをパスブックに役立てている。iPhoneのアプリであるパスブックを使えば、店のクーポンやギフトカードやクレジットカードの詳細をまとめて保管することができる。
一方、ペイパルのモバイルウォレットを使うと、事前に注文を入れて列に並ぶ手間を省き、ラジオシャックやフットロッカーなどの小売店で商品を直接受け取ることができる。スターバックスのモバイルアプリも、アメリカーノやマキアートの事前注文を可能にしてくれる。
そして大手のクレジットカード会社のVISAやマスターカードも、信用力のあるブランドを生かして独自のモバイルウォレットを創造している。VISAのウォレットはV.me、マスターカードのほうはペイパスという。これらのクレジットカード会社にネットワークやサービスをすでに依存している業者や銀行は多い。
そしてインターネットの普及率が低い国でも独自のモバイル決済システムが構築されつつあり、競争は世界的規模で広がっている。
たとえば日本では、すでに2000万人がモバイルウォレットを利用している。日本企業のNTTドコモはマスターカードと提携し、モバイルウォレットの技術を40カ国以上で利用できるようにしている。
結局どのモバイルウォレットが業界標準になっても、消費者や業者には勝利がもたらされる。いずれにしても取引にかかる時間、つまりルートが短縮され、生産性が向上し、潜在的顧客が増えるからだ。
しかしこれらの企業のほとんどは、顧客の行動を変化させることに苦労している。
たとえば手持ちの携帯電話にNFCチップが搭載され、デバイスを振りかざすだけで〝送金が可能〟だとしても、クレジットカードに頼る人は未だに多い。それでもiPhoneの普及度を考えれば、アップルペイは消費者の行動に変化を起こすことになるだろう。

「モバイルコマース」の場合

3番目のモバイルコマースはモバイルバンキングからモバイルショッピングまで、モバイルデバイスで行なわれる広範囲の取引を網羅している。
モバイルコマースはeコマースの売上全体のおよそ10パーセントにすぎないが、アメリカの消費者はデスクトップコンピューターよりもモバイルデバイスでのショッピング(かならずしも購入に至るわけではないが)のほうに多くの時間をかけている。
費やされる時間と売り上げとの間にギャップがあるのは、店の位置を確認し、製品を調べ、掘り出し物を見つけるために携帯電話が使われるからだ。
トップの業者のあいだではモバイルによる売り上げが2013年には60パーセント以上も跳ね上がり、342億ドルに達した。ウォルマートやターゲットやアマゾンなど大手のオンライン小売業者はモバイルウェブサイトを最適化し、急増するモバイルユーザーを対象に決済プロセスの効率化に取り組んでいる。
しかし、モバイルのコマースや決済が途上国の市民に良い影響を与えている点は、何よりも心強い。エコノミスト誌によれば、「携帯電話を使ってタクシー料金を支払うのは、ニューヨークよりもナイロビのほうが簡単だ」という。
ケニアでは、Mペサという決済送金システムがサファリコムによって立ち上げられた。店舗やガソリンスタンドに設置されたサファリコムの取次店では現金の預け入れや引き出しが可能で、そのたびにMペサの通帳の記録は更新される。
ケニアでは成人人口の60パーセント以上、実に1700万人がこのシステムを利用している。携帯電話のSMSを使うだけで、友人や家族や販売店への送金が完了する。
モバイル決済に関しては途上国が先進国よりも先行していると言ってもよい。結局、優れた金融イノベーションを持続させるために最先端のテクノロジーを開発する必要はない。タクシーの支払いなど、最も基本的な取引を簡単にするだけで十分なのだ。
「電話のなかに銀行があるのだから、わざわざ店に出かける必要はないさ」と、運送会社を経営するケニアのビジネスマンは語る。何キロメートルも離れた銀行まで歩いていかなくても、電話を操作するだけで従業員への給与の支払いも速やかに完了する。

デジタル化で消えるお金の実体

強気の展開においてはお金が消滅し、ナイロビからニューヨークまで世界中の誰もが市場で結びつく。Mペサ、ペイパル、アップルペイ、スクエアなどのテクノロジーがモバイル機器を決済システムに変更させたおかげで、お金はますますデジタル化が進み、実体がなく目に見えないものになるだろう。
お金に触らなくても、実際に目で見なくても、交換は可能だ。
生き残りに必要な資源を確保して、人間の進化を支えることがお金の本来の目的だったが、お金は抽象化する傾向を強めていく。そのプロセスのなかで取引は無駄な部分をそぎ落とされ、市場の金融調整手段としての制約から解放され、家族間でお金を交換しているような雰囲気が生まれるだろう。
携帯電話は決済に伴うあつれきを取り除き、協力を最適化してくれる。取引がスピードアップして交換が行なわれる機会が増えれば、世界全体で顧客基盤は拡大するだろう。
そして、新しい決済システムからは新しい商品やサービスが生まれる。硬貨が古代ギリシャの市場アゴラに変化を起こし、売買に携わる人が増えたように、新しいモバイル決済システムは未来のアゴラを変貌させるだろう。
しかし強気の展開のシナリオにも、若干の障害やリスクは存在している。したがってモバイル決済技術が世界中で採用されないうちに、標準化を進めておくのが賢明だろう。
目下、アメリカでは様々な種類のモバイルウォレットが利用されているが、何らかの業界標準が登場すれば、アクセスは容易になるだろう。アプリをダウンロードするだけでよいのだから。
ただし新しい業界標準のモバイルリーダーやウォレットが機能するためには、専用のチップやテクノロジーを搭載した新しいモバイルデバイスを購入しなければならない。さらに、こうしたテクノロジーを政府や銀行が脅威と見なせば、妨害される可能性も考えられる。

技術の進歩と犯罪者の選択肢

最も気がかりなのは安全面への影響だろう。
モバイルセキュリティ関連企業のルックアウトは5000万人の顧客のデータを分析し、チャージウェア、アドウェア〔ユーザーの画面に強制的に広告を表示させる代わりに、無料で利用できるソフトウェア〕、マルウェア〔悪質なソフトウェア〕が深刻な脅威になることを発見した。
チャージウェアとは、同意していないはずの顧客に料金を請求するアプリで、言うなればスリのモバイルバージョンだ。
たとえば2011年には、GGトラッカーというチャージウェアのアプリが偽のサービスへの登録に人びとを誘導し、金銭をだまし取った。アメリカのユーザーが1週間でチャージウェアのアプリに遭遇する確率は、0.22パーセントだとルックアウトは試算している。
一方、目障りで迷惑な広告アドウェアを経験する確率は1.6パーセントになる。こうした問題に遭遇する頻度は増えつつあり、潜在的影響も深刻化している。
さらに、犠牲者の個人情報を内緒で集めてしまうマルウェアも気がかりな存在だ。実際、モバイル決済で個人情報が盗まれる可能性を懸念するアメリカ人消費者が、56パーセントにのぼった調査もある。
強気の展開が実現する未来はたしかに大きな期待が持てるが、犯罪者が他人のお金を悪用するための新しい方法が提供されることも事実だ。
※ 次回は日曜日掲載予定です。
(バナーデザイン:大橋智子、写真:Easyturn/iStock)
本書は『貨幣の「新」世界史 ハンムラビ法典からビットコインまで』(カビール・セガール〔著〕、小坂 恵理〔訳〕、早川書房)の第6章「バック・トゥ・ザ・フューチャー お金の未来」の転載である。