【野口悠紀雄】日本のキャッシュレスはどこに向かうのか

2018/11/30
経済産業省の「キャッシュレス・ビジョン」で「今後10年間でキャッシュレス決済比率を倍増し、4割程度とすることを目指す」としている日本。消費税増税にともなうポイントバックの報道を受け、キャッシュレス化の話題に再び注目が集まっている。近著『入門AIと金融の未来』で1章を割いて日本のキャッシュレス化の遅れを指摘した野口悠紀雄氏に、これからについて聞いた。

優秀なATMと法規制が遅れを招いた

どの統計を見ても、日本での現金使用率は非常に高い。キャッシュレス化で、日本は明らかに他の国に比べて遅れています。
その理由は、銀行のシステムが進歩しすぎたからです。日本での銀行のオンライン化は、かなり早い時代に進んでいます。一方で、例えばアメリカでは小切手の使用が昔から行われていたこともあり、なかなか進みませんでした。
日本では ATM(現金自動預払機)が発達し、1970年代から世界の最先端にいました。ところが最終的には ATM から出てくるのは現金です。
一方、アメリカでは1998年にPayPalが創業します。クレジットカード決済のシステムの上に乗る形でさまざまな工夫をしてオンライン決済のコストを下げた仕組みで、アメリカでキャッシュレスと言うと大抵の人は PayPal のことを思い浮かべます。
例えば、仮想通貨が話題になった頃、インターネット上では「仮想通貨とは PayPal のようなものですか」という質問が飛び交いました。
これまで日本では普及しなかった理由は2つあります。1つは、 ATM があまりに便利なので使う必要がなかった。もう1つが規制です。
PayPal が日本で本格的に活動を始めたのは、2010年に「資金決済法」(資金決済に関する法律)が施行されてからです。PayPalに限らず、決済業務を行う法律上の規制が多かった。それがキャッシュレス化を阻害した面は否めません。
のぐち・ゆきお/早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問、一橋大学名誉教授
1940年生まれ。63年東京大学工学部卒業、64年大蔵省入省。72年イェール大学Ph.D(経済学博士号)を取得。一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学ファイナンス研究科教授などを経て、2011年から現職。専攻はファイナンス理論、日本経済論。『入門 AIと金融の未来』など著書多数

途上国で起きた「カエル跳び」

そのころ世界では何が起きていたか。例えばケニアでは2007年、携帯電話のSMS(ショート・メッセージ・サービス)で送金するM-PESA(エムペサ)が始まります。
技術的に遅れていた国などで新しい技術が社会に一気に広まる現象を、カエル跳びに例えてLeap Frog(リープフロッグ)と呼びますが、銀行が未発達な国々は、一気にキャッシュレスに移行しています。
(reptiles4all/iStock)
中国でもリープフロッグが起き、アリババ・グループの子会社アント・フィナンシャルが運営する電子マネー「アリペイ」が、E コマースの決済を超えて普及しています。携帯電話の番号がアリペイの口座番号代わりになり、簡単に送金できます。
大手IT企業のテンセントの「ウィーチャット」という電子マネーとアリペイと合わせると、人口14億人の中国で、利用者は10億人をかなり超えると言われています。
さらにアリペイはQR コードから顔認証の技術にも力を入れています。これによってまず、無人店舗が可能になります。さらに使用データをビッグデータとして活用できるので、すでに融資の際だけではなく、さまざまな場合に信用スコアリングとして利用されています。
北欧でもキャッシュレス化が進んでおり、スウェーデンの現金使用率はわずか2%と言われています。スウェーデンの6つの銀行が共同開発した「Swish(スゥイッシュ)」という決済システムで、金額と送金先の電話番号の入力で送金できます。

GAFAの寡占化とキャッシュレス

そうしたグローバルな動きの中で、キャッシュレス化が遅れていることの何が問題なのかを考えていかなければなりません。
まず、言わずもがなですが、現金を使う社会は非効率です。労働力の不足が顕在化してくるにあたって、 業務の効率性向上のためにはキャッシュレスの導入が急務です。
次に、これが重要だと思うのですが、オンラインショッピングの際の信用の問題です。相手が Amazon であればクレジットカード番号の登録に抵抗がなくても、知らない相手に教えるのには、不安があるかもしれないでしょう。
(Poike/iStock)
つまり、インターネットを介し、クレジットカードが主な決済手段であるサービスにおいては、大きな企業の方が信頼されやすく、競争上、優位に立ちます。
この点、PayPalは画期的です。PayPalアカウントに登録しておけば、はじめてのECサイトでもアカウント情報の入力なしに決済できるので、信用の問題の解決策の1つになっていると言えます。
トーマス・フリードマンが、著書『フラット化する世界』の中で個人の働き方、企業のビジネスモデル、国家のシステムが猛烈な勢いで「フラット化」に向かうと書いたように、インターネットによって世界はフラットになるだろうと考えられていました。
ところが実際にはアメリカのIT系企業4社のGAFA(ガーファ。Google、Apple、Facebook、Amazonの4社の総称)の企業価値が時価総額ランキングの上位を占め、市場を寡占しているのが実情です。

社会のフラット化が進む

この状況を変えるにはどうしたらいいか。相手を信頼しなくても送金ができる手段が必要で、私が期待しているのは仮想通貨です。暗号で保護されていますし、取引の記録がブロックチェーンの上で残され、書き換えは不可能です。運営主体がいなくても正しい取引が可能になります。
仮想通貨が決済の手段として広く使われるようになるなら、個人が自分のウェブサイトでものを売って稼ぐということも可能になり、大企業の優位性が消滅すると考えています。サービスを無料で提供して広告で稼ぐビジネスモデルも成立しづらくなるため、インターネット上のビジネスモデルは有料化に移行することになる。これは非常に大きな変化です。

「究極のキャッシュレス」とは

今まで話したのは、ビットコインに代表される、誰でも自由に出入りできるパブリックブロックチェーンです。
それ以外に、銀行による仮想通貨があります。日本ではメガバンクが仮想通貨を発行すると報道されています。ビットコインがなぜ投機の対象になったかと言えば、価格が大きく変動したからでした。価格の安定化は決して容易ではありませんが、銀行の仮想通貨はそれを目指しています。
もうひとつの可能性は、中央銀行による仮想通貨の発行です。実際、イギリス、スウェーデン、中国などでは検討が進んでいると言われています。
もし日本銀行が仮想通貨を発行するとしたら、今の日本銀行券に代わるものになるので、社会には非常に大きな変化が起きます。例えば、市中の銀行が必要なくなり、消滅するといった事態が生じ得ます。
(fatido/iStock)
また個人のプライバシーの問題もあります。中央銀行が仮想通貨を発行する場合、秘密鍵を企業や個人に配布することになりますが、本人確認を行えば、中央銀行は企業や個人のあらゆる取引を把握することになってしまいます。
そのような社会が望ましいのか。中央銀行の仮想通貨発行は「究極のキャッシュレス」ですが、踏み切れないのは、こうした事態にどう対処するのかということがあるからです。キャッシュレスは便利な半面、極めると恐ろしい一面も生まれてしまうということです。

「消費税ポイント還元」の真価は

消費税増税にともない、キャッシュレスサービスを使ってポイントバックを行う案を政府が検討しています。これが消費量の総量に影響を与えることはないでしょうし、あっても反動減があるでしょう。しかし、これを日本でキャッシュレス化を進める取りかかりにできるならば、大変大きな意味があります。この機会にさまざまな取り組みが行われることを期待します。
ただ、これだけ日本への観光客が増え需要があるので、日本の店舗がアリペイへの対応を始める可能性はあるでしょう。一気に普及するようなことがあれば、ポイントバックはアリペイで行います、ということも起こりうるかもしれません。
オリンピックの1年前でもある2019年は、ターニングポイントの年になるとみています。私が考えている日本のキャッシュレス化のベストシナリオは、ビットコイン型の仮想通貨が普及することです。先ほども話した、誰でも自由に出入りできるパブリックなブロックチェーンで、ほとんどゼロのようなコストで取引ができることです。
量子コンピューターが現れると、インターネット上の暗号が解読されてしまう可能性があり、そうなると今のビットコインの仕組みは成り立たなくなってしまいます。しかし、それに対応した新しいタイプのブロックチェーンも考えられているようです。新しい技術で、そうした時代が早く来ることに期待しています。
(執筆:阿部祐子 編集:久川桃子 撮影:北山宏一 デザイン:九喜洋介)