「超監視社会」に求められる議論の作法とは

2018/7/12

スマホを持つ人すべてが「監視カメラ」状態

九州のある田舎町で最近殺人事件が起こった。田舎道を行く通行人は少ないが、都会と同じように町には監視カメラが設置してあるため、犯人もすぐに特定できるはずと思われた。
ところが、カメラはダミーだったのだ。今回の事件のせいでそれが発覚し、意味がなくなってしまった。なんとも牧歌的な話だ。
しかし都会ではそうはいかない。至るところに本物の監視カメラが設置されているだけでなく、道行く無数の人たちが、皆、“歩く監視カメラ”なのだ。
人々はスマホを片手に歩いている。ひとたび何かがあると、一斉にカメラが向けられる。いや、何もなくても彼らが日常的に撮影したもののどこかに犯人の手がかりがある。
(写真:metamorworks/iStock)
これは犯罪だけの話ではない。プライバシーもそうだ。いつどこにいても、誰かに見られ、記録されているのだ。
CIAの元分析官エドワード・スノーデンがアメリカ政府による大量監視を告発して以来、権力が私たちのメールやSNSなどのすべてのやり取りを監視しうるという事実が白日の下に曝された。
インターネットはすべてがつながっているところに利点がある。ということは、インターネットを利用している限り、自分の情報はネットのユーザー全員につながっているわけだ。
後はそれを見るかどうか。それは技術的な問題ではなく、意志の問題になってくる。

超監視社会を生み出しているものとは

かつてフランスの思想家ミシェル・フーコーは「パノプティコン(panopticon)」──一望監視装置の概念を使って、近代社会の監視社会化を暴いてみせた。
私たちは中央の監視塔から監視される独房に棲む囚人と同じなのだ。監視カメラの向こう側にある権力が、常に私たちを監視している。
これに対して、ノルウェーの社会学者トマス・マシーセンは、テクノロジーによって今や多数者が少数者を監視することが起こっているとして、これを「シノプティコン(synopticon)」と呼んだ。
たしかに、先ほどのスマホを見れば明らかなように、誰もが1人の人間の動向をのぞき込み、いちゃもんをつけることができる。いわば「大量による監視」だ。
こうして大量監視と大量による監視の共犯関係が、超監視社会を生み出しているといってよい。この筒抜けの時代をどう生きるかは、もはや人々の意志に委ねられたのである。見るのも見られるのも自分の意志次第なのだから。
正確にいうと、見るのは自分の意志で、見られるのは拒むことはできない。ただ、見られてどう感じるか、どう振る舞うかは自分次第ということになる。
かねてから私は、だからこそより一層の寛容が求められると論じてきた。プライバシーなき透明な時代だから、いちいち人の言動に過剰に反応するのはやめようということだ。
「お前は全然わかってない」と言う必要もないし、「うるせぇ」と目くじらを立てて反論する必要もない。そうでないとお互いに炎上に無駄なエネルギーを費やす羽目になってしまうからだ。何しろ透明な時代だからケンカの種はそこら中にある。

プライバシーなき時代の正しい議論

求められるのは、建設的な議論だけだろう。このNewsPicksがただの中傷合戦の戦場と化してしまわないのは、プライバシーなき時代の正しい議論の仕方をわきまえた新しい人間が集っているからではないだろうか。古い「おっさん」精神に別れを告げた新しい人間たちが。
私は日ごろ「哲学カフェ」を開いているのだが、そこでは中傷は一切ない。お互い顔を見合わせてやるリアルの場だからという特性もあるのだが、それ以上に議論のルールを徹底しているからだ。
それは①難しい言葉を使って煙に巻かない、②おっさんみたいに人の話をさえぎらずによく聞く、③全否定をせずに違いを指摘して、建設的な議論をするの3つだ。
たったこれだけのことで、対話の場が開かれ、議論は建設的になる。
透明な時代は、たとえバーチャルな環境であってもリアルと同じ状況をもたらす。お互いが見えているのだから。
とするなら、そこで求められる議論の作法も、リアルな社会で求められるものと同じということになるのではないだろうか。
*本連載は毎週木曜日に掲載予定です。
(執筆:小川仁志 編集:奈良岡崇子 バナー写真:Akabei/iStock)