なぜ“自動運転”の議論はかみ合わない? レベル3とレベル4を分けるのは
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注目のコメント
(過去コメント再掲しますね)
SAEが自動車運転のオートメーション6段階レベルを2014年に発表したときには、工場における段階的オートメーションがアタマのどこかにあったのだと想像します 工場では一部自動化といっても、ヒトがやる部分ときっちり区切らており(殆の場合柵で)、運転の一部自動化とはワークシェアリングのモードが大きく異なります 今更ですが、言葉の定義をもう少し考えるべきだったのかなぁ、と SAEの構成員が、実質的に既存の自動車カイシャ関係者のみからなるのも遠因かと レベル2-3のクルマが販売され、公道を多く走ることになる(そして人身事故を起こす)のを想像なさってなかったのかもしれませんねぇ、ご自身のカイシャではありえないだろうことなので
(これも過去コメント)
こういう記事を見ると、やっぱり運転自動化レベル定義における、SAEの言葉の選び方に問題があったような気がしてなりません そもそも業界内での開発ロードマップ用だったはずが、想定外に売り急ぐカイシャが出てしまったために、マーケティング用に使われ始めたのもあるかと各国専門家の間で話題となっているのは[How safe is safe enough ]という考えだ。どの程度まで安全性を補償すれなよいのか。レベリングはあくまでも自動化のレベルであって、クルマの価値を決めるものではない。さらに識者の中でもレベル3が難しいという話しはよく聞くが、T社も含めてメジャーメーカーはレベル3を真剣に取り組んでいる。レベル2を高度化してからレベル4にアップグレードする考えもあるが、これはドライバーを性善説として捉える考えで、現実的ではないと思う。メルセデスも高度なレベル2はかえってドライバーが混乱すると考えている。実際問題、初期的なレベル3なら可能だろう。どんなレベル3なのか、どんな機能をもたせればレベル3となるのか、議論は白熱しているとおもう。もういちど言うとHow safe is safe enoughが極めて大切で、これが決まらないと基準・標準化が進まない。
有事の際に、AIがドライバーにオーバーロードを求めてくる。ここがやっかいです。日本の規定では、「十分に余裕を持って」AIが運転手に運転交代を要請するとしていますが、いざという時に、そんなことが可能なのか?
十分に余裕を持ってと言われても、受け止めは人もAIもそれぞれです。この抽象的な表現が理解をより一層難しくさせています。