明石家さんま、島田紳助たちの「生きる力」

2018/7/29

大学の求人票を見て吉本に入社

大学時代はバイトとサーフィンばかりしていました。
こういうとまるで華やかな遊び人のようですが、実際は年下の同級生たちになじめず、一人でできるサーフィンに没頭していたというだけです。
就職のことを考える時期になって、ある日、友達の甲斐くんとしゃべっていたら、甲斐くんが「俺、ナベプロを受けようと思う」と言う。
「ナベプロって、芸能プロダクションの渡辺プロか。へえ、面白そうやな。じゃあ求人票を見に行こうか」
とその足で大学の就職部の掲示板を見に行くと、ナベプロの求人票がちゃんとあった。そして僕の目にとまったのが、そのそばに貼ってあった、「吉本興業株式会社」の求人票だったのです。
子どものころから吉本には馴染みがあるし、聞けば吉本は土日が休みではない代わり、都合がつけば1週間まとめて休んでもいいという。
「この会社なら平日にサーフィンに行けるなあ」
そんな理由で入社試験を受けたところ、なぜか合格になりました。1978年のことでした。

「生きる力」が強い芸人さん

当時の吉本興業は社員100人にも満たない中小企業です。新入社員は僕を含めて3人。
研修が終わると僕たち新入社員は、それぞれ吉本が経営する「なんば花月」「うめだ花月」「京都花月」という3つの劇場に割り振られることになりました。
僕はそれまで知りませんでしたが、当時、この劇場には「格の違い」があったようです。
同期の一人の田中宏幸くんは、京大卒のうえにロンドン留学もしたエリートですから、3つの劇場のうちでも最も格上の「なんば花月」に配属になり、僕と同じ関大卒の水上晴司くんは、「うめだ花月」へ。僕は最も格下の「京都花月」に行くことになりました。
当時の吉本では、売れっ子を担当すれば、担当した社員の評価も自動的に上がるしくみです。そういう意味では、新入社員のなかでも最も出来が悪い僕にふさわしい配属だったのかもしれません。
僕はもともと吉本に入りたいとか、タレントのマネジメントをしたいとか、そんなことはこれっぽっちも思っていませんでした。
関西人だから吉本のお笑いに馴染みはあったけれど、お笑いが好きで好きでたまらないというわけでもなかった。
それでも僕は、だんだんこの仕事にやりがいを感じるようになっていきました。
それは当時デビューしたばかりだった島田紳助や明石家さんまなど、芸人さんたちの存在に刺激を受けたからです。彼らは僕と年齢が近かったからか、
「大﨑くん、僕、いまこんなことを考えているんやけど、こんなん、せえへんか」
「大﨑くん、一緒にこんな企画やらへんか」
と声をかけてくれるようになりました。
(えっ、俺? 俺を頼ってくれるの? 白痴美の大﨑と言われていた俺に?)
それがこの世界でやっていこうと思える力になりました。