3.11から7年、原子力を塩漬けにする日本的思考
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日経エネルギーNextで新たに個人連載させて頂くことになりました。
第1弾は震災・原発事故から7年間のエネルギー政策を振り返り、総点検した上で、そこに横たわる「モヤモヤ感」や、抜け落ちている議論について書いてみました。
ご笑覧下さい。
山下さん
ご指摘ありがとうございます。
私の解釈が間違っているのかも知れませんが、原子力賠償機構法成立の過程で、原賠法3条1項の但し書きにある東電の免責を取らず、本文適用をしたという意味において、一義的責任を東電に負わせた上で、賠償機構(当時、現在は「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」)を通じて政府が間接的に支援する枠組みとなった、と理解しています。
また、今回の震災が但し書きの適用の検討の余地があるかないかについて、意見が分かれているものと承知しています。
但し書きの精神は、事実上国策で設置した原発を民間企業が運営するという事業の特殊性を鑑みて、民間企業では負えないリスクの対処まではしなくていい(つまり、事実上国が賠償責任を負うということだが、法律に明記されてないのでそれはそれで問題)、というものだと思います。
追記(2018.12.26)
塩漬けにしているのは原発ではなくモヤモヤ感。
この記事で書いてますが、私は安全保障問題があるから原発を推進すべきなどと短絡的には考えていません。皆さん脊髄反射なので、なかなかそこまで読み取ってはもらえませんが。
寧ろ、大きな政治的関与と管理が必要で、安全保障上の思惑が絡むからこそ、中途半端なエネルギー源としての原子力利用は様々な歪みを生み、技術的なメリットよりも社会コストが大きい過ぎるかも知れないと感じています。なんというか、人や組織をダメにしますね。
私が強調したかったのは、現在を作って来た先人達の努力に対しリスペクトを持った上で、新たなオプションへの総合的な判断を(できれば国民的なコンセンサスを経て)行うべき時が来つつあるなと言う事です。
そして、原子力はエネルギー・環境・安全保障政策の根底にあるからこそ、仮に放棄のオプションを取るとすれば、広範にわたる国家戦略の大きな変更(ないし再検討)を意味します。その変更コストの議論抜きに、脱原発は語れません。大場さん、頑張ってますね。
震災/福島第一事故からの行政の功罪は、
- 原子力が安全と言い続けた政府が責任を放棄して、民間企業に押し付けた。
- 90年代に実施して東電以下電力会社のロビーイングで骨抜きにされた、電力自由化のリベンジに利用した。
- 事故責任を押し付けた東電を実質経産省のコントロール下に置き、自由化のモデルケースにしようとした。
- 当時欧米の2倍近い高価格でFITを導入し、ソーラーやバイオマスのバブルを誘発し、発送電分離をややこしくした。
- 原発に関しては、「重要なベースロード電源」と言いながら、積極的な対応を回避した。
結局、「原発をどうするの?」が進展しないから、他の大型発電設備への投資も進まず、バブリーな再エネだけが拡大する異常事態。
国民の忘却をあてにせず、国の原子力政策を今毅然と表明、実行しないと、2020年の完全自由化は相当な負担を事業者/国民に強いる。論点がわかりやすくまとめられています。近年、国際社会の日本のエネルギー政策への関心も低下しています。中国や欧州諸国が脱炭素を明確に打ち出すなかで、日本だけ議論の蚊帳の外という感じです。エネルギー関連事業は世界的にも成長が期待される分野なので、国内のみならず世界戦略という観点も忘れず、日本のエネルギーの行き先をしっかり議論してほしいです。