テクノロジーと本能。感性が動き出す、満ち足りた瞬間とは
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「ふだん用いない言葉の刺激を受け、自分の中にすでに準備されているものと“つながり”、インスピレーションになることがよくあります。」
→これには共感できる。何かを追い求めている時、何かをアウトプットしようと思った時(それが服であっても、思考であっても)こういう感覚を得られる瞬間がある。逆に言えば何かを追い求めない限り、解を求めようとしない限り、このような感覚にはならない。
「──どういう状態が、より集中している状態といえるのでしょうか。
心の存在を手放している状態です。集中とは、心という鎧(よろい)から解き放たれるという意味と同義だと思います。」
→これはマインドフルネス瞑想ビギナーの自分にはちょっと咀嚼し切れないのでそう遠くない未来の自分にパス。
注目のコメント
紫舟さんは撮影場所に現れた瞬間から
独特なオーラを放っていて、
もうすでに「高レベルな集中下」にあったのだと
取材後に納得。
以前、恐山院代で曹洞宗の僧侶、南直哉さんの
本を作らせていただいたことがあり、
そのご縁で坐禅指導を受けたことがあったのですが
私のような「凡夫」だと、
坐禅中、いろんな雑念が浮かんできて
思考も感情もせわしなくて仕方ありませんでした。
しかし、坐って30分が過ぎたころから
心に小さい凪が訪れたのを覚えています。
紫舟さんは「坐禅で心が静かになったような状態」が
デフォルトなのだから、
作品に集中しているときは特別で
想像のつかないような「静寂」が訪れているのでしょう。
一切の計算を許さないその時間は
見えないものに突き動かされる
まさに「本能」なのだと感じます。
「命毛(いのちげ)」という穂先の先端にまで
感性をみなぎらせて、
墨の一色で、ひと筆で書ききる。
何度も色を重ねる西洋人にとって
確かに「書」は不思議なアートなのかもしれません。
AIは基本受け身ですが、
「発露」があるのが人間らしさ、
ということに深く納得した取材となりました。まあ、でも感情というものはそれをロジカルに説明した途端本来感じたものとは別物になります。ロジカルの対極にあるものこそが感情なので。人は嫌いなものは理路整然と説明できますが、好きなものを説明することは苦手なんです。
「特に、小さな子どもはこういった熱量の多い作品の前に座り込みます。幼稚園児が1時間も見ている作品もありました。」(記事抜粋)
子どもたちは、作品を見ているのではなく、自然物というか「若葉が芽吹く」のか「枯れ葉が落ちる」のか、描かれた物に自然物の光景を見ているのかもしれませんね。それだけ凄みのある逸品。幼少の頃にそういう「文化」に触れる機会があるということは非常に重要なことであると考えます。内容が分からなくても、美術館、博物館に行ってできるだけ多くの熱量に触れる、そんな非日常が有意義です。
様々な集中力とは、改めて思い返すこと、認識することの重要性を感じました。私の思い出深い集中力、車の免許を取ったばかりで軽四しか慣れていなかった時に、親のクラウンを運転させてもらい松山道(高速道路)の片側一車線しかないトンネルを走った際は本当にしぬかと思いました。なんでこんなにハンドルが軽いのか!その時の??な集中力は今でも活きていますね(あはは失礼)。