究極の個人情報提供に強い抵抗

グーグルの持ち株会社アルファベット傘下の英ディープマインドは、人工知能(AI)であらゆることを解決したいと考えている。同社が開発した「アルファ碁ゼロ」が昨年、独学で囲碁を学び、世界最強の棋士に圧勝したニュースは記憶に新しいところだ。
そんなディープマインドが次のターゲットに考えているのは、囲碁よりもずっとリアルな課題、ヘルスケアだ。
ロンドンにあるディープマインドのヘルスケア部門は急拡大しており、現在100人を超える。アルファ碁ゼロが現実的な用途を見つけるには数年かかるかもしれないが、ヘルスケア部門は英国民保健サービス(NHS)と協力して、人々の生活にリアルな影響を与える可能性が十分ある。
ところがこの分野の初プロジェクトは、個人情報と倫理問題という大きな氷山にぶつかってしまった。この論争は最終的に、AIでヘルスケアに革命を起こすというディープマインドの野望を大きくへこませる恐れがある。
英政府の個人情報保護機関である情報監督官局(ICO)は今年7月、約1年に及ぶ調査の結果、ロンドンのロイヤルフリー病院が過去5年間の患者160万人分の医療情報を違法にディープマインドに提供していたとの判断を下した。
ディープマインドは、これらのデータにアクセスしたのは同社のヘルスケア用モバイルアプリ「ストリームズ」の安全性試験のためだったと反論。ロイヤルフリー病院も、ICOの判断を受け入れるとしつつ、「ストリームズ」の安全性を別の方法で調べられたのではないかという指摘には反論した。
ストリームズは、医者や看護師が患者の医療記録を即座にチェックしたり、データに基づき、悪化リスクの高い患者を医師や看護師に知らせるモバイルアプリだ。ディープマインドはまず、急性腎障害(AKI)のリスクが高い患者を医師や看護師に知らせる仕組みを作った。
ICOは、問題の情報提供はロイヤルフリー病院の問題であり、ディープマインドは病院の指示に従っただけと判断して、同社に対しては処分を下さなかった。
だが、ディープマインドは自分たちの過ちを認めている。
「このプロジェクトが2015年に始まったとき、私たちは成果を急いで、NHSと医療記録に関するルールの複雑さや大手テクノロジー企業がヘルスケアに参入することへの抵抗意識を過小評価していた」と、ディープマインドの共同創業者で、このプロジェクトを率いるムスタファ・スリマンと、ドミニク・キング臨床部長は声明で述べている。
ディープマインドのつまずきは、ヘルスケア業界に進出をもくろむテクノロジー企業全体に影響を及ぼす可能性がある。その数は少なくない。
IBMはAI「ワトソン」によって、医者が最善の癌治療法を見つけるのを支援するという。ゲノム研究の草分けであるクレイグ・ベンターのスタートアップ、ヒューマン・ロンジビティー社は、患者のDNAに合わせた治療法のカスタマイズを目指す。
アルファベットも、ディープマインドのほかに医療機器用ソフトウエア開発のベリリー(Verily)、不老不死を研究するカリコ(Calico)と、ヘルスケア分野で3つの大きな賭けをしている。
その成否は、アルファベットの経営に影響を与えるだけではない。たとえばNHSは、英国の人口高齢化と予算不足に対処するため、テクノロジーの導入に賭けている。
その一方で、テクノロジー企業がヘルスケアに参入することへの一般の不信感は小さくない。ロシアの米大統領選介入から、アップルとグーグルの脱税問題まで、インターネットやテクノロジーがらみのスキャンダルが相次ぐなか、もはやテクノロジー企業は善意(あるいは中立)の存在とはみなされなくなった。
2012年に設立されたディープマインドも、本人たちはスタートアップという意識が強いが、客観的にみれば巨大コングロマリットであるアルファベットの一員だ。
また、「迅速に動いて、既存の業界を破壊しろ」というシリコンバレーの手法は、これまではうまくいったかもしれないが、ヘルスケア業界には当てはまらないことをディープマインドは実感しつつある。

AIでスキャン画像を分析

母親が看護師だったスリマンは、2014年にディープマインドがグーグルに買収されると(買収額は4億ポンドとされる)、すぐにヘルスケア分野に狙いを定めた。だが、「これほど技術投資をしているのに、これほどリターンが乏しい分野はない」と、今年8月のインタビューで語っている。
報道だけみると、ディープマインドは米ドラマ『Dr.HOUSE/ドクター・ハウス』に出てくる天才診断医のAI版を開発しようとしているかのような印象を受ける。主人公のハウスは、どんなに謎の症状も原因を突き止める。
だが、そんなのは「まったくナンセンス」だとスリマンは言う。「そうした総合診断に到達する前に、解決しなければならない難題が山ほどある」
ディープマインドの真の狙いは、ロンドンのムアフィールズ眼科病院でのプロジェクトから窺い知ることができる。
分厚い医学書が散らかるオフィスで、ピアース・キーン医師は、コンピューターに映し出されているOCT(光干渉断層計)画像に見入っていた。「これのおかげで、網膜における出血や血液成分の漏出がわかり、最も一般的な失明の原因を発見できる」
ムアフィールズ眼科病院とディープマインドは、AIにOCT画像を分析させる研究をしている。このプロジェクトは「目覚ましい」成果を上げており、数カ月以内に正式に発表したい考えだと、キーンは言う。
ほかにもディープマインドは、ロンドンの2つの大学と協力して、AIが医者並みに(あるいはそれ以上に)頭や首のスキャン画像やマンモグラフィー画像を分析できるか調べる計画だ。
それでもAI医療機器の商品化はまだずっと先の話になるだろうと、ディープマインドは考えている。ロイヤルフリー病院に導入されたストリームズはAIを使っていない。当初ディープマインドは、AKIを発見するNHSのアルゴリズムを、機械学習技術によって改善するプロジェクトを検討したが、これは進んでいないという。
というのも、NHSのアルゴリズムはそんなに悪いものではなかったし、ディープマインドがロイヤルフリー病院を訪れたとき、老朽化したテクノロジーや複雑な作業工程など、この病院が抱えるもっと大きな問題に気がついたからだ。
煩雑なプロセスのために、たとえば血液検査の結果に基づき、医者や看護師が行動を起こすまでに、あまりにも多くの時間がかかっていた。医療現場の真の問題は「もっとずっと泥臭く実務的なものだ」と、スリマンは語る。
そこでディープマインドは、こうした泥臭い問題に取り組み始めた。その成果は表れつつある。
今年8月、腎臓移植手術を受けた患者の腎臓が突然機能不全に陥った。病理検査医が血液検査の結果をデータベースに入力すると、NHSのアルゴリズムがそのデータを分析して、セーラ・スタンレー看護師の携帯にアラートを送った。
スタンレーがストリームズのアプリを開くと、血液検査の異常な結果を示すグラフが表示された。スタンレーはそのアプリを使って、患者の容体を調べるよう別の看護師にメッセージを送った。
「30秒もしないうちに、その患者をトリアージできた」とスタンレーは語る。以前なら4時間かかっただろう。AKIの場合、数時間の対応の遅れが命取りになりかねないと、スタンレーは言う。

グーグルに情報が流出する不安

ディープマインドは、ストリームズの開発をめぐる議論に区切りをつけて、先に進みたいと考えている。
2016年11月、同社はロイヤルフリー病院と新たな5年契約を締結した。以来、新たな病院と契約を結んだ場合は、その内容を公表してきた。社外委員からなる調査委員会も設置して、業務内容を毎年チェックしてもらい、その結果も公表している。
今後はデジタル台帳システム(ブロックチェーン技術と似たものだ)を構築して、NHSの系列病院が患者データにアクセスした人物を追跡調査できるようにする計画もある。
それでも、ディープマインドの批判派は納得がいかないようだ。ケンブリッジ大学のジュリア・ポウルズ教授(法学)は、ディープマインドの新しい契約は、患者データを関連会社であるグーグルに提供しないという明示的な禁止条項がないと指摘する。
これに対してディープマインドは、これまでにグーグルに患者データを提供したことはないし、今後もないと断言する。しかしポウルズは「契約に明記していない以上、彼らの言うことを信じることはできない」と言う。
またポウルズは、ストリームズがAIを使用していないことを考えると、ディープマインドが最善の提携相手といえるのかと疑問視する。他の会社もこのプロジェクトに参加するチャンスを与えるべきだったのではないかと言うのだ。
ディープマインドは各病院にストリームズを無料で提供しているが、ポウルズはこの点についても、親会社がアルファベットだからこうした赤字覚悟のシェア拡大策を取れるのであって、不正競争ではないかと指摘する。
そして、最終的にディープマインドが市場価格で課金を始めたとき、病院側はすでにディープマインドのシステムに依存していて、莫大な支払いに窮することになるのではないかと危惧する。
またロイヤルフリー病院は、ディープマインドがストリームズから得るいかなる利益の分け前にもあずかる資格がない。これについてジョン・ベル英医療研究戦略連携局(OSCHR)局長は最近、NHSはそのデータを利用して開発されるAIについて経済的権利を維持するべきだと勧告した。
ディープマインドはこの問題について「わが社はこれまで、プロジェクトの初期段階にわが社のリソースや技術をNHSの系列病院に無償提供することが、大衆に価値を提供する正しい方法だと考えてきた」とメールで回答した(ただしその手法を変更する可能性についてはオープンな姿勢を示している)。
一方のロイヤルフリー病院は、ディープマインドとの「契約条件に満足している」との声明を出している。
こうした議論をよそに、ストリームズを採用するNHS系列病院は増えている。スリマンによると、米国の医師からも関心が示されているという。
とはいえ、個人情報問題のため、近い将来ヘルスケア商品にAIを組み込むのは難しくなったかもしれない。ストリームズを採用するトーントン・サマセットNHS財団病院はAIと関わるつもりは一切ないと、同病院のトム・エドワーズ臨床情報責任者は語っている。
一方、英国の慈善団体ウェルカム・トラストが運営するプロジェクト「アンダースタンディング・ペイシェント・データ」を率いるニコラ・ペリンは、ロイヤルフリー病院で起きた問題のせいで、英国の病院が人命を救えるテクノロジーを導入する時期は遠のいたと危惧する。
「すぐれた専門性とリソースを持つ企業がヘルスケア分野に関わりたがっていることについて、警戒しすぎないことは重要だと思う」
ヘルスケアは「とてつもなく価値があり、とてつもなく破綻しており、将来AIで改革する巨大なチャンスがある分野だ」と、スリマンは語る。だが今すぐではない。ディープマインドは、いざAIを組み込んだとき万全の態勢が整っているように、ストリームズのような製品でこの分野に「早期参入」しているのだという。
ディープマインドが、ヘルスケア分野からまともな収益を上げるのは「何年も先になるだろう」と、スリマンは語る。同社の2016年の売り上げは4000万ポンド(約60億円)だったが、このうちヘルスケア部門の売り上げはゼロで、赤字は9400万ポンド(約142億円)にのぼった。
どうやら医療のエクスペリエンスを変えて、そこから利益を上げるための「学習」は、世界最強の棋士を倒すよりもずっと難しくなりそうだ。
原文はこちら(英語)。
(執筆:Jeremy Kahn記者、翻訳:藤原朝子、写真:Ociacia/iStock)
©2017 Bloomberg Businessweek
This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.