【第6回】企業による「復興支援活動」のリアル

2017/7/9
地域再生には、「よそ者、若者、ばか者」が必要とよく言われるがそれは本当なのだろうか。修羅場のリーダーシップとはどのようなものなのだろうか。35歳で縁もゆかりもない陸前高田市の副市長を務め、現在、立命館大学公共政策大学院で教鞭をとる久保田崇教授が、陸前高田でのリアルな体験を振り返りながら、「よそ者のリーダーシップ」の真髄について考える。

これからは『被災地』間の競争

「これからは、ある意味『被災地』間の競争です」
この言葉は、『週刊SPA!』2012年6月5日発売号でエコノミストの飯田泰之駒澤大学(現明治大学)准教授と評論家の荻上チキさんのインタビューに答えた際にお話しした言葉です。
震災から1年が過ぎると、報道機関が岩手支部を撤退・縮小し始めました。また、支援団体に話を聞くと、「支援できるのは、被災地で1カ所だけ」と言われることがありました。
東日本大地震に関連して、企業のCSR活動の一環として、様々な復興支援活動がありました。しかし、支援を受ける側として、ただ単に「待っている」だけではダメだと強く感じました。
被災地はそれぞれどこも大変なのだから、内部で足を引っ張り合うようなことはしたくないのですが、現実には、支援する側の事情などから、意図せざる競争に巻き込まれるケースもあったのです。
今回は企業の復興支援活動がテーマですが、まずは私が最も印象に残っている話から始めたいと思います。

中学校サッカー部がドイツに招待される

2013年8月3日から13日までの11日間、アディダスジャパンの招待により、陸前高田市立第一中学校サッカー部の生徒14人、コーチの松本正弘さん、陸前高田市の副市長であった私の16人は、アディダス本社があるドイツのバイエルン州郊外にあるヘルツォーゲンアウラッハとミュンヘンを訪問しました。
アディダス社の招待によりドイツのブンデスリーガ開幕戦を観戦。前列右からサッカーコーチの松本正弘氏、筆者、アディダスジャパンの久保田万美氏、番場三千世氏。2013年8月アリエンツ・アリーナにて撮影。
ドイツでは、アディダス本社見学のほか、アディダス契約の清武弘嗣選手との懇談やブンデスリーガ開幕戦である「バイエルン対ボルシアMG」の観戦、現地でのサッカー練習や親善試合などを行いました。
このとき招待された市立高田第一中学校も含め、陸前高田市内の学校のグラウンドは仮設住宅で埋め尽くされており、部活動や体育などスポーツ活動に支障が生じています。
そのような環境で、好きなサッカーに十分に取り組めないサッカー少年たちにとって、本場のドイツ訪問は、夢のような時間だったに違いありません(サッカーに詳しくないのに引率役で参加できた私でさえも、夢のように楽しい時間でした)。
アディダスジャパンのみならず、ドイツ本社をも巻き込んだこの復興支援活動は、どうやって生まれたのでしょうか。
アディダスジャパン広報/CSR担当の番場三千世氏によると、2012年4月に全従業員研修を会津磐梯山麓の裏磐梯にて開催した際にゲストに招待した陸前高田市の戸羽太市長の言葉がきっかけだといいます。
2012年4月、アディダスの全社会議に招かれて講演する戸羽太市長。(写真:アディダスジャパン提供)
講演後にある従業員が「震災後1年、これから私たちにできることは何ですか?」と問いかけたところ、戸羽市長は「忘れないでいて下さい」と答えたそうです。
それ以降、この言葉を実現すべく、アディダスジャパンの社会貢献活動は、陸前高田市への支援に集中させたうえで、様々な活動を展開。2016年3月11日には、陸前高田市の総合運動公園建設費の一部として1500万円の寄付を実施しています。
『日本国内におけるアディダス ジャパンの社会貢献活動』(同社ホームページ)より作成
「よそ者」がどうこういう話ではないのですが、被災地もたくさんある中、こんなに陸前高田支援に「選択と集中」して、社内外から問題視されないか?と本気で心配していました(笑)。
2013年4月、マーケティング事業本部長デイブ・トーマス氏(当時、中央左)と番場氏(左から2人目)らが陸前高田市の戸羽太市長(中央右)を訪問し、ドイツへの招待を提案。右端は山田教育長、右から2人目が筆者。(写真:アディダスジャパン提供)

市長の市外講演は「トップセールス」

戸羽太市長は、講演のための出張が多く市内を留守にすることがあるため、「市長はいつもいない」などと陰口を叩かれることもありました(実際には、講演出張は多くても月に数回で、市内にいるほうがずっと多いのですが)。
しかし、こうした形で企業の支援を呼び込む効果などを考慮すれば、市外での講演はトップセールスによる「営業活動」と考えることが可能ではないでしょうか。
実際、私自身も在任時に頼まれた講演は、可能な限り引き受けていました。
先輩である樋渡啓祐・前武雄市長からは、「武雄では市長は外政、副市長は内政」との役割分担を教えていただきましたが、当時の陸前高田は「市長も副市長も外政」をしていたわけです(もちろん、内政をないがしろにしていたわけではありません)。

こんな支援はお断り

企業の社会貢献活動といっても、アディダスジャパン社のような活動ばかりでなく、宗教関係や営業目的が過ぎる案件など、住民のためにならないと判断してお断りしたものも数多くあります。
【お断りしたもの】
・不要不急な物資支援(被災直後には必要なものでも、時間が経つと不要になることもある)
・善意の名を借りた特定宗教の宣伝
・国のがれき処理予算を見込んだ(不要不急な)廃棄物・環境系の売り込み
・国のIT、クラウド予算を見込んだ(不要不急な)サービスの売り込み
・国のNPO向け補助金を見込んだ(不要不急な)活動提案
・その他、被災者に特にメリットとならない自社製品の売り込み
支援する側の企業やNPOが利益を得て悪いということはないと思っています。むしろ、継続的かつ長期的な取り組みを望むからこそ、正当な利益を得てほしいと考えます。
しかし、それは被災者にメリットがあることが前提です。自社のメリットを優先した不要不急な提案が見られたのは、残念なことでした。
一方で、全国的(あるいは世界的)に名の知れた企業であっても、岩手県内に支社や店舗がないと、担当部署が訪問予約を断ったり、案件を検討しないといったこともありました。
これはまずいと私のほうで引き取って話を進めることもありました。
できる限り市長や私が企業とは直接お会いするようにしていましたが、多忙などを理由に断られたようなケースも中にはあるかもしれません。とても心苦しく思っています。
こうした「取捨選択」を経たのちに、被災者にメリットのある案件に限って実施していくわけですが、何十回と打ち合わせを繰り返して実現までこぎつけた案件もあります。
例えば、これは企業からの支援ではないのですが、シンガポール赤十字から、7億円相当の寄付をいただき、コミュニティホールを建設できることになりました。
2012年3月17日、陸前高田市役所にて開催されたグランド・ブレーキング・セレモニーにて模型による説明を行う。左から丹下都市建築設計丹下憲孝代表取締役社長、マサゴス・ズルキフリ シンガポール共和国国務大臣、戸羽太市長、チュー・タイ・スー外務省特使、ティー・トア・バ シンガポール赤十字社総裁。
これは、シンガポール共和国側との調整過程において、「政府からの復旧費用が十分に期待できないプロジェクト」に絞ってコミュニティホールの建設を要望し、実現したものです。
2015年4月に完成した、陸前高田市コミュニティホール。大ホールは「シンガポールホール」と名付けられた。
私もこのために毎月のように、シンガポール共和国側との窓口となっていた陸前高田ふるさと大使でNPO法人Aid Takata代表の村上清氏(現陸前高田市参与)とともに東京の六本木にあるシンガポール大使館に赴き、建設用地取得状況や開発許可見通し、施工進捗やオープニングイベントなどについて報告と打ち合わせを行いました。
このようなステアリング・コミティー(シンガポール政府・陸前高田市・NPO法人AidTAKATA・丹下都市建築設計によるプロジェクト推進委員会)は、2011年12月の初会合以降、2015年5月まで、ほぼ毎月行われ、関係者の尽力により2015年4月にようやくホールが完成したのです。
最後のステアリングコミティ。シンガポール大使館のタン公使(左から4番目、当時)、丹下都市建築設計の木村副社長(右から3番目)、陸前高田ふるさと大使の村上氏(左から3番目、当時)などと打ち合わせを行った。2015年5月、六本木のシンガポール大使館にて撮影。中央が筆者。

川崎フロンターレの「熱すぎる男」

現地としっかりと信頼関係を築いて社会貢献活動を行っている会社には、アディダスジャパンの番場三千世さんのように、必ずと言っていいほど「熱いキーパーソン」がいます。
Jリーグの川崎フロンターレサッカー事業部プロモーション部長(当時)の天野春果さんも「熱すぎる」情熱を持っている男です。
そもそも、フロンターレと陸前高田をつないだのは、「津波で流されてしまって教材が足りない」と川崎市内で教師を務める友人に電話をした陸前高田市立広田小学校(当時)の濱口智先生でした。
フロンターレは2009年から独自に「算数ドリル」を作成し、川崎市内の小学校に配布していました。ドリルには中村憲剛選手や大久保嘉人選手をはじめチームに所属する選手が登場し、設問にはサッカーやフロンターレを題材にした問題文が並ぶ工夫されたものです。
陸前高田市に算数ドリルが届けられた。(C)KAWASAKI FRONTALE
天野さんは他の社員とともに、中村憲剛選手の直筆サインを入れてもらった「算数ドリル」800冊を2011年4月に陸前高田市に直接届けたのです。
以降も選手とともに陸前高田市内で行う「サッカー教室」、陸前高田住民を招待する「かわさき修学旅行」、陸前高田市観光物産協会(当時)の松本直美さんなどの協力を得てフロンターレのホームゲームでの物産展「陸前高田ランド」などを次々と実施し、2015年9月にはフロンターレと陸前高田市との間で「高田フロンターレスマイルシップ」協定を締結、結びつきを深めていきました。
陸前高田市の松本正弘・直美夫妻。2人が手に持っているのは友好協定締結記念の特製おつまみ昆布(フロンターレバージョン)。
その集大成とも言えるのが、2016年7月3日に行われた「高田スマイルフェス」。川崎フロンターレvsベガルタ仙台とのドリームマッチをメインイベントとし、サッカー教室・ステージアトラクション・物産販売などをフロンターレと陸前高田市民が一緒になって作り上げた大きなイベントでした。
高田フェスでの川崎フロンターレvsベガルタ仙台。試合は1-1で引き分けた。(C)KAWASAKI FRONTALE
私が天野さんと最初にお会いしたのは、「高田スマイルフェス」構想が動きだす前の2014年12月ですが、この壮大なアイデアを聞いた時には、うれしいというより、正直言って賛成できないほどでした。
「開催予定日はJリーグのファーストステージとセカンドステージの間の2週間しかない貴重な休みの週末。家族ともゆっくり過ごしたいだろうし、選手には大きな負担ではないか?」と思ったからです。
実は、この時の想像より、もっと厳しい状況に陥ります。2015年11月になって、2016年のJリーグのシーズンは、ファーストとセカンドの間に1週間も開かないことがわかったのです。
危うく、フェスは中止になりそうになりましたが、天野さんはフェス前日である7月2日のセカンドステージ初日のフロンターレの公式戦を「アウェイのベガルタ仙台戦」にするようJリーグに特別措置をお願いすることによって切り抜けたのです。
高田フェスには、ナオト・インティライミさんも駆けつけた。(C)KAWASAKI FRONTALE
高田フェスの会場には、元日本代表でサッカー協会の特命担当大使を務めていた加藤久さんらが中心となって整備した陸前高田市唯一の天然芝グラウンド「上長部グラウンド」が予定されていましたが、そこは仮設住宅の建設によって校庭を奪われた児童のための仮設グラウンドとして普段使用されているもので、デコボコが目立ちました。
「そのコンディションの悪いグラウンドで試合をして万一、選手がケガでもしたら大変だ」
これはグラウンド整備の問題ですが、天野さんはこうした課題を、予算も限られる中、陸前高田市側と一緒になって、一つ一つ解決していきます。
私は2015年7月に退任したので、高田フェスの当日を見ることができませんでしたが、その短い間でも、天野さん始め選手やサポーターの方々含め、フロンターレのほとばしる情熱を感じることができました。
フロンターレの天野さん(右)と筆者(左)。2015年4月、陸前高田市内の居酒屋にて。

企業にずうずうしくお願いする

これまで取り上げたアディダスやフロンターレの事例は企業側の主導による活動でしたが、実際には様子見的な企業さんの方が圧倒的多数でした。
「何に困っていますか?」「こういう支援は、ニーズがありますか?」「何か、できることがありますか?」などと質問されると、相手の専門分野や予算等の制約条件の範囲内で、ときにはずうずうしく「このことでとても困っています。こういう内容の支援を、いただけませんか?」と提案することもありました。
例えば、古本販売業を手掛けるバリューブックス社には、全国から集まった古本を、被災した図書館や蔵書の購入資金に換金する仕組みを作り上げていただきました(陸前高田市図書館ゆめプロジェクト)。
図書館ゆめプロジェクトを開始する記者会見。右から戸羽太市長、バリューブック社の中村大樹社長、筆者。2012年6月、陸前高田市役所にて。
内閣府時代に知り合った認定NPO法人育て上げネットの工藤啓理事長の紹介で中村大樹社長に相談したことから実現したものですが、バリュー社はNPO等と連携して、集めた古本を換金して当該NPOの活動費に充当するという取り組み(強み)を持っており、それを応用したものでした。
実は、被災地の側からは言い出しにくいことではあるのですが、被災地に古本を送ることは、やめていただきたいという事情があります。
図書館側が求める蔵書と送られた古本が一致することは極めてまれな上に、陸前高田市のように図書館自体が全壊してしまっていると、送られた古本を保管する場所すらないからです。
被災した陸前高田市立図書館。(写真)陸前高田市提供
その善意の気持ちは有難いものの、(事前に相談なく)いきなり沢山のご本が送られてくると、その本を当面の間保管するための倉庫探しで、職員が忙殺される事態が生じていました(善意でいただいた大切なご本を、まさか、屋外に置いておくわけにはいきませんので)。
「陸前高田市図書館ゆめプロジェクト」ホームページより
そこで、このプロジェクトの出番です。バリュー社が古本を買い取って現金化。その金額を古本寄付者に代わって陸前高田市に寄付します(あらかじめ図書館側が指定する図書リストと合致すれば現金化せずにそのまま古本をいただけることになっています)。
同社は買い取った古本を販売することにより利益を上げますので、持続可能な仕組みとなっています。
図書館ゆめプロジェクト」は、全国の図書館や大学、また個人などに広がり、2017年5月末時点で累計211万冊、3883万円が集まりました。
国からの災害復旧財源も加え、陸前高田市の新しい図書館は2017年7月20日、商業施設「アバッセたかた」に併設する形で完成を迎えることとなりました。この場を借りて、ご支援いただいた皆さまに感謝申し上げます。
*「図書館ゆめプロジェクト」は、現在でも古本寄付を受け付けています。

「通訳」として工夫したこと

今回取り上げた事例を含め、私は副市長の業務として、多数の企業やNPO等と日々面会していました。まだ在任4年間に交換した名刺を整理できていませんが、おそらく1000枚はあると思います(残念ながら、今も連絡を取れる相手はそのうち10%以下だと思いますが)。
「よそ者」だからこそ、外部の方との窓口になるのに適任だったわけですが、当初はこうした外交面(外部との調整役)を自分が担うことになるとは考えていませんでした。なぜなら、地元の職員のほうが、事情に通じていると考えたからです。
しかし、地元の職員の場合、被災状況は、「あまりにも地元では常識すぎる」ために、外部から訪れた人に対し、基礎的な説明を省略してしまうことがあります。
例えば、車に乗せて現地を案内しながら、「ここの家の下まで津波の水が到達したんです」と私が説明すると、驚く人が非常に多かったのです。どこまで浸水したかは、地元には当然すぎる常識なので、質問されないと答えないのですね。
また、企業側は支援案件を「子どもか高齢者を対象」に検討しているようなケースがありますが、これは市役所の担当部署で言えば、教育委員会(児童・生徒)と民生部(高齢者)の担当となります。私は副市長として全ての部署の業務をざっくりと把握していたので、企業側にとっては、私一人と話せばよく、都合の良い存在だったと思います。
以上の点も含め、「通訳」として気づいたことは、以下の3点です。
1)企業側は支援してもらいたいことをはっきり言ってほしいこと
2)被災状況は、初めて訪問した方には自明のものではないこと
3)情報発信に比例して支援が増えること(後述)

Facebookで発信して支援につなげる

被災が大きい町ほど、支援が集まりやすい傾向にはありますが、それだけではなく、被災地側からの情報発信は極めて大事だと思いました。
支援を検討している側からすれば、「仮設住宅が校庭にあるため部活動ができない」「教材が足りない」「図書館を再建したい」などと困っている状況を具体的に聞けば、支援内容を検討できるからです。
冒頭に述べた「被災地間の競争」の勝者は、情報発信に秀でた者であるとも言えるでしょう。
その意味で、前述したように市長も私も外部での講演も大事にしていましたし、他に活用したのはFacebookでした。
在任中は「毎朝」投稿することを自分に課し、復興の様子の報告をしていました(個人アカウントですので、私的な内容も混じりました。
数値を織り交ぜてきっちりと復興の報告をするより、なぜか子育ての話題など私的内容の方が「いいね!」やコメントが多いんですが)。それこそ戸羽市長と競うように、毎朝投稿していたのです。
これによって、「奇跡の一本松保存募金」や「ふるさと納税」をはじめ多くの活動への賛同者が増えましたし、何かと力になってくれる応援団が現れたのです。
2012年7月に開設された陸前高田市Facebookページ「がんばっぺし陸前高田」。英語でも情報発信されている。画像は、今年も8月7日に七夕まつり(「うごく七夕」と「けんか七夕」の2種)が開催されることを伝える記事。
また、Facebookは「友達」でなくてもメッセージ機能でメールが送れますので、投稿を見た面識のない方から私の元にはたくさんのメッセージや訪問予約が届きました。
こうした訪問予約にも、日程の都合がつけば必ずお会いしていました(秘書係の職員も知らない日程が次々と入ってくるので、職員をびっくりさせてしまいましたが)。この面会から、具体的な支援につながることもしばしばあったのです。
また、市役所近くには「りくカフェ」というコミュニティカフェがあり、私はヘビーな常連客だったわけですが、そこでは外部訪問客がお茶を飲んでいることが多く、様々な出会いがありました。「続きは市役所で〜」などと会話を交わしたものです。
震災後に住友林業社などの支援により建設された「りくカフェ」。地元スタッフが運営する。写真は慶應大学OBによるアカペラサークル「りくラッツ」の皆さん。左端が筆者。
今回は、企業からの復興支援活動を取り上げました。本稿執筆中には、様々な方との楽しい思い出を懐かしく思い出しました。どうもありがとうございました。
同時に、とてもお世話になったにもかかわらず、今回取り上げることができなかった企業さんや「熱い」キーパーソンの怒った顔が目に浮かびます。本当にすみません。失礼の段、お詫び申し上げます。
本稿が、企業のCSR活動や復興支援活動を考える際の一助となれば幸いです。
*本連載は毎週日曜日に掲載予定です。
(文中写真:著者提供、バナーデザイン:砂田優花)