オーケー、認めよう。広告はもはや「嫌われもの」なのだ — LINE 田端信太郎
コメント
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田端さんはずーと同じ姿勢、同じ考え方。ある意味誰よりも危機意識ある方だと思う。
広告に携わらない方はともかく、業界の多くの人がこの記事を読むまでAmazonDASHを広告のひとつのカタチだと定義できていなかったとしたら、それは恐ろしく悲しいことだなと思う。
注目のコメント
古くはTVCMが流れると「トイレタイム」と呼ばれ、街にあふれるネオンサインが「公害」と呼ばれるなど、広告はそもそも「邪魔もの」であった。しかし、情報の洪水の中でより大きな声でより記憶に残すことができれば、P&Gのいう"Moment of Truth"を制することが出来た。
だからこそ、昔からどんなに「邪魔もの」であったとしても、広告は広告として機能していた。消費者のマインドシェアさえ掴み、Moment of Truthを制しさえすれば良かったのだから。これは、選挙前の選挙カーと同じである。選挙カーは多くの人に嫌われているのは周知のことだろう(ちなみに、Googleで「選挙カー」と入力すると最初に「選挙カー うるさい」とサジェストされる)。しかし選挙カーでくまなく選挙区で名前を認知してもらった候補者が選挙区では得票を伸ばすというのが現実だ(参考:https://sirabee.com/2015/04/28/28307/)
しかし、真偽のほどは分からぬが、売上の90%を広告事業に依存しているGoogleがChromeにアドブロッカーを実装するという観測があるように、消費者(ユーザー)の体験を阻害する広告の存在は、広告そのものの価値をさらに毀損するものとして、広告を生業とする企業自体の存亡にも関わるものとなる。そして、このまま「嫌われもの」であることを続けることは、広告でマーケティングを行っている企業自体の価値をも毀損することになることに気づく必要がある。
田端氏が例としてあげるAmazon Dashは、広告じゃない広告として、ユーザーエクスペリエンスを見事に押えたものと言える。Amazon Dashそのものは、いわゆるIoTの1つだが、技術的に革命的でも何でもない。デジタル技術というのは、従来の文脈とは異なる企業と消費者の接点づくりを可能とする。ただ、田端氏とは意見を異にするが、「欲望の喚起」としての広告の役割は相変わらず大きいと私は考える。広告の未来は広告ではない、というのは私のかつての同僚、元AKQAのチーフクリエイティブオフィサーのレイ・イナモトの言葉だが、まずはこれが意味することを考えることが、「嫌われもの」ではない、未来の広告のあり方を考えるヒントとなるだろう。なんと申しましょうか。
「広告なんて誰も見たいと思っていない」。ここを前提としてアイデアを考えなければいけない。と職場でも教壇に立っていた大学でも口すっぱくしていっておりました。だからこの文章を読んでもそんなに驚かなかったというか。
ただamazon dashを広告として捉えるところは、面白いし田端さんは流石だと思いました。
これからは、広告が広告の顔をしてやってこない。
面白いものは3分のフィルムだろうとシェアされるし、映画のプロダクトプレイスメントはもっと巧妙になるでしょう。facebookもinstagramも、素敵なものはブランド名の有無や大小に関わらずどんどんシェアされていく。勝手に自己増殖していく広告みたいな。
ただUgly(醜いとよく欧米人は言います)なものは、嫌われるし非難されるでしょう。同じメディアに消費者側も書き込むことができるようになってしまったから。
好かれるか否か、つまりLIKEが左右していくのです。簡単な時代でもあり、怖い時代にもなりました。
昨今の事例で説明しましょう。ここのセンスが鈍い人(ゴメンなさい)がつくると過日のPepsiのようになってしまう。
https://www.wired.com/2017/04/pepsi-ad-internet-response/
うまい人がつくるとHeineken になります。
https://www.washingtonpost.com/news/wonk/wp/2017/04/28/heineken-to-pepsi-hold-my-beer/
ただこれも賛否両論あったりします。
https://www.theguardian.com/commentisfree/2017/may/01/pepsi-ad-heineken-ad-advertising-brands
原文が英語ですみません。
好きか嫌いかが左右します。ただそれは広告の原点でもあるのです。amazon dash を広義の広告と捉える視点は流石の慧眼と思いましたが。
大のウィスキー好きという人が毎晩ハイボールというのはちょっとなあ。「大のハイボール好き」ならわかりますけど。
自分の欲望を即満たしてくれるボタンを押す様子は、さながら1940年代にオールズとミルナーらが行ったボタンを死ぬまで押し続ける「側坐核電極マウス実験」のようではある。
欲望の喚起から充足へと言うものの、人間の行動は報酬予測によって意思決定されるので、やはり広告の役割は欲望喚起にあることには代わりないが、ここで述べられているのは広告なしでも喚起される欲望を満たすサイクルをいかにビルトインするか、ということになる。
個対個のコミュニケーション比率が増大する中で、広告収入という屋台骨をメディアが失ってしまったとき、社会が必要とするメディアを支える「財源」のかたちはどうなるのか。あと50年くらいは試行錯誤が続きそうな気がします。