井上康生が授けた「違う方向から考える力」(後編)

2016/9/21
*リオデジャネイロ五輪で日本柔道が復活した要因について、ロンドン五輪代表の穴井隆将氏へのインタビュー記事。前編はこちら
リオデジャネイロ五輪における男子柔道の躍進には、ランキングポイント制をうまく活用したこと、そして世代交代の成功など、井上康生監督の手腕が大きかったと思います。
また、試合においての戦い方、選手たちが身につけた技量も、これまでとは違っていました。
その一つが対応力です。
井上監督の指導法でもあると思いますが、五輪に臨むまでの合宿では“部分稽古”を取り入れていました。試合の中で起こりうる場面を想定して、そこで対応する際に必要な技術力を身につけていくというものです。
リオでも、立ち技から寝技にスムーズに移行していく日本人選手の姿が目立ったのは、部分稽古で鍛えた成果といえるでしょう。
穴井隆将(あない・たかまさ)
1984年大分県生まれ。天理大学時代の2009年、初の世界選手権100キロ級の代表入りを果たし、銅メダルを獲得。2010年世界柔道選手権100キロ級で初優勝した。2012年のロンドン五輪100キロ級に出場を果たしたが、2回戦で敗退。2013年全日本選手権2度目の優勝を花道に、現役を引退した。2014年天理大学柔道部の監督に就任(撮影:氏原英明)

弱点が見えなかった日本選手たち

選手にはそれぞれストロングポイントがありますが、裏を返せば穴もあります。
しかし、今大会の日本人選手たちには総じて弱点が見えませんでした。部分稽古によって、足りない技術力を補っていたからです。
部分稽古の成果は立ち技から寝技への移行だけではありません。
たとえば、外国人選手が強引に組みにきたときにどう乗り切っていくのか。あるいは接近戦になったときには、どのような対応が必要なのか。
それぞれの場面を切り取って対応していく練習法は、選手たちの細かな技術の補強に役立ったと思います。
乱取りの中で鍛えていくのが従来の練習法で、それが悪いわけではありません。柔道では本来、乱取りをやることが上達するうえで一番正しいと思いますが、井上監督が部分稽古を取り入れた理由には、いまの子の気質も関係しています。
というのも、いまの選手たちは自分がどういう技術を身につけていて、どういうことを補うべきかを整理できていない。時代の流れもあるかもしれませんが、情報が与えられすぎていて、考える力が身についていないのです。
だからこそ、それぞれのウィークポイントを洗い出し、取り組んでいく。合宿を重ねるなかで、そうやって明確にしてすごしてきたのが井上監督の指導法だったと思います。
とりわけ今大会の中で、その成果が色濃く出ていたのは90キロ級の金メダリスト、ベイカー茉秋だと思います。

選手の声を聞き、型にはめない

73キロ級の金メダリスト・大野将平が立ち技への自信を前面に押し出した試合を展開した一方、ベイカーは相手を倒してから寝技に持っていく戦い方でした。
ベイカーの採った戦法では、チャンスを逃して形勢が逆転されるという危険な場面もありましたが、そこをうまく乗り切りました。苦手な組み手になった際、自分でどう対応すればいいのかわかった柔道をしていました。
ベイカー茉秋(右)は決勝でグルジアのバルラーム・リパルテリアニを破り、金メダルを獲得
全日本の代表選手たちは、もともとレベルの高い人間が集まっている集団です。
ですから本来、考える力を持っているはずですが、井上監督は「1+1=2」と考える力だけでなく、「1に何を足せば2になるのか」と違う方向から考える力を養っていました。選手にさまざまなアプローチを行い、能力を引き出したと思います。
とはいえ、新しいことに取り組むのはそんなに容易ではありません。
私も大学の練習では選手を遊ばせたり、ゲームをしてみたり、鬼ごっこをしたり、いままでの常識から逸脱したようなことをしていますが、それを果たしていくには勇気がいるものです。
井上監督が指導者として優れているのは、各選手に長所と短所がそれぞれあるなかで、型にはめようとしないところです。
「もっとこうするべきだろう」「こうしなければいけない」というのが指導者にはあるはずですが、選手の意見にきちっと耳を傾けて、すべてを変えることはしませんでした。
井上監督は、私自身が現役のころから目標としてきた先輩です。近くでいつもお世話になっているなかで思うのは、井上監督の人間性があったからこそ、リオ五輪ではなるべくしてなった結果のように思います。
井上監督は誰に対しても態度を変えることがないし、現役のころから下の立場の意見を聞く方でした。
年下の私に「内股のポイントはどうしているの?」と尋ねてこられたことがありましたが、私からすれば「井上先輩の内股を目標にしているのに」という思いで、その謙虚な姿勢に感動しました。
つまり井上監督には、「こいつから学ぶことはない」という考え方がないのです。その姿勢は、一人の人間として見習わなければいけないと思います。

外国人選手に対抗するための方法

今後、日本柔道が強くなっていくために必要なことは、さらなる向上心です。
最初に話したように、男子7階級のメダル獲得はすごいことだと思います。
しかし、「東京五輪ではリオ五輪以下の成績だったらどうしよう」という悲観的な見方をすることや、「俺たちもできるだろう」という勘違いが生まれてはいけません。
「もっと上を目指そうよ」「もっと俺たちはできるよ」と柔道界が向上心を持っていけば、さらなる好結果を生むと思います。
だから重量級に関しても、「金メダルがとれていないから、まだ復活ではない」という声もありますが、そう考えてはいけないと思います。
ロンドン五輪で自分と上川(大樹、ロンドン五輪100キロ超級代表)が負けてから重量級が衰退したといわれていますが、いまの選手たちのレベルが落ちているわけでは決してありません。日本の柔道がダメになっているわけではないのです。
ただ、世界のレベルが上がっている。そういう客観的な視点を持たずにいまの選手たちを批判しても、本当に重量級復活を成し遂げたい人間の意に、反する方向に働くのではないでしょうか。
最近の外国人選手は対応力に優れています。度々のルール変更で日本人選手に有利になったという見方がありますが、一般的に外国人選手の対応力、適応力は日本人より優れています。
異国での生活において、たとえば日本人は手でものを食べる場面に遭遇すると「ちょっと嫌だな」と思うなど、外国の文化に溶け込むのに時間がかかることが往々にしてありますよね。
対して外国人にはそういうことはなく、日本に来れば、頑張ってお箸を使おうとする傾向があると思います。
外国人選手は勝つことに対する貪欲さを持っています。今後、日本人選手が彼らに対抗するには、迅速に対応するタフさが必要になってくると思います。

個が主体性を持てば、組織が変化

迅速に対応するタフさを身につけるためには、自ら取り組むこと、つまり主体性が重要になってきます。現在、これを引っ張り出す時代に差し掛かっていると思います。
おそらく、リオ五輪に向けて井上監督が考えられていたのと同じことでしょう。
「いま、なぜそういうことをする必要があるのか」と考えられる人間を育成していく。それをどのようにして育むかというと、指導者からの強制ではなくて、個々の選手たちが「俺たちが主役なんだ」と主体性を持っていくことです。
最初は、100人がいて100人できるわけではありません。しかし、1人、2人と意識を高く持って主体性を持って動ける人間が増えることで、組織は変化していくと思います。
私は大学柔道部監督の立場ですが、卒業後、出身校に帰ってきて稽古をする選手もいます。全日本と関わりが深い立場になると思いますので、選手たちに頼りにされる存在になっていきたいですね。
世界で戦える選手に育てて、日本代表として送り出す。そして国際大会での試合結果を受けて、そのフィードバックから改善してまた送り出してあげる。
そうやっていい橋渡しをできるように、日本柔道界に貢献できるようにしていきたいと思います。
(写真:UPI/アフロ)