井上康生の「世代交代」術(前編)

2016/9/20
いまから4年前のロンドン五輪で、男子柔道は金メダルゼロに終わった。
日本のお家芸ともいわれた重量級の代表の1人、穴井隆将は男子100キロ級2回戦で敗れると、人目をはばからずに大きな声を出して泣いた。
今回のリオデジャネイロ五輪でも話題となった「国民への謝罪」というよりも、当時の指揮官・篠原信一監督の顔を立てられなかったことに対する男の涙だった。
そのシーンは、「ロンドン五輪、柔道競技の惨敗」を象徴するシーンだった。
その後、穴井は自身の夢を後輩たちに託し、柔道着を脱いだ。そして現在、天理大学の柔道部監督として、ときには解説者として、柔道の魅力をテンポのいい語り口で国民に届けている。
あれから4年。リオ五輪の柔道競技はメダルラッシュに湧いた。
ニッポン柔道を再生した井上康生監督のもと、何が変わったのか。リオ五輪では解説者として現場で取材し、4年前を知る穴井にニッポン柔道の改革について分析してもらった。
穴井隆将(あない・たかまさ)
1984年大分県生まれ。天理大学時代の2009年、初の世界選手権100キロ級の代表入りを果たし、銅メダルを獲得。2010年世界柔道選手権100キロ級で初優勝した。2012年のロンドン五輪100キロ級に出場を果たしたが、2回戦で敗退。2013年全日本選手権2度目の優勝を花道に、現役を引退した。2014年天理大学柔道部の監督に就任(撮影:氏原英明)

大野の戦いで、「日本は強いんだ」

リオ五輪を振り返って、金メダルの数が男子2個、女子1個というのは予想していた通りの成績だったと思います。あわよくば男子3個、女子2個という期待もしていましたから、結果的には想像どおりの成績だったというのが1つ目の感想です。
一方で、男子全階級がメダルを獲得したこと、女子は5階級にわたってメダルに手が届いたのは予想以上の成績だと思います。これは選手の奮闘と、井上康生監督を中心にしたコーチ、スタッフ、あらゆる人々の努力の結晶だと思います。
とはいえ、リオ五輪の柔道競技が開幕して、すぐに「今大会は勝てる」という空気があったわけではありませんでした。
男子60キロ級、66キロ級、女子48キロ級、52キロ級を終えた2日間で金メダルをとれなかったときには、「これがオリンピックだな。1日で雌雄が決する勝負の厳しさだ」と感じました。
その流れが変わり始めたのが73キロ級の大野将平の金メダル獲得です。
過去2度の世界選手権で優勝している大野の力をもってすれば金メダルをとることができると思いながら、前の2日間を見ていると何があるかわからない怖さを感じていました。大野の優勝はそういう気持ちを吹き飛ばしてくれたのです。
チャンピオンらしい戦い方、チャンピオンらしい立ち居振る舞い、風格、最後まで礼を忘れない姿勢、試合が終わった直後に相手のことを考えられる視野の広さ。
大野の戦いは、「日本の柔道は強いんだ」と選手団に自信を与えてくれた金メダル獲得だったと思います。彼のつくった流れが、チーム全体の好成績へとつながりました。

世界ランク1位なんていらない

では、日本男子柔道チームにおける4年前との違いは何だったのか。
まず、ランキング制度をうまくマネジメントしたことが挙げられます。
国際柔道連盟は2009年からランキング制度を採用しました。各国際大会の成績によってポイントが加算され、五輪の出場資格が与えられるというものですが、2012年ロンドン五輪までは制度導入後、初めての中でやっていて、手探りの状態でした。
実は当初、出場資格を決めるポイントは、前回大会からさかのぼって1年目は25%、2年目が50%、3年目が75%、4年目は100%というかたちで点数が入ると思われていたのが、後に解釈の変更がありました。
選考資格となるポイントは、五輪の2年前からしか入らないことがわかったんです(個人のランキングでは、五輪直後の該当試合からカウントされている)。
ロンドン五輪代表のトップクラスの選手は「4年間ポイントを稼がないといけない」と思っていたので、その間に多くの選手が疲弊していました。
それを踏まえてリオ五輪までの4年、井上監督はうまくマネジメントをしました。
たとえば、2014年の世界選手権100キロ級に選手の派遣を見送っています。これはランキングポイント制度のため、ポイントが50%しか入らないとわかっていたので、思い切った策を打つことができました。
つまり、過去の経験を生かすことができた。その能力に、井上監督はたけていたのではないでしょうか。
極端な話になりますが、「世界ランク1位なんて、いらないじゃん」というのがこの4年間だったのです。大野が実際、「僕はランキングが何位でもいい」といっていました。

世代交代の2つのパターン

ただ、今回までの4年間で何を基準にしたかというと、ロンドン五輪までの4年間だったと思います。
ロンドン五輪時の篠原信一監督が「暴挙を働いた」という報道を見かけますが、そうではありません。システムが目まぐるしく変わっていくなかで、戸惑わされていたところがありました。
その制度のなかで井上監督がうまく施したことの一つとして、世代交代が挙げられると思います。
リオデジャネイロ五輪・パラリンピックの壮行会で意気込みを語る井上監督
たとえば、男子90キロ級でベイカー茉秋が金メダルを獲得しました。
この階級で日本のライバルに挙げられた選手が、イリアディス、デノソフ、リパルテニアニ、ゴンザレス。実は、多くが過去のメダリストです。
彼らは20代後半からそれよりも上の世代の選手であることを考えると、日本は若いベイカーにうまく世代交代できたことが勝因の一つになったといえるでしょう。
世代交代には2つパターンがあります。
1つは、4年後にはベテランになっている選手が引退して代表の座が空位になり、その座に成り上がった選手が代表選手としての自覚を持って強くなっていく。
もう1つは、熾烈な代表争いをして、その中から同階級の顔といわれた選手を破ってはい上がっていくパターンです。
ベイカーや100キロ級の羽賀龍之介は前者です。ロンドン五輪が終わって、次の代表選手が誰になるのか予想もできないなかで、「よしやってやろう」と自覚をもって成長しました。
100キロ級では前回代表の私が引退したのですが、先にも話しましたように、井上監督は2014年の世界選手権でこの階級の派遣を見送りました。羽賀のお尻をたたいていたんですね。
そこで羽賀は自覚を持ちました。2015年に世界選手権のチャンピオンになって、今回は銅メダルを獲得。本当に強くなったと思います。

切磋琢磨させメダリスト輩出

一方、100キロ超級は後者のパターンです。原沢久喜という若い選手が出てきました。その過程では、実力の近い数人の選手たちが競い合ってきました。
競い合うには、2、3人のライバルをつくる必要がありますよね。
たとえば、ある選手が初めて国際大会に出て、早々に負けてしまったとします。その時点で「ダメ」という烙印を押してしまったら、もうはい上がってこられません。
そこで井上監督はランキングポイント制の特性をうまく使いながら、若い選手たちにチャンスを与えました。賢明なやり方をしたと思います。
以前から全日本にいる選手ではなく、若い選手のお尻をたたく。そこで若手が伸びてきたときに、中堅以降の選手がどういう意識を持つのか。若手に触発されて伸びるのか、へこんでしまうのか、あるいは他の選手が上がってくるのか。
その辺りの図式を、井上監督は見ていたと思います。
100キロ超級には、かつて世界チャンピオンに輝いた上川大樹や七戸龍がいました。彼らのお尻をたたくために、原沢という存在がいた。ただ、原沢は先輩のお尻をたたくために努力していたわけではなくて、強くなりたかった。
彼は日大出身で、雑草魂を持っています。いま、ものすごく勢いのある日大で、日々練習を積み重ねてきました。
その原沢が七戸らのお尻をたたけるようになってきたところ、ついに追い越してしまった。こういう選手はグンと伸びるんですよね。
原沢はご存じの通り、リオ五輪では長く世界王者に君臨するリネールに敗れて銀メダルに終わりました。リネールの戦い方が物議をかもした試合でもありましたけど、原沢の決勝での戦いは、将来が見えるものでした。
これは敵わないというやられ方ではなく、リネールをやがては倒せる。原沢はこれから世界のトップになっていくと予感させる柔道を、五輪の舞台で見せつけることができた。非常に価値のある戦いができる選手に成長していました。
(写真:アフロスポーツ)
*明日掲載予定の後編では、井上監督が世界で戦うために、代表チームの中に取り入れた指導法について迫ります。