江副浩正の素顔を知る「リクルートの裏看板」

2016/6/5
リクルートの創業者、江副浩正とは何者だったのか。堀江貴文氏が、リクルートの関係者などに対してインタビューを行い、江副浩正とリクルートの本質に迫る。 藤原和博氏に続くゲストは、リクルートでマーケティング担当などを歴任してきた東正任氏が登場する。

リクルートの表看板と裏看板

堀江 この対談の最初のゲストは、藤原和博さんだったんですよ。
 藤原ね。リクルートの表看板。この東正任は裏看板。裏看板はあんまり表に出てこないものだけど、堀江さんのためなら出ますよ。今日は江副について話せばいいの? みんなが言うほど変わった人じゃないよ。
堀江 その前に、東さんはなんでリクルートに入ったんですか?
 僕はね、大学時代にチリ紙交換をやっていたの。
堀江 それ、やっぱり本当なんだ。藤原さんから聞いてはいたんですけど。
 そうそう。名古屋大学というところに行っていたんだけど、学生運動でろくに授業をやってない。それでそこを辞めて、日本大学芸術学部に入り直したの。
堀江 なんで日芸に行くんですか?
 映画をつくりたくて。
堀江 ちょっと待ってください。それは変ですよ。当時日芸に入るっておかしくないですか? 今は日芸っていったら、わりと有名ですけど。
 いやいや。日本中で成城と日芸しか、映画学科がなかったのよ。
堀江 成城大学って映画学科あるんですか?
 当時あったの。芸術学部が。
堀江 へえー。
 音楽も好きだし、映像も好きだから、映画を撮ろうと思った。調べたら映画づくりを勉強できるところは日芸くらいしかなくて、それで日芸に入ったの。でも映画を撮るには金がいるから、卒業してから小金井で保育園やっていたの。
堀江 すごい、いきなり保育園経営。それはちゃんと認可とっていたんですか?
 無認可。
堀江 無認可(笑)。
 「無認可保育園をつくって認可させるのが面白いじゃん」ということで、菅直人と地元の市会議員の仲間たちと一緒に始めたわけ。
東正任(ひがし・まさとう)
1953年鹿児島県出身。リクルート販売部、宣伝部、メディアデザインセンター、ダイエープロジェクト(異邦人の眼プロジェクト)代表を経て1999年8月退社。現在は、株式会社美楽界(株式会社夕焼創造研究所)の代表。多数の企業、財団の取締役や顧問も務める。

菅直人と保育園を始める

堀江 ここでいきなり菅直人が出てくるとは思わなかった。
 のちの総理大臣だよね。
堀江 菅直人は小金井が地元ですね。
 そう、あれは武蔵野にいたわけよ。
堀江 なんで菅直人と知り合ったんですか?
 あのね、僕が学生時代、喫茶店をやっていたの。その喫茶店を保育園にしようという話になったわけ。
堀江 そのころ、菅直人はもう奥さんとつきあっていたんですか?
 つきあっていなかったね。当時は市川房枝とか紀平悌子とか、女性の政治家が活躍したウーマン・リブの時代だった。
堀江 菅直人は市川房枝の秘書をやっていたんですよね。彼はなんで、そんなところに行っちゃったんですか?
 もともと市議会議員なんですよ。わかりやすく言うと、市民の権利をきちんと擁立させて、かつ女性の立場を盛り上げようという視点があった。
それで僕と、「回帰船」という喫茶店兼保育園をつくった。いまだって待機児童がどうとかいわれているけれど、今よりもっと圧倒的に足りないわけだよ。それで「無認可でいいじゃない」と無認可保育所をつくったわけ。
堀江 今より足りなかったんですか?
 足りない、足りない。それで借りた建物が汚かったから、壁紙が必要だった。やっぱり壁紙を貼る以上、かっこいい壁紙がいいというので、当時の『PLAYBOY』とか洋物の雑誌を集めるために、チリ紙交換を始めたわけ。
あれ、紙質はいいわけよ。もう一つの理由は、当時は紙が高くて、チリ紙と交換した古新聞が1キロ36円、古雑誌が13円、段ボールが84円で売れた。だから学生からすると現金が落ちているようなものなの。
堀江 なるほど。現金が落ちていたんですね。
堀江貴文(ほりえ・たかふみ)
1972年福岡県生まれ。実業家。ライブドア元CEO。民間でのロケット開発を行うSNSのファウンダー。東京大学在学中の1996年、23歳のときにオン・ザ・エッヂ(後のライブドア)を起業。2000年、東証マザーズ上場。2006年1月、証券取引法違反で逮捕され懲役2年6カ月の実刑判決を下される。2013年11月に刑期を終了し、再び多方面で活躍する。

口説き文句は「至急来てくれますか?」

 そう。それで俺が一番ほしかったのが『リクルートブック』だったわけ。なぜかと言うと、小金井の周辺には8つ大学があったのよ。
大学の近くには寮がある。男子寮の前には古紙として出された『リクルートブック』が必ず積んであるのよ。それを午前4時ごろ回収する。
すると表紙に当時の社名で、「日本リクルートセンター、企業への道」とか書いてあって、どうやら大学新卒者向けの就職情報誌をタダで配っているらしい。
「ずいぶん儲かっているんだな、この会社」と思ったの。それで「何をやっている会社かな」と興味をもった。
それで2、3年したあとに読売新聞かなんか見ていたら、求人欄に、「アルバイト募集、日給4700円、日本リクルートセンター」って書いてあるじゃない。
初任給9万円の時代だから、かなりよかったんだよ。それで応募して面接に行ったら、2回目の面接に面接官として江副が出てきたのよ。
江副が僕に、「いま何やってるの?」って聞くから、「映画の資金をつくるため、保育園とチリ紙交換をやっているんです」と答えた。
「チリ紙交換はどんな感じ?」って聞くから、「いや、お宅の本がいっぱい出てきますよ」と言った瞬間に、みるみる眼球が動き始めた。
堀江 眼球が動くんですか(笑)。
 そう。瞬きの回数が100回ぐらい増えて、「それはどういうこと?」って言うから、「捨てられているんですよ」と言った瞬間に、江副としてはすっとんだわけよ。「まずい、広告効果が落ちる」と。
堀江 あー、そこを心配しますよね。僕も心配します、それ。
 で、優しい低い声で、「東さん、至急来てくれますか?」って(笑)。今でも覚えてますよ。
堀江 いやでも、言葉遣いが面白いですね。普通はそういうとき、「すぐ来てくれますか?」って言うんですよ。「至急」というのはいいですね。
 そう、ビジネス魂がかかっているよね。
堀江 僕は「自分語」が好きなので、僕も「自分語」を話すんですよ。
普通の人が「想像の範囲内です」とか「予測できます」とか言うところを、俺は「想定の範囲内です」って言って、流行語大賞とったんです。自分の言葉で話すと、流行語大賞とれるんですよ。
 午前2時ごろ、女性に、「至急来てくれない?」って言ったりして。
堀江 至急来てくれますよ。この言葉も流行語大賞とれますよ(笑)。

立花隆も元リク

 それで、本当に翌日くらいからアルバイトとして行った。たしか新橋に12階建てのビルがあったんですよ。そこに販売部というところがあった。日給4700円。社長室が上にあって、江副はよく上から下りて来ていたよ。
でも、僕は彼について何も知らないのよ。東大在学中に起業した青年実業家だなんてことは何も知らなかった。
社長にしては若いとも思わなかったね。「大きな会社の社長だな」って思っていたの。でもぶっちゃけた話、そこからリクルートでは僕だけ特別な存在なんですよ。あまり人事もないし。
堀江 何人くらいいたんですか? その当時。
 当時は600名強。売り上げは100億円を超えたぐらいのときだね。
堀江 さすがに俺は600人強の会社を持っていたら、チリ紙交換のお兄さんに、「至急来てください」とは言わないですね(笑)。
 ビビったんだろうね、「本が読まれてない」という言葉に。しかも、そのあたりの大学全部だからね。
堀江 なるほど。藤原和博さんは、そのころはまだいなかったんですか?
 藤原はね、それから2年後に入ってくるわけですよ。彼は昭和53年の4月に入りますから。
堀江 東さんのほうが早いんですね。
 そう、僕は昭和51年12月の中途採用なんです。52年に松永真理が入ってくる。
堀江 ああ、iモードの。
 角川書店の社長をやっていた福田峰夫とか、あのへんがいて。だからリクルートを辞めたやつでいえば、51、52、53年入社のころが一番面白いんじゃないですか。
堀江 有名になっているというか、いろいろな世界でぐりぐりやっているのは、そのへんですよね。たしかに。
 そう。藤原は別格というか別なフィールドなんだけど、みんな共通しているのは不動産と株式じゃない? と、僕は思う。
僕たちの前の世代も面白いんだよ。みんな知らないけど、ジャーナリストの立花隆先生はリクルートでアルバイトをしてたんだ。月刊リクルートにいたんだよ。
堀江 そうですよね、アルバイトしてたんですよね。僕は立花隆を1回裁判で訴えたことがあるんですよ。
彼も昔は自分で取材していたんですけど、最近は取材しないで、ほかの人が収集した情報をもとに記事を書くものだから、記事の精度が落ちていた。
それでガセネタをつかまされて、僕が暴力団とつきあいがあるという記事を書いたんです。それで「ふざけんな、コラ」って日経BPと立花隆を訴えて、500万ぐらいとったんです。でも立花隆の研究は、それはそれで面白いですけどね。
(構成:長山清子、撮影:遠藤素子)