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“取材者”を超えて学び続ける

フォトジャーナリスト・安田菜津紀が語る「これが私のライフワーク」

2016/5/2

震災からの5年間

“東日本大震災の被災地を見に来て「大変ですね。頑張ってください。応援しています」という人は多い。けれども自分の身に置き換えて「備えます」という人は多くはないのです。”

岩手県陸前高田市でお世話になっている仮設住宅の自治会長、佐藤一男さんが熊本地震を受け、そんな言葉をつづっていました。

あの震災から、「備えます」につながる伝え方をどれほどできていただろう。そして、まず自分自身がどれほど“自分事”に置き換えられているのだろう。改めてこれまでの仕事を、そして震災からの5年間を振り返ります。

“フォトジャーナリスト”という仕事は、恐らく多くの人にとってなじみがないのではないでしょうか。写真を通して、世界の中で、日本の中で、何が起きているのかを伝えていくこと。それが私のライフワークです。

原点となったのは、高校2年生のときに訪れたカンボジア。貧しさゆえに売り買いされ、虐待を受けながら働かされてきた、同世代の少年少女たちに出会ったことでした。

高校時代、カンボジアにて

高校時代、カンボジアにて

遠い国の世界が、一気に“わたし”と“あなた”という関係を結んだ目の前の人に起きていること、自分の友達が抱える問題となり、ぐっと自分自身に迫ってきたのです。

そんな心の距離を縮めることを仕事にしたいと願った先にあったのが、フォトジャーナリストという役割でした。声を出せない人たちに、少しでも光が当たるように。“今”起きていることを“今”伝えることだけに集中してきました。しかし、その在り方を大きく変えたのが、5年前のあの日の出来事でした。

2011年3月11日、3000キロ離れたフィリピンの山奥で、日本からの電話を受けました。「どうやら東北で地震があったようなので、一応お伝えしておこうと思いまして」。

最初の一報はまったく緊張感のないものでした。あの時はまだ誰も、正確な情報を把握しきれていなかったのです。

けれども、その日のうちに、東北で起きていることが次々と明らかになっていきます。「今回の震災は、地震のエネルギーだけでとらえると、阪神淡路大震災の800倍」。そんなニュースを目の当たりにし、血の気が引きました。

当時、夫の父母、義理の両親が岩手県陸前高田市に暮らしていたからです。

あの3月、累々とどこまでも瓦礫に覆われた陸前高田市街地を前に、ただぼうぜんと立ち尽くしました。それまでは頭のどこかで、「きっと二人は避難している」と思えていました。けれども破壊し尽くされた市街地に身を置き、「生きていたら奇跡だ」と思わざるをえませんでした。

幸い義父は病院の4階で首まで波につかりながらも、一命をとりとめました。けれども義母の姿が、どの避難所を巡っても見つかりません。震災から1か月後、彼女と対面できたのは遺体安置所でした。

傍らには、家族のように大切にしていた2匹の犬の散歩ひもが置かれていました。最後までぎゅっと、その手に握りしめていたのだそうです。手話の通訳として活動してきた生前の義母を知る人々が、「地震が起きて津波警報が鳴ると真っ先に、耳の聞こえない人たちのところに走る人だった」と語りました。

義父母の暮らしていた地域で指定されていた避難所は、気仙川の河口近くの気仙小学校。校舎は波につかり、体育館はガソリンが引火して燃え、焦げて無残な姿だけが残っていました。

避難ルートを見返してみると、海に一度近づき、徒歩で川を超える、今思えばとても危険な道のりでした。もっと避難について、日頃から話し合っていれば……家族の中で後悔は尽きませんでした。

それから間もなく、地元の若者たちが中心となって市内で活動を続ける「桜ライン311」という団体に出会います。彼らの活動は津波の到達点に沿って10メートルおきに桜の木を植えていき、その記憶を後世に伝えていこうというもの。最終的にその数は1万7000本を超えていくといいます。

桜ラインの活動で植えられた河津桜

桜ラインの活動で植えられた河津桜

陸前高田市内には明治、昭和と過去の津波の記憶を伝える石碑が複数存在しています。けれども時が経ち、その存在は人々の日常から離れ、石碑の下にも家々が立ち並んでいったのです。教訓が伝わらなかった悔しさを、何につなげていくべきなのか。その先にたどりついたのが、桜の存在でした。

年に一度必ず春を告げ、人々がそこに集う桜の木であれば、愛されながら記憶を伝えてくれるのではないか。

「災害はその恐ろしさを人が忘れかけた頃に起こります。だからこそ、大きな被害が出てしまう」。

団体の理事でもある佐藤一男さんの言葉が胸に迫りました。

「自分たちの子どもたち、孫たちに、大きな揺れに襲われたら、最低でもあの桜の木の上まで逃げなさい、と伝えたい」。

佐藤一男さんと、娘のるなちゃん

佐藤一男さんと、娘のるなちゃん

取材者という立場を超える

失った後悔を消し去ることはできないかもしれない。けれどもこれからの生き方次第で、その後悔を減らしていくことはできるかもしれない。

だからこそ“今”起きていることを“今”伝える「点」のような方法ではなく、未来に手紙をつづるように、この後悔を繰り替えなさいための記録を残し続けたい。

そして自分自身も取材者という立場を超え、一人の人間としてこの「線」を描き続けたい。この街に通ってたどり着いた、答えの一つでした。

震災から3年が経った2014年、「防災士」という民間資格を取得しました。突然の災害に見舞われた際、自宅や馴染みの場所に身を置いているとは限りません。

だからこそ、地域や、企業、職場など、あらゆる場での防災力を向上させる必要があります。そのための知識、技能を身につけた人材を育てようと、2003年につくられた資格です。

この資格が出来たきっかけは、1995年の阪神・淡路大震災。未曽有の大災害を受け、対応できる人材が必要だという認識が広がったことでした。

あれから20年以上の時を経た現在までに、この資格を取得した延べ人数は日本全国で90,000名を超えています。

年齢、国籍、経験などに制限はなく、日本防災士機構が認証した研修機関での研修と試験、さらに全国の自治体、地域消防署、日本赤十字社等の公的機関、またはそれに準ずる団体が主催する「救急救命講習」を受講することが基本の手順です。

私自身は東京での講習、試験の後、陸前高田市で実際あの震災を経験した消防署の方々に救命講習をお願いしました。

持ち出し袋に何を詰めるかなど身近にできる備えにはじまり、気象学、地震や津波が発生する仕組み、避難所の運営方法、公的支援の受け方など、幅広く学んでいきます。SNSなど、飛び交う情報をどう精査していくのかも重要な視点でした。

ただし大切なのは、資格を取得したことで、即戦力になるわけではないということです。むしろ知識、経験を常に磨き続けていくための入り口にようやく立てた、ということなのでしょう。災害に見舞われる地域の状況は、細部を見て行くほどに異なります。

救命の方法も日々よりよい方法を目指そうと変わっていきます。情報収集や、自宅の備蓄品の管理、地域行事への参加、あらゆる日常の場面で実践を積んでいく必要があるのです。

震災直後の気仙小学校前

震災直後の気仙小学校前

「頑張れ」という言葉

熊本地震を受け、「頑張れ」という言葉が響きます。けれども、その言葉を発した自分自身へも向ける必要があるのかもしれません。ある日突然何かの災害が降りかかってきたときに、自分を、大切な人を、どうやって守っていけるでしょう。

それは正に、現場を目の当たりにし、出会った人々と遠くにいる人々をつなげていく私たちが、取材を超え、学び、変わり続けることからはじめなければならないのだと痛感します。

熊本、九州で被災された皆さまへ。心よりお見舞い申し上げます。皆さんに必要な手が届くよう、心を寄せ、引き続き情報発信を続けます。ここ、NewsPicksがそんな生きた情報を伝える場となっていけるよう、力を注いでいきます。

そしてそんな発信を通して私もまた、日常を振り返り、守りたい命を守れる自分になれるよう努めていきたいと思います。

(C)Rie Nagata

(C)Rie Nagata

(写真提供:安田菜津紀)