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鹿児島ユナイテッドFC 徳重剛代表インタビュー(中編)

鹿児島初のJリーグクラブ、政財界を巻き込んだ統合劇

2016/1/13

鹿児島県初のJリーグクラブとなった鹿児島ユナイテッドFCは、2つのクラブが統合したことで2013年に誕生した。

新興クラブであるFC KAGOSHIMAと長い歴史を誇るヴォルカ鹿児島が、幾度かの交渉の末に選んだ道だが、歴史や背景も異なる2つのクラブが統合に至った舞台裏とはいかなるものだったのか。

2クラブの統合からJリーグ入会に至るまでの歩みを、FC KAGOSHIMAを立ち上げ、現在は鹿児島ユナイテッドFCの代表を務める徳重剛が明かした。

前編:代表は公認会計士。鹿児島に悲願のJリーグクラブが生まれるまで
徳重 剛(とくしげ・つよし) 1977年鹿児島県生まれ。上智大学在学中に体育会サッカー部の主将を務める。卒業後に公認会計士試験に合格し、監査法人トーマツに入社。2008年に同社を退社して、徳重剛公認会計士事務所を設立。2010年からFC KAGOSHIMAの代表を務め、2013年に同クラブとヴォルカ鹿児島が統合して生まれた鹿児島ユナイテッドFCの代表に就任した。同クラブは、鹿児島県で初めてJリーグ加盟が承認され、2016年シーズンからJ3に参入する

徳重 剛(とくしげ・つよし)
1977年鹿児島県生まれ。上智大学在学中に体育会サッカー部の主将を務める。卒業後に公認会計士試験に合格し、監査法人トーマツに入社。2008年に同社を退社して、徳重剛公認会計士事務所を設立。2010年からFC KAGOSHIMAの代表を務め、2013年に同クラブとヴォルカ鹿児島が統合して生まれた鹿児島ユナイテッドFCの代表に就任した。同クラブは、鹿児島県で初めてJリーグ加盟が承認され、2016年シーズンからJ3に参入する

県勢として26年ぶりの九州制覇

──2010年に大隅NIFSユナイテッドFCを母体としたFC KAGOSHIMAが鹿児島県リーグに参入したわけですが、鹿児島のもう1つのクラブであるヴォルカ鹿児島に統合の打診は続けたのでしょうか。

徳重:FC KAGOSHIMAの立ち上げ直後は、打診はしませんでした。2010年、FC KAGOSHIMAは県リーグで、ヴォルカは九州リーグに所属していました。ヴォルカからすれば、下部リーグのチームと統合するメリットはありません。ですから、統合するためにはヴォルカより上位リーグに所属しなければいけないと思いました。

──2012年は、FC KAGOSHIMAが九州リーグで優勝しました。

そうですね。2010年の県リーグで優勝して九州リーグに昇格すると、2012年はFC KAGOSHIMAが優勝して、ヴォルカが2位でした。当時は、鹿児島県勢として26年ぶりに九州リーグを制覇したことで、県内ではメディアでも大きく取り上げられました。

その一つに、地元紙である南日本新聞の朝刊2面に掲載される「かお」という人物特集に、僕の記事が掲載されました。記事内に「理想はヴォルカとひとつになって、鹿児島が一体となって戦うこと」というコメントが載ったことで、鹿児島県サッカー協会もそこから2クラブの統合を促すようになりました。

まとまらなかった統合交渉

──インパクトは絶大だったと思います。

ただ、リーグ戦が終了したのが9月末で、JFLへの昇格が懸かった地域リーグ決勝大会で敗退したのが11月末でした。

そこから、翌年の九州リーグ参戦に向けたリーグ側への回答期限が12月25日までという状態。つまり、統合の交渉期間も11月末から12月25日まででした。

──非常に短い期間しか残っていなかったということですね。

僕は1カ月弱あれば、統合できると思っていました。しかし、ヴォルカにしても県協会にしても、僕の記事が掲載された段階で動き始めたということもあり、心構えができていないまま交渉がスタートしたという経緯があります。

──結果的に、統合まで話が詰め切れなかったということでしょうか。

債務の引き継ぎなどに関して、相手方における責任の所在が明確でなかったので、2012年の時点では統合という結論が出ないまま回答期限が来てしまいました。

2013年8月の統合発表

──その結果、2013年シーズンも2チームとも九州リーグで戦うことになりました。

それでシーズンを戦う中で、6月に大きなポイントがありました。2013年も両クラブが別々でJリーグに準加盟申請を出そうとしましたが、鹿児島の経済環境や地域性から考えて、同じホームタウンで同じスタジアムを予定している状態で、それぞれのクラブが単独で申請することはできないということになりました。

当時は2012年とは異なり、ヴォルカもしっかりと代表者がいて、責任の所在が明確になっていたこともあって統合の決断を下してくれました。そして、シーズン中ではありましたが、8月9日に翌年からの統合に関する発表会見を行いました。そのシーズンはヴォルカが九州リーグで優勝してFC KAGOSHIMAは2位でした。

われわれはリーグ戦の結果では地域リーグ決勝大会への出場権は得られませんでしたが、決勝大会への出場権を持っていた別地域のFC岐阜SECONDが諸事情により出場を辞退することになり、九州リーグで2位だったFC KAGOSHIMAに出場権が回ってきたのです。

──すごい巡り合わせですね。

そして、3位までに入ればJFLに昇格できる地域リーグ決勝大会では、FC KAGOSHIMAが3位でヴォルカが4位。最終的にFC KAGOSHIMAの権利によって、JFLに昇格できたということです。

鹿児島ユナイテッドの誕生秘話

──FC KAGOSHIMAがヴォルカを吸収したというかたちでしょうか。

正直、世間の方々にとって、JFLに昇格する権利を得たのがどちらだったかというのは、まったく関係ないことだと思います。ですから、どちらが吸収したとか、されたとかではなく、両チームが統合して鹿児島が一つになったということで、「鹿児島ユナイテッドFC」というまったく新しい名前にしました。

──FC KAGOSHIMAというチーム名がなくなることへの反発もあったと思います。

「目的はFC KAGOSHIMAという名前を残すことではなく、鹿児島にJクラブを誕生させること」という説明や、統合したときの資金の集めやすさを関係者にはしっかりお話ししました。ただ、サポーターの皆さんには、多分に不安や心配をかけたと思います。

──一方で、約50年の長い歴史を持つヴォルカ側はいかがでしたか。

2012年に統合交渉した際は代表者も曖昧な状態でしたが、今回は湯脇健一郎というヴォルカの代表者と交渉できたことが大きかったですね。統合後もクラブの運営担当のスタッフとして残ってくれていますが、彼がヴォルカ側をしっかりまとめてくれたので、歩み寄りがスムーズにできました。

歴史が長いクラブと新しく出てきてJリーグを目指そうとしているクラブが統合する際、さまざまな障害があります。統合において最も大きかった要素は、相手クラブの湯脇健一郎という代表者が最終的に決断してくれたことだと思っています。

鹿児島政財界からの支援

──なるほど。ちなみに自治体からの支援はあったのでしょうか。

鹿児島県知事と鹿児島市長のマニフェストに「Jリーグを目指すクラブの支援」とありました。サッカー界が一つになってJFLに昇格したことが良かったと思うのですが、自治体からも多大な支援を受けることができました。鹿児島のクラブが全国リーグに参戦するには、遠征費の負担が大きいですが、JFLの段階で自治体のサポートがあったおかげで、2年でJリーグ参入ができたことは間違いありません。

──経済界からの支援についても聞かせてください。

経済界も同じく、サッカー界が一つになったことがポイントでした。鹿児島銀行や南国殖産などの地元に根づいた企業に手厚くサポートしていただいたことで、地元企業とクラブとの一体感が生まれました。さらに、サポーターの県民だけでなく、自治体や経済界との一体感を創り出すために、クラブのスローガンは「鹿児島をもっとひとつに。」としました。

──企業合併を思わせるエピソードの数々ですが、統合後に主導権争いはなかったのでしょうか。

企業合併でも会社風土や合併比率の違いから派閥が生まれるところですが、結局、県民の皆さんにとって何が一番良いのかと考えました。その結果が、新しいチーム名にして、選手とスタッフを平等に組み入れることでした。両クラブが一つになったことを、前面に押し出したのは大きかったですね。

鹿児島ユナイテッドFCの公式マガジン。編集長は徳重代表に誘われてクラブに加入した

鹿児島ユナイテッドFCの公式マガジン。編集長は徳重代表に誘われてクラブに加入した

足掛け8年。Jリーグ入りが実現

──統合後はJFLで2年間戦い、2015年シーズンに4位となったことで、2015年11月17日にJリーグへの入会が承認されました。Jリーグ入りの一報を聞いた瞬間は、何が頭をよぎりましたか。

これまでの苦労を思い出すことが多かったです。地域リーグ決勝大会や九州リーグ、県リーグの戦いもそうですが、安定的に使える練習場があるわけでもなく、みんな働きながらプレーするような環境の中でやってきましたから。

僕の親も気の毒に思ったのか、トレーニングが終わった後に、できる限り早く炭水化物を取れるようにと、毎日おにぎりを50個つくってくれたりしたこともありましたね。本当に多くの方々にサポートしていただいたし、在籍してくれた選手やスタッフに感謝しています。

──まさに家族愛ですね。

そういうことを思い出すと、やはりグッときます。

──2008年からずっと思い描いていたことですが、気持ちが一回でも折れていたら実現しなかったと思います。

折れそうになったことはたくさんありましたよ(笑)。

これまでJリーグ入りに向けては、1試合も負けていい試合などありませんでした。多くの方々を巻き込み、自分も膨大な時間と労力をかけても試合は負けるときもあります。そのときは、さすがに心が折れそうになりますが、それで折れたら自分の目標も県民の夢もすべて終わりなのもわかっていましたから、折れるわけにはいかなかったですね。

──支えとなったのは、意地やプライドですか。それとも、Jリーグに何とかして鹿児島の名前を残したいという気持ちでしょうか。

もともと、「鹿児島をスポーツで元気にしよう」という大きな理念がありました。その一つのステップが鹿児島にJリーグのクラブをつくるということ。そのためには、どうすれば最も資金が集められ、強いチームをつくれるのかといえば、2チームで争うよりも、おカネも選手も一本化して上を目指したほうが絶対にいいという思いがありました。そのためには信念を曲げず、何のためにやるのかと考え、譲れないところは絶対に譲らなかったですね。

(写真:福田俊介)

*本連載は毎週水曜日に掲載予定です。