5K4A8629-b

宇津木妙子インタビュー(前編)

ソフトボールを再び五輪競技に。宇津木妙子の新たな挑戦

2015/11/26

2013年、女子柔道ナショナルチームのメンバーが現場監督、指導者たちの暴力的な指導法や、パワーハラスメントを告発して以来、スポーツの現場から「大声」が消えてしまった。

指導者が現場で張り上げる声は時に、パワハラの一つとして捉えかねない。この2年間、そんな日常的な声かけ一つに、指導者、特に男性コーチ陣の困惑ぶりや、ある種の「萎縮」が象徴されてきたのかもしれない。

しかし、宇津木妙子氏が立つグラウンドには今も変わらない声が響き渡る。 

「コラーッ! 取れるじゃないか。何やってんだぁ!」

子どもソフトボール教室でのワンシーンである。62歳の今でも、声の迫力、かつて特別参加したプロ野球のキャンプで、中日ドラゴンズの選手たちさえ根をあげたとされる厳しいノックに少しの衰えもない。

自身が「最も充実感を味わえる瞬間」と話す、ノックバットを握ると調子が良くなるそうだ。300人の子どもに1人3本以上、合計1000本ノックを放つパワーは健在だ。

「取れるよ! そこで諦めたら、人生だって終わっちゃうんだぞ!」

子どもには非常に厳しい指摘に聞こえるが、周囲で子どもたちを見守る親たちに笑顔が絶えないのは、教室を始める前に、自分の指導方法を父兄に丁寧に説明しているからだ。

ボールを扱う危険性は、真剣勝負の中でこそ身体に叩き込まなくてはならない。打球に向かっていく恐怖や痛みは、中途半端なノックでは決して伝わらない。高い集中力を保つよう、あえて子どもたちに要求する。親たちにその姿勢を理解してもらうための説明、努力は惜しまないという。

「監督はね、昔、鬼の監督と呼ばれていたんだよ!」

そんなふうに叱られても、子どもたちはうれしそうに、強いノックの列にまた並ぶ。

宇津木妙子(うつぎ・たえこ)1953年埼玉県出身。中1でソフトボールを始め、72年にユニチカ入社。74年に世界選手権で銀メダルを手にし、85年に引退。遠征先で知り合った「日立高崎」の工場長の要請で3部だったチームの監督に就任すると、3年後に1部に昇格させ、日本リーグ3回優勝など国内屈指の強豪チームに育てた。97年に日本代表監督となり、2000年シドニー五輪で銀メダル、04年アテネ五輪で銅メダルに導く。その後、ルネサス高崎(現ビッグカメラ高崎)の監督を経て、10年に東京国際大学ソフトボール部の総監督、および高崎のシニアアドバイザーに就任。11年NPO法人「ソフトボール・ドリーム」を設立し、14年に世界野球ソフトボール連盟の理事に選ばれた。日本ソフトボール協会副会長。今年の巨人の開幕戦では始球式を行って五輪競技への復帰をアピールした。

宇津木 妙子(うつぎ・たえこ)
1953年埼玉県出身。中学1年生でソフトボールを始め、1972年にユニチカ入社。1974年に世界選手権で銀メダルを手にし、1985年に引退。遠征先で知り合った日立高崎の工場長の要請で3部だったチームの監督に就任すると、3年後に1部に昇格させ、日本リーグ3回優勝など国内屈指の強豪チームに育てた。1997年に日本代表監督となり、2000年シドニー五輪で銀メダル、2004年アテネ五輪で銅メダルに導く。その後、ルネサス高崎(現ビッグカメラ高崎)の監督を経て、2010年に東京国際大学ソフトボール部の総監督、および高崎のシニアアドバイザーに就任。2011年NPO法人ソフトボール・ドリームを設立し、2014年に世界野球ソフトボール連盟の理事に選ばれた。日本ソフトボール協会副会長。今年の巨人の開幕戦では始球式を行って五輪競技への復帰をアピールした

シドニー五輪で銀、アテネ五輪でも日本代表を銅メダルに導き、日本代表監督を引退。2010年には東京国際大学(埼玉県川越市)の総監督となり、長年指揮を執ったルネサス高崎がチームごとビッグカメラに移籍をした現在は、シニアアドバイザーを務めている。

五輪競技における日本のソフトボールの地位を固め、日本女子スポーツ界にも大きな足跡を残した指導者の今を企業にたとえるなら、まさに役員だろうか。時々現場に足を運び、声をかけ、相談を受ける。

しかし、役員として、リーダーを育成し指導する立場になっても、宇津木は大声に込める思いを、徹底した現場主義で相手と向き合い、観察し、そして準備する。

2009年、ソフトボールの五輪競技からの除外が決まり、日本は金メダル候補を一つ失った。業界、関係者が落胆する中、勝負の世界での現場監督を引退した宇津木はすぐさま、指導の舞台を世界に、草の根に移した。

マイナーな競技を本当の意味で発展させ国際オリンピック委員会(IOC)に復帰を認めさせるには年齢、性別、地域性なく楽しめる競技の国際的な普及を最優先する必要がある。

対立やしがらみから国際連盟が誰も積極的に手をつけてこなかった国際的な普及の先頭に立とうと、NPO法人ソフトボール・ドリームを立ち上げ、ケニア、西アフリカのガンビア、インドネシアやタイ、とこれまで競技に触れるチャンスのなかった国々まで足を運び、日本の道具を提供した。

国際野球連盟とソフトボール連盟が一つの競技としてよりスムーズに再採用されるため新たに設立された世界野球ソフトボール連盟(WBSC)理事として奔走した結果、このほど、ようやく2020年東京オリンピック・パラリンピックの追加競技への推薦にまでこぎつけた(正式な決定は来年のリオデジャネイロ五輪時)。

徹底した現場主義を貫く「昔、鬼の監督」の今とは。

ソフトボール五輪復帰へ困難な道

──ソフトと野球がオリンピック競技に復帰するには、世界での普及が一つのカギになるといわれています。宇津木さんは、新設された世界野球ソフトボール連盟の理事として世界中を回り、復帰への普及活動の先頭に立たれてきました。

宇津木:一昨年に野球と一緒(世界野球ソフトボール連盟)になり、国際的な舞台で交渉をしていくための新たな組織づくりと、復帰を目指した普及体制をスタートさせました。

国際舞台での活動に一歩踏み出してみると、皆さん、自分の国、自分の立場を守ろうとし、競技の発展や普及へのパワーがなかなか集まらず難しい面もありましたね。ソフトにも野球にも派閥はありますし、利害関係や摩擦も生じ、言葉の壁も高い。

日本の組織はしっかりしています。でも日本の役員の方々はとても紳士的ですから、そういう場所では強く主張してこなかったと思います。私はもうバンバン言いますから。

―バンバン……。

普及はどこでどんなかたちでやるのか、資料づくりからプレゼンテーションも、日本で開催する教室のノウハウを使って。ソフトボールを何としてでも復活させるのが、オリンピックでメダルを獲得した者の使命だと思っていますので覚悟を決めました。

「守り」ばかりする男性たち

世界中のソフト、野球関係者が協力し、草の根で触れ合い、言葉やルールがわからなくてもまず一緒にやってみましょう、と訴えたのですが、理事たちも必要性や除外の緊急事態はわかっていても、どうしても自分の立場を守ろうとするし、末は幹部になりたい。だから、失敗や批判を恐れて動きださないのです。

役員の皆さんに「その話(保身)ばかりですね」と言ったこともあります。ソフトの発展より、ご自分の国や立場を守るのですね、と。守りに入ると組織は動きませんからね。さらに、何か起きれば責任を回避しようとする。企業も、こうした国際的な組織も、中は同じ構造なのかもしれません。守りを固めようとする。

【五輪における野球・ソフトボールの除外問題】
2005年7月:IOC総会にて、ロンドン五輪から除外される
2009年8月:存続運動も実らず、ロンドン五輪からの除外が最終決定
2013年4月:復帰を目指し、世界野球ソフトボール連盟設立
2013年9月:IOC総会にて、東京五輪の競技選出投票で落選
2014年12月:IOC臨時総会で「五輪アジェンダ2020」が採決され、復帰への道が開く
2015年9月:東京五輪種目追加検討会で、追加競技に選出
2016年8月:IOC総会で最終決定

攻めの活動を支えた女の覚悟

──覚悟とか、思い切りとか、そうした発想がないと、一度五輪から除外されてしまうとなかなか復帰への攻めの活動はできませんね。

ソフトボールは、性別や年齢、体格差や天候や地域での差もなく、誰でも親しめる競技ですよね。世界中で親しまれる潜在能力は高い。

ですから復帰のために、守りよりもむしろ攻めが必要で、世界中に出掛けていって競技の素晴らしさや、共調性など教育的な面の効果、自分たちの情熱を広げるべきだと考えました。

女性には、やるだけやってダメなら諦めます、といった非常にドライな面がありませんか?

──あると思います。

私は32歳で(当時日立高崎の)監督に就任して以来、覚悟だけはいつでも持ってきましたし、試合だけではなく本当にいろいろな「戦い」を経験している。学んだのは、やはり最後は自分なんだ、自分の軸がぶれては絶対にいけないという信念です。

リーダーを指導できるリーダー

今は、教え子たちが次々に現場のリーダーになっていますので、企業との話し合い、選手との関係の築き方、大学ならばトップに信頼してもらう指導など、リーダーたちをサポートしアドバイスに回る役目ですね。

今はスポーツでも、企業でもリーダーを指導するリーダーが欲しいのではないでしょうか。

【ソフトボール日本代表の五輪成績】
1996年アトランタ:4位 鈴村光利監督
2000年シドニー:銀メダル 宇津木妙子監督
2004年アテネ:銅メダル 宇津木妙子監督
2008年北京:金メダル 斎藤春香監督
2012年ロンドン:実施されず

失意のガンビアで

──ケニアだけではなく、西アフリカのガンビアにも何度も普及活動に行かれているのですね。

普及活動の最初は、まさにソフトがロンドン五輪から除外競技になろうとする2009年ですね。ケニアからセネガルを経由してガンビアに行く途中で、正式に除外が決まったと、(宇津木)麗華(中国から帰化、現在の代表監督)から連絡を受けた。

「カントク、ダメだった。どうしよう、これから」と。忘れもしません、あの衝撃は。もうショックで体中の力が抜けてしまうし、やる気もなく、ガンビアでも、復帰なんて無理に決まっている、国際連盟だって一致団結しないし、何度調整してもダメなのかな、と諦めかけてしまうほどだった。

──でも……。

ガンビアでは、公務員や指導者の指導に行ったのですが、使う予定だったグランドが、行ってみたら腰のあたりまで草ぼうぼうでソフトどころじゃないの。まず草刈りから始めました。

その後、砂と土でラインを引いて、グランドをつくる。本当にゼロからのスタートでしたね。9時練習開始と言われると、日本人は30分前に集まりますよね。

でも彼らは、昼前になってやっと来るんです。それもルーズなガンビアタイムといった理由だけではなくて、そもそも道が舗装されていませんから、雨が降れば道がなくなってしまう。日本のように交通手段もない。そんな中でも集まってくれた。

改めて知ったソフトボールの魅力

──うれしいですね。

バットを渡すとグリップを上に構えて打とうとしたり、一塁とは反対に走ったり、教えるというより、純粋に楽しかったんですね、腹をかかえて笑ってしまうくらい。

──言葉の壁は、あまり関係がなかった。

そうです。バット、グローブなど日本リーグ12チームの「お古」を持参し、ヘルメットにも日本のチーム名が入っていましたが、うれしそうに使ってくれる。

背中を押してくれた福島の少女

──ガンビアまで普及をするために、金メダル獲得国が出掛けていく姿勢が復帰への意欲を象徴しますよね。

ソフトや野球がなかなか手をつけてこなかった活動でもあります。そして帰国翌日にも、心を揺さぶってくれる少女に出会えた。福島での講演会に行くと、中学生の女の子がものすごくしっかりした様子で、質問に手を挙げてくれました。

質問ではなくて、「私はソフトボールをしています、オリンピックでメダルを取る夢を諦めたくありません」と私に訴えたんです。それを聞き、自分がもうダメだなんて諦めてどうする、私たちが経験したあのオリンピックの感動を、夢を持って頑張っている彼女たちにも与えてあげなくては、と、またやる気がむくむくと湧いてきましたね。

今回のインタビューは岸記念体育会館内のスポーツマンクラブで行われた

今回のインタビューは岸記念体育会館内のスポーツマンクラブで行われた

自分が動けばいいと腹をくくった

──競技除外から1週間ですね。大変なバイタリティです。

ええ。政治だの、利害関係などもう関係ない。とにかく行くぞ! 普及を頑張るしかない! と。早速、オランダやイタリアなどソフトの普及に力を入れ始めているヨーロッパの新しい国々に、一緒に頑張りましょう、オリンピックに戻りましょう、私が世界中どこでも行って普及をして認めてもらいます、と働きかけました。

動かない組織に不満を言っても仕方がない、まず自分が動けばいい、と腹も決まりましたし、彼女のあの一言に背中を押されましたね。女性が強いのは、こうした人の気持ちを心意気に感じてやってしまうところではないですか。だから、失うものは何もない、と決心できる。

(写真:福田俊介)

*後編は、11月29日(日)に掲載します。