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海外でリーダーシップを発揮できる人材とは

元日本代表・宮本恒靖が語る「信頼の条件」

2015/10/14
「あのまま指導者になっていたら、僕はまだ世界を知らなかったと思う」──サッカー日本代表において、U-17以降のすべての年代別カテゴリでキャプテンを務めたのが宮本恒靖だ。国際的な大舞台で常にリーダーの重責を背負ってきた彼は、17年間にわたるプロ選手としてのキャリアを終えた後、再び欧州へと向かった。それはアスリートとしてではなく、一人の人間として世界に挑戦するための一歩だった。

宮本恒靖は、サッカー界きってのインテリジェンスで知られる。最終ラインからチームを統率するリーダーシップに加えて、高い語学力で外国人審判とコミュニケーションを取ることも得意とした。シビアな国際試合を戦う代表チームの主将として、抜群の信頼感を獲得していた一人だ。

「僕の考えでは、プレーヤーにはそれぞれ強みがあって、特徴やタイプもまるで違う。バラバラの個性をチームとしてまとめるためには、リーダーはあまり細かいことに口を出さないほうがいい。組織として“自分たちはどこに向かうべきか”という軸を打ち出すことが一番重要。目指すべきビジョンを提示することがリーダーの役割です」

もちろん、先輩として若手選手にアドバイスを送ることもあれば、手痛い敗戦後にチームの迷いを断ち切るため、あえて厳しい言葉を発することもあった。すべては選手とスタッフを含めたチーム全体にポジティブなムードをつくり出し、次の戦いに勝利するため。それが宮本の実践してきたキャプテンの姿だ。

「ただ、リーダーとして周囲から信頼されるためには、前提として自分が高いパフォーマンスを発揮しなければいけない。僕は練習でも試合でも、常に100%の集中力で取り組むことを自分に課していた。それが認められて、はじめてリーダーとしての言葉に重みが出るからです。長い間キャプテンの立場でいたからこそ、自分自身を厳しく鍛えられた部分はあると思う」

ピッチの内外で常にリーダーであることが、宮本のアイデンティティの一つだった。ドイツW杯後には欧州移籍に挑戦し、オーストリアのレッドブル・ザルツブルクでも数試合でキャプテンマークを巻いた。

しかし、当時の練習中に負った左太もも裏の腱断裂というけがの影響もあり、2009年にJリーグへ復帰。そして2011年のシーズン終了後、宮本は現役引退を決断する。

その後のキャリアを考え抜いた末に、「一度サッカーの現場から離れること」を選んだ理由は、スポーツが持つ社会的な役割、そしてビジネス的な価値を改めて深く理解することだった。

「国際スポーツ連盟を引っ張っていくグローバルな人材を育成する」というコンセプトに惹かれ、スイスのスポーツ研究国際センター(CIES)が運営するスポーツ経営の国際修士プログラムに入学することを決めた。

「現役時代は、『自分が生きてきた世界は狭いな』という思いが常にありました。ザルツブルクで2年間プレーしたとき、ヨーロッパ文化に触れたことはもちろん、サッカー界のいろいろなビジネスの仕組みを垣間見られたことが強く印象に残った。

それは日本でプレーしていた頃にはわからなかったこと。引退を機に、もう一度未知の世界に飛び込んで、多くの刺激とインスピレーションを受けたかった」

10カ月かけてイギリス、イタリア、スイスの大学を回り、スポーツの歴史とマネジメント、マーケティング、法律や倫理についてみっちりと学んだことは、宮本にとって新鮮な経験だった。

いわばスポーツ経営専門のMBAであり、元プロサッカー選手が入学するのは宮本が2人目。倍率10倍という狭き門をくぐり抜けてきた世界中の優秀なビジネスパーソンに囲まれながら、プロ生活で鍛え上げた集中力で課題を乗り越えていった。

宮本恒靖(みやもとつねやす)。77年生まれ、同志社大学経済学部卒。95年にガンバ大阪でプロデビュー、00年にA代表初選出。02年、06年のFIFAワールドカップに2大会連続出場を果たす。11年に惜しまれつつ現役引退し、現在は解説者、指導者として活躍中。

宮本恒靖(みやもと・つねやす)
1977年生まれ、同志社大学経済学部卒。1995年にガンバ大阪でプロデビュー、2000年にA代表初選出。2002年、2006年のFIFAワールドカップに2大会連続出場を果たす。2011年に惜しまれつつ現役引退し、現在は解説者、指導者として活躍中

サッカーの力で、民族差別の問題を解決できるか

2013年夏、厳しい10カ月のプログラムを終えて修了証を手にした宮本は、新しいミッションを抱えていた。それは、内戦の爪痕が今なお残るボスニア・ヘルツェゴビナで、サッカーを通じて「民族融和」を促進するプロジェクトを運営することだ。

きっかけは、プログラムの修士論文にあたるグループワークにおいて、「ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルに、民族融和と多文化共存に寄与するような子ども向けのスポーツ・アカデミーを設立できるか」というテーマを選んだことだ。

ボスニア紛争から20年以上たつ現在でも、同国では民族間の対立感情が残っている。中でも西部にある街・モスタルは、ムスリム、セルビア系、クロアチア系の民族同士で差別や分断の問題が根深い。

各民族はそれぞれ居住区域を分け、学校教育も民族ごとのアイデンティティ強化に主眼が置かれている。その対立感情は幼い子どもたちにも負の遺産として受け継がれている。

この問題をスポーツの力で改善することはできないか。宮本たちの最終課題は、現地にスポーツ・アカデミーを設立し、サッカーを通じて若い世代が分け隔てなく交流する場をつくることで、将来において民族間の融和を促進させる可能性を探るものだった。1年間学習を共にした5名のグループメンバーと検討を重ねた結果、「それは可能だ」と結論付けた。

そのリポートが日本の国際協力機構(JICA)に注目され、実際にプロジェクトを推進することになったのが昨年の春のことだ。

「まずはモスタルを視察することから計画が動き出しました。途中で日本大使館や外務省もサポートに入ってくれて、現地の行政やスポーツ協会も巻き込むかたちで、少しずつ大きなプロジェクトのかたちになっていった。

今は日本政府や国連の国際援助スキームから支援を受けて、モスタルの中でも比較的中立なエリアの土地にクラブハウスを建てることが確定しています。これから入札を行い、来年には着工する見込みです」

 モスタルのクロアチア系住民が運営するサッカークラブ「HSKズリニスキ・モスタル」を訪問し、現地の子どもたちに囲まれる宮本氏。

モスタルのクロアチア系住民が運営するサッカークラブ「HSKズリニスキ・モスタル」を訪問し、現地の子どもたちに囲まれる宮本氏

「世界」で信頼をつかむために必要だったこと

もちろん、すべてが順風満帆に進んだわけではない。文化も言語の違う国で、一人の異邦人としてプロジェクトに関わるうえで痛感したのは、「信頼」で人の心をつかむことの難しさだった。

「当初は、現地の人たちから懐疑的な目で見られました。モスタルは民族感情にセンシティブな街で、僕らがプロジェクトを提案にいっても、『なぜ外国人がそんなことを?』という反応で、まともに取り合ってくれない。でも、何度も繰り返し足を運んでいくうちに、徐々に反応が変わっていった。

一つ幸運だったのは、ボスニアの人たちが日本人に対して好意的だったこと。政治的・民族的に中立国だと認識されていることもあるし、2004年に外務省がボスニアに対して“IT教育近代化支援”のプロジェクトを成功させているという土壌もあった。『日本人は信頼するに足る』と思ってもらえる素地があったことは大きかったですね」

アカデミーの存在を世間に周知するために、宮本が現地の子どもたちと一緒にフィールドに立ってプレーするイベントも実施した。一心不乱にボールを追いかける子どもたちの表情には、民族の違いや、差別といった感情の暗い影は一切見えなかった。そのとき宮本は、「このプロジェクトには意義がある」と確信したという。

「今後の課題は、ファンドレイジングの面。アカデミーを開校するまでの経費は支援スキームで賄うことができますが、運営費は自分たちで捻出していかなくてはいけない。今も現地のプロジェクト・マネージャーと協力して、いろいろなプランを検討しています。持続的な運営をするために、そこが乗り越えなければいけない壁です」

モスタルのムスリム系住民が運営するクラブ「FKヴェレジュ・モスタル」のスタジアムで撮影された一枚。修士プログラムの同期生で、ともに民族融和プロジェクトに取り組んでいる仲間と。

モスタルのムスリム系住民が運営するクラブ「FKヴェレジュ・モスタル」のスタジアムで撮影された1枚。修士プログラムの同期生で、ともに民族融和プロジェクトに取り組んでいる仲間と

自分の「強み」を証明することで、信頼を得る

協力してプロジェクトを進めているグループのメンバーには、弁護士もいれば、マーケティングの専門家もいる。宮本は、自らがリーダーとして先頭に立つことより、メンバーそれぞれが持つ「強み」を最大限に生かすことを考えてきた。

「今回のプロジェクトでは、僕がサッカーの元代表選手だというキャリアが注目されて、現地の新聞が追いかけてくれたり、イベントに人が集まったりと、一種のスポークスマン的な役割を果たすことができた。その点では自分の持っている“強み”を生かせたと思います。

海外で活躍するためには、自分の“強み”を証明することが極めて大切だと感じます。何を積み重ねてきて、今そこにいるのか。キャリアや実績もそうだし、良いか悪いかは別として、場合によっては一種のステータスのようなものが“強み”になることもある。

たとえば身につけているものだったり、持っているカード1枚だったりが、自分を助けてくれることもあると思いますね」

そして、再び日本に戻ってきた宮本は、今、改めて指導者への道を歩き始めている。

「海外で学んできたさまざまな経験をもとに、サッカーを文化にしていきたい。そこに貢献していきたいという思いが、一番大きなテーマとしてあります。そこで自分に何ができるかを考えたとき、もう一度現場に戻るという選択肢が出てきた。指導者になるという道が現実的に見えてきたんです」

現在は古巣・ガンバ大阪で育成アカデミーのコーチを勤めながら、日本サッカー協会(JFA)公認S級コーチのライセンスを取得するために研修を受けている最中だ。

先日はスペインの名門クラブ・バレンシアでの指導者研修にも参加してきた。順調にいけば来年にはS級ライセンス保持者となり、Jリーグのトップチームや日本代表の監督を務めることも可能な資格を得る。

「もちろん、Jリーグの監督になることは一つの目標ですし、一方で海外クラブに関わるということも大きなモチベーションです。どのフィールドで戦っていくにしても、僕がやるべきことは、自分の仕事に対して100%の集中力で取り組むこと。そこにこだわり続けていれば、信頼は必ずつかむことができる。そう信じて、一歩一歩キャリアを積み重ねていきます」
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(取材・構成:呉 琢磨、撮影:オカムラダイスケ)

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