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ビジネスをやっていてつくづく思うのは、人の頭の差なんて大差ないということ。大事なのは、本気で、やりたいと思い、執念を燃やし、様々な人とつながり、知恵を得、何度もあきらめずにトライするという姿勢。

これがあれば、出来ないことはない。昨日の松本大さんの記事であった「In the end, we are our choices」だ。
私自身、日本人からアンビション(野心、大志)を奪っているのは、「誰もが同じでなければならない」という同質性だと感じている。
偏差値が諸悪の根源かについては個人的に違和感はありますが、そうだというのもそうでないというのも誰も因果は証明できない中で、大前氏くらいになると感覚で言い切ってもいいんでしょうねw
大学を職業訓練校にすべしという主張は端的で明快なようですが、冨山さんのGとLを分けて考えるべしという論の方が個人的には実態にあうと思う。
Gレベルを目指す学校-旧帝大はほぼこれになるんでしょうがーは、グローバルから人材を集めてそのレベルの教育機関にする一方、Lモードを目指すべき大学は徹底的に職業訓練をすべしという分けなんでしょう。MBAも要は職業訓練校であるという意味ではGレベルでもビジネスエリートの職業訓練校として機能すべきところはあるような気がしますが、一方でノーベル賞を目指す/産学連携を進めていくための世界トップレベルの研究機関としての役割も必要なように思います
それでも根強く偏差値の高い大学信仰が残っているのは、それに代るフィルタリングの手法がわからないからだと思う。センター試験だけ残して、学校毎のペーパテストを禁止し、AO方式の論文、面接、推薦状提出方式にしたらどうか。センター試験も年2〜3回やるのがいい。あと、国立大学は全面的に民営化すべきでしょう。学費は高くなるがその代わり希望者に対する奨学金(支給)を充実させればよい。
アジアの起業家や、特に社会起業家の方にあって感じる日本との一番の違いは アンビジョンと ストリートスマート。日本はこの二点で大きな環境不利をおっていて、そこを磨くのは まず意志と そして先輩の足跡を感じ、ブレーキを外しあえる同胞にとびこむこと。
大学はスタートでありゴールではない。大学を活かすかどうかは、学生次第。
う~む。偏差値を礼讃する気はないけど、だからといってそれが罪だとも思わない。偏差値が全てではないだけで、指標のひとつとしては意味があると思う。
偏差値はパソコンのCPUのクロック周波数みたいなもの。良いCPUであればPCとして優れているかというと、そうではない。メモリの量や、軽さや、バッテリーや、グラフィックボードや、デザイン、載せられるアプリケーションの多さ…。用途に応じて色々な要素で購買判断するはず。それと同じ。
アンビションが大事だってのもよくわかるけど、それだけになっちゃ偏差値至上主義と同じじゃない?アンビション指数とかって定量化できて、その指数で判断したら、ね。
ものさしはひとつじゃない。でも社会生活において一定のルールで序列を作る必要が生じる、その際に何をもって序列をつけるか、というのがもっともっと多様化していけば良いと思う。
国立大が官僚養成用に作られたのは本当か分りませんが、確かに現偏差値や試験が暗記・事務処理能力をベースにしている点から考えたら納得。
明治期は、若手の志ある方が海外に送られ戻って「追いつけ追い越せ」を行った時代なのでこういう仕組みは欲しいです(本当は政治家が担っているのかな?)

最後に片仮名多様の罪。アンビション(志)を途中まで「アンビジョン(ビジョンなし)」と読んでいたので???でした。志が大切は同感です。
なんと過激な。今回は論拠となるファクトが少ないのであまり納得感はないです、というより、大前先生言い過ぎでしょう。
唯一、 自分の頭で考えられない人間を再生産しつづけるシステムになっている、という部分は賛成です。
恩師も、大学入試とその後の実績の相関関係は低いと言っていた。東大の場合は、そうはいっても上位10%くらいの頭がいい人、あとは、多くの勤勉で、ある程度優秀な人はいるだろうが。それでも、模擬試験で最優秀な人のその後は、理3や、理物のOBも含め疑問だ。さらにいうと一発入試ゆえ、もう一度やると半数が入れ替わる。数学で1問ミスをすると、トータル偏差値も3くらい変わることがある。ある分野でノーベル賞なみの実績をとった天才も、浪人だった。
今や、大学の研究室は、文系も理系も就職できない人の既得権益になって、無意味な研究をしている例も多いのではないか。昔は、工学部は、みないったんメーカーにいった人間でいい人を教員にしていた。
入試問題の中身も変え、問題設定力なども見るべきだろう。