【DJ Shintaro】秋田のワルから、史上最年少のDJ世界一へ

2015/9/15
2013年に開催された世界最大のDJコンペティション「Red Bull Thre3style」で史上最年少、アジア人初の世界一に輝いたDJ Shintaro。秋田のワルだった彼はどうやって世界一まで成り上がったのだろうか。
年収約79億円と聞いて、どんな職業を思い浮かべるだろうか。グローバル企業のCEOか、超一流のプロスポーツ選手、あるいは世界的に人気のあるミュージシャンか。  
今年8月、米経済誌『フォーブス』が「Electronic Cash Kings」と題したランキングを発表した。これはクラブやフェスで観衆を盛り上げるエレクトロニック・ダンス・ミュージック(EDM)と呼ばれる分野で「過去12カ月で最も稼いだDJの世界ランキング」なのだが、3年連続で1位に輝いたスコットランド出身のDJカルヴィン・ハリスの推定年収が6600万ドル(約79億円)だった。1位から10位の合計は、2億7400万ドルにのぼる。
このランキングにアジア人が名を連ねたことはない。しかし今、圧倒的な収入を稼ぎ出すこのスターDJたちの背中を追っている日本人がいる。2013年、世界最大のDJコンペティション「Red Bull Thre3style」を史上最年少かつ史上唯一のアジア人として制したDJ SHINTARO(以下、シンタロウ)だ。
DJ Shintaro
1988年秋田県生まれ。4歳の頃からピアノや和太鼓の演奏に触れ、15歳でDJを開始。2010年には韓国で行われた「SeoulWorld DJ Festival」のNoTricks in KOREAで日韓グランドチャンピオンに輝いた。その後スクラッチがメインのバトルDJを卒業し、クラブプレーに注力して活動の場を広げる。2013年には世界最大のDJコンペティション「Red Bull Thre3style」で最年少優勝を果たした。現在は世界中でプレーし、各国のパーティーピープルを踊らせている。公式ホームページはこちら。GMO Culture Incubationの初の公式所属アーティスト・プロデューサーとしても活動(ホームページはこちら)。

「彼女の尻を追いかけて」上京

東京・渋谷の閑静な住宅街。瀟洒(しょうしゃ)な高級マンションの一室にあるシンタロウのプライベートスタジオを訪ねた僕と編集者を案内してくれたのは、チームを組んで彼の活動をサポートしているマネジメント会社の担当者だ。日本のクラブシーンのトップDJとして手にしたこの環境を、秋田ののどかな町で育った少年時代の彼は想像もしなかっただろう。
中学時代、バレーボールやアルペンスキーに熱中していたシンタロウは、高校に入ると「ちょっとグレちゃって」、1学期で中退する。アルバイトをしながら、友人たちと当時好きだった日本語ラップを口ずさみ、サーフィンをして、クラブで夜通し遊ぶという地方の不良にありがちな毎日をすごしていた。
この時期、友人から借りたアメリカの人気DJ、A-TrakのDVDを見て影響を受け、地元のクラブでDJのまね事を始めたが、それも暇つぶしの一つだったと振り返る。18歳の時に上京したのも、何か前向きな目的があってのことではなかった。
「その時に付き合っていた彼女が高校を卒業したら上京するというから、俺もついていこうかなと。彼女のことが好きすぎて、そのお尻を追いかけて上京したんです」
東京に出てきて、すぐに通い始めたのがスクラッチのスクールだった。
スクラッチとは、回転しているレコードを反対側に動かすプレーで、安易なイメージだが、DJがヘッドホンを片耳にあてながらレコードを指先でキュッキュッとこする、あの動作を指す。A-Trakもスクラッチの名手で、「スクラッチってカッコいい」と感じていたシンタロウは秋田でも自己流で練習していたから、KEN-ONEというDJが吉祥寺の自宅でスクールを開いていることをインターネットで知って、門をたたいた。
多少なりとも自分のセンスに自信があったシンタロウはプロのDJにどう評価されるのか楽しみにしていたのだが、期待は外れた。
「最初の授業で、『全然ダメだな』って言われました。ピアノでいうドレミの音階みたいなベース(基礎)の知識が一切ないまま適当にやっていたから、『まずはその癖を直しなさい』って。帰りの電車ですげえ落ち込みましたね」
この時の悔しさと、東京でほかにすることがなかったという事情が重なり、シンタロウは熱心にスクールに通い始めた。しばらくするとKEN-ONEから「上達が早い」とほめられて、それが自信になったという。

スクラッチを磨き、独自スタイルを確立

間もなく知り合いから出会い系サイトのサクラというレアなアルバイトを紹介され、仕事をしながらスクラッチを学ぶという東京での生活のリズムができ始めた──と思った矢先に、どん底にたたき落とされた。
彼女に振られたのである。
そこから、自身で「病的だった」と苦笑するスクラッチ漬けの日々が始まった。
「東京に来た目的が彼女だったし、友達もいないから、やることがスクラッチしかなくなって、1年ぐらい、1日8時間は練習していましたね。渋谷にバイトしに来て、帰ったらメシも食わずにずっと練習して、気づいたら朝みたいな。最初の頃はけんしょう炎になって。電車に乗る時もフェーダー(DJ用ミキサーの音量を調整するつまみ)をカチカチやっていて、ホント病気(笑)。物事に一番はまった時期だったかもしれない」
寝食を忘れるほどスクラッチの練習に明け暮れた結果、シンタロウの技術は急速に高まり、1年後にはスクラッチの大会で優勝するほどのレベルになっていた。この腕前が、徐々に注目を集めるようになっていく。
スクラッチを究めるDJは「ターンテーブリスト」と呼ばれ、レコードを操って魅する技術を売りにする。
一方、一般的なクラブのDJはラップトップやターンテーブルで音楽をかけながら、いかに踊らせるかが腕の見せどころで、選曲や構成が評価の対象になる。シンタロウが20歳だった2008年頃、ターンテーブリストとクラブDJはまったくの別物で、同じ土俵に立つことはまれだった。
だが、シンタロウはクラブ通いで知り合いになったDJやオーガナイザーから声をかけられると、垣根を気にすることなくステージに立った。秋田でも、東京でも十分にクラブで遊んでいて、どんな曲、どんなノリが客に受けるのか肌身でわかっていたから、臆することはなかった。
あとは、自分らしさを見せればいい。シンタロウは客を踊らせる選曲を意識しながら、随所にスクラッチを披露。当時は非常に珍しかったコンビネーションが客に受けて、会場は歓声に包まれた。
この新しさが話題を呼んだ。
「その頃、メインストリームでスクラッチする人がいなかったから、あるクラブの人が面白いと思ってくれて、『これからうちで週末にやらない?』と声をかけてくれたんです。それで、月1ぐらいで何回かプレーしたら店の従業員やオーナーさんにも気に入られて、すぐに箱DJ(専属DJ)になりました」
クラブの専属はDJなら誰もが目指すポジションで、競争が激しく、20歳前後の駆け出しが抜てきされるのは珍しい。超絶と評されるスクラッチを織り交ぜたシンタロウのプレーが、どれだけ客を熱狂させたかわかる。
選曲センスと抜群のつなぎ、超絶テクでフロアーに熱狂を生むDJ Shintaro。

スタッフに食ってかかった新米時代

専属になってから数カ月後、放漫経営がたたってそのクラブは閉店してしまうが、その時にはすでにシンタロウの知名度も高まっており、すぐに他のクラブから声がかかった。都内最大級の規模と集客力を誇る渋谷のクラブ「Camelot」だ。
週末には3000人もの客が詰めかけるこのクラブはDJにとってもトップクラスの舞台で、当然、人気のあるDJが顔をそろえている。20歳そこそこで経験も浅いシンタロウは、週末のレギュラーではなく、平日のイベントからのスタートとなった。
並の男なら、新入りとしての立場を疑問なく受け入れるだろう。
シンタロウは、違った。ほかに誰もできないスクラッチを織り交ぜたプレーを武器に成り上がろうとギラギラしていた彼は、クラブのスタッフに「平日に何人集めれば週末にできるんですか」と食ってかかったのだ。
そして、ヒップホップフロアの平日の集客は200人程度だと聞くと、「それなら倍入れます」と宣言。実際に450人を集めて、週末のプレー時間を獲得した。
さらに、週末でも客の少ない早い時間帯に入れられると、今度は「踊らせることを勉強しないといけないのに、こんな時間にやっても意味ないですよ。何をすればメインタイムでやらせてくれるんですか」と詰め寄り、ほかのDJやスタッフをあぜんとさせた。
「あの時は、人前でやれなきゃ意味がないと思っていたんですよね。根拠のない自信があって、とりあえず目立ちたかった(笑)」(文中敬称略)
(写真提供:GMO Culture Incubation,Inc、撮影:Siion photography)