【DJ Shintaro】下積みから最高給取りへ。決戦前日、世界一への“答え”を確信

2015/9/16
ほかのクラブから移ってきた名もないDJが、「俺にメインを張らせろ」と訴える。
映画やドラマなら「面白い、使ってやろう」というオーナーが現れるかもしれないが、現実はそう甘くない。都内最大級のクラブを運営する百戦錬磨のスタッフにとっては「生きのいい若造だな」程度のことで、「はい、どうぞ」と稼ぎ時の時間帯を任せるはずもなかった。 
しかし、シンタロウはいつ来るかわからない偶然のチャンスを待つタイプではない。DJとしてのし上がるために何をしたら良いのかを考え、意外なアイデアを実行に移した。
DJブースの周囲を丹念に掃除し、床を磨き、機材が壊れたら率先して修理に走った。イベントで使う照明のプログラムも組んだ。プライドを捨てて、とにかく、役に立ちそうなことは何でもやったのだ。
「ヒップホップフロアに俺がいないと困る、俺がいないと仕事が回らない、何か起きた時、シンタロウに聞かないとわからないという状況にしたかったんです」

下積み時代に得た財産

この取り組みを始めるとすぐに先輩DJやスタッフから重宝されるようになり、数カ月もたつとヒップホップフロアに不可欠の存在になった。生意気な若造が、誰よりも真剣にブース周りのケアをしている。その姿を見たオーガナイザーに認められ、次第に週末の良い時間に出演できるようになっていった。
シンタロウが「下積み」と言い表すこの時期を経て得たのは、プレーする時間だけではない。先輩DJのプレーを間近で見て、客に何が受け、何が受けないのかを冷静に分析し、その学びを生かした。得意のスクラッチで変化をつけながら、選曲や構成でほかのDJとの違いを際立たせ、フロアを沸騰させた。
その結果、1年後にはフロアのヘッドDJに昇格し、2年後にはCamelotで最も高給取りのDJになっていた。

てんぐの鼻を折られた日本大会

人気、実力ともに押しも押されもせぬトップクラスのDJとなったシンタロウが、「Red Bull Thre3style」日本大会に初めて出場したのは2011年、22歳の時。「俺が一番だ」と最高にとがっていた時期で、「地方で『俺、イケてるべ』みたいに粋がっているDJは、全員ぶっ殺してやると思ってました」と言うほどだったから、最年少で出場した日本大会にも「俺が勝つ」と自信満々で乗り込んだ。
しかし、てんぐの鼻はポッキリ折られた。シンタロウの前に立ちはだかったのは、1990年代半ばから活躍するDJ 8MAN。いぶし銀のベテランは2011年、2012年と2連覇し、若き挑戦者のプライドを打ち砕いた。この敗戦がシンタロウを原点に立ち返らせた。
「2回目の時はまだとがっていて、自分のスキルで押せばいけると思っていました。でも勝てなかったから、そこで一度吹っ切れて、大会に勝つためには見て楽しめる要素も必要だから、パフォーマンスも取り入れないといけないと思うようになりましたね。それまでステージングは二の次だと思っていたけど、それからの1年は、どうステージングしたら映えるんだろうって考えました」
迎えた2013年6月。8MANが審査員に回ったこともあり、絶対的な本命と目されたのが、得意のスクラッチに加えてステージでのパフォーマンスも取り入れた新生シンタロウだった。
この大会では予想以上の注目度の高さにいつしか「勝たなければいけない」と自分を追い詰めるようになり、大会前には口内炎が15個もできるほど重圧を感じていたという。それでも他を寄せ付けないほど、シンタロウは進化していた。
圧倒的なパフォーマンスで会場を一体化させ、見事に初優勝。ついに世界大会への切符を手にした。

王者に必要なトレンドの創造

2010年から始まった「Red Bull Thre3style」のワールドファイナルは毎年1週間にわたって開催され、審査員には世界的な人気を誇るDJジャジー・ジェフ、キッド・コアラ、スクラッチ・バスティードらが名を連ねる。この大会から、今、世界的に流行しているトーンとメロディーをミックスする奏法「Tone Play」が生まれるなど注目度も高く、まさに世界最大、最高峰のコンペティションだ。
日本大会からトロントで開催されるワールドファイナルまで、わずか3カ月。シンタロウは日本一の余韻に浸る間もなく、準備に入った。
大会では、予選を勝ち抜いた世界17カ国の新進気鋭のDJがしのぎを削る。日本大会と同じことをしては勝てないというのが、シンタロウの出した結論だった。
「日本ではトップのスクラッチの技術があったとしても、海外ではみんな同じぐらいできるから、そこで勝負をしちゃいけない。スリースタイルからいろいろなトレンドが生まれているので、チャンピオンになる人間は新しいトレンドを生み出す人間じゃないといけないと考えて、どれだけクリエーティブなプレーをするかが大切になると思っていました」
そしていよいよ、2013年11月4日の月曜日に開幕した。大会は、4組に分かれて予選が実施され、各グループの勝者とワイルドカードで敗者復活したDJで決勝が行われる。
シンタロウを含む4人は水曜日、1000人弱のファンが詰めかけるクラブでバトルを行った。「さくらさくら」や「スーパーマリオブラザーズ」という日本を意識させるフレーズを織り交ぜたシンタロウの構成は、外れたともいえるし、当たったともいえる。
この日、決勝に進む権利を得たのは、ドイツのDJだった。まさかの予選敗退。シンタロウの挑戦は1日で終わった──はずだったが、そうはならなかった。
3日後の土曜に発表された敗者復活のワイルドカードで、スイスのDJとともにシンタロウの名前がコールされたのだ。
トリッキーなスクラッチを披露するDJ Shintaro。

客が見たいのは、新しいことをするDJ

「予選で勝ったドイツのDJは自分がやってきたこと、みんなが求めているであろうことをストレートにぶつけて、すごく盛り上がった。それを見て、『ヤバい、俺、考えすぎたわ』って思ったんです。案の定、負けたんですが、ワイルドカードをゲットできたのは多分、俺が新しいことをやろうとしたから、もう一回見てみたいと思ったのかなと」
2010年にこの大会が始まって以来、優勝者は開催国のDJだった。ところがこの年は、開催国カナダのDJアダムが予選敗退していたため、多くの人がワイルドカードはアダムに与えられると思っていた。
しかしシンタロウは、「もしかしたら、ワイルドカードに選ばれるかもしれない」といういちるの望みを抱いていた。予選で敗れたにもかかわらず、散歩をしていると何度も町の人に声をかけられ、この大会に関連するツイートでも、「ワイルドカードにはシンタロウを」という声があふれていたのだ。
決勝戦への期待が、シンタロウの集中力を高めた。「考えすぎた」という初戦を省みて、ほかのグループのバトルを見て回りながら、どうプレーすればもっと客を躍らせることができるのか、頭をフル回転させていた。
下積み時代と同じように、客の反応を頭に焼き付けて構成を考えた。ワイルドカード発表前日には、審査員のスクラッチ・バスティードに「スクラッチしに行こう」と誘われたが、それも断り、プラクティスルームに一人こもって深夜まで練習した。
知らないうちにその場で寝てしまい、朝方、清掃係のおばさんに起こされた。そのときには、何かいつもと違う精神状態に入っていたのかもしれない。ワイルドカードが発表された瞬間、シンタロウは確信した。
「俺は、勝てる」──。(文中敬称略)
(写真提供:GMO Culture Incubation,Inc、撮影:Siion photography)