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車内のヒエラルキーを理解せよ

モスクワ、地下鉄を乗りこなす「暗黙のルール」

2015/9/13

「モスクワって夏も寒いんでしょ?」

日本の友達と話すと、いまだにこんな質問をされることがある。

モスクワの夏は、ズバリ、ちゃんと暑いです。

近年は、連日30度を超えることも珍しくなく、エアコンがモスクワ住民の必須アイテムとなりつつある。しかし、日本と比べれば湿度が随分低いので、木陰に入れば涼を取ることができるし、吹く風はさわやかだ。

そんなモスクワの短い夏は、観光シーズンでもある。

冬の間はほぼロシア語しか聞こえてこない街中でも、この時期は英語を始め外国語がかなり入り混じってくる。普段、ほとんど“偶然には”聞くことのない日本語さえも、チラホラと聞こえてくる。

観光客の行く場所といえば、やはりクレムリンやワシリー寺院、ノヴォデヴィッチ女子修道院などの世界遺産がメジャーなところだと思う。

世界一美しいと言われるモスクワの地下鉄でも、旗を持ってたくさんのツーリストを携えたガイドの姿をよく目にするようになる。

今回はその、今年で80周年を迎える地下鉄「モスクワ・メトロ」について少しご紹介したいと思う。

「ソ連の未来を描いた世界一美しい駅」

モスクワ・メトロは、全200駅、総延長327.5km、1日の利用者900万人を超える、世界で5番目に大きな交通システムだ。単純な比較はできないが、東京メトロが179駅、総延長195.1km、1日の平均利用者数644万人。

モスクワの地下鉄にダイヤはないが、ほとんどの路線が2分以内間隔で走っていて、一本乗り逃しても、次の電車を待つストレスは少ない。

ホーム先端のトンネルの入り口には電光掲示のタイマーが設置されており、電車が出発してから、次の電車が到着するまでの時間がカウントされる。ここのタイマーが2分30秒以上を表示することは、かなり稀だ。

そんな優秀な市民の足は、地下美術館でもあり、44の駅が文化的価値の高い遺産だとされている。

たとえば、革命広場駅。

大理石でつくられたアーチを両脇から支えるように、ソ連市民のブロンズ像が立っている。農夫や作家、パイロットから児童まで、さまざまな人々が生き生きと表現されたその作品に、スターリンも感銘を受けたという。

全76体のブロンズ像の中でも、特に人気なのは国境警備員が犬を携えているものだ。この像の姿をしばらく見ていると、通り過ぎる人の多くが、犬の鼻を撫でていくことに気がつく。この犬の鼻を触わると、幸運が訪れるという言い伝えがあるのだ。

毎日多くの人に撫でられているので、この犬の鼻だけ色が変わっている。とても目立つので、たくさんのブロンズ像にも紛れることなく容易に見つけることがある。(革命広場駅)

毎日多くの人に撫でられているので、この犬の鼻だけ色が変わっている。とても目立つので、たくさんのブロンズ像にもまぎれることなく容易に見つけることがある(革命広場駅)

スピリチュアルなことが大好きなロシア人だけに、中にはこの駅に来るたびに必ず犬の鼻を触わって行く人もいる。毎日たくさんの人の手で磨かれ、この犬の鼻はピカピカに光り輝いている。

観光客はもちろん、通勤途中のモスクワっ子も鼻を触っていく。(革命広場駅)

観光客はもちろん、通勤途中のモスクワっ子も鼻を触っていく(革命広場駅)

世界で最も美しいと言われるマヤコフスカヤ駅も必見だ。

大理石やステンレスがふんだんに使われ、シンプルかつ洗練されたデザインは、デコラティブなほかの多くの駅とは一線を画している。

ロシア・アバンギャルドの詩人ウラジミール・マヤコフスキーが描く「ソビエトの未来」をイメージして造られた駅だ。

ロシアの建築家、アレクセイ・ドゥーシュキンの代表作となったマヤコフスカヤ駅。1938年開催の世界建築博覧会でグランプリを受賞している。

ロシアの建築家、アレクセイ・ドゥーシュキンの代表作となったマヤコフスカヤ駅。1938年開催の世界建築博覧会でグランプリを受賞している

ドイツ軍がモスクワの玄関口にまで迫っていた1941年11月7日、スターリンはモスクワ市民を「ソ連の未来を描いた世界一美しい駅」に集めて戦意高揚のスピーチを行った。

地下33mにつくられたこの駅は、防空壕としても使われた。

マヤコフスカヤ駅に限らず、モスクワではたくさんの駅が地下深い場所に造られている。

一番深い駅が、地下84mにあるパルク・ポベディ。世界で3番目に深い駅だ。

そしてここには、ヨーロッパで一番長いエスカレーターがある。長さ126mを740段で一直線につなぎ、地下84mまで運ぶ(参考までに、東京、日本橋の明治座のビルが高さ85m)。所要時間は約3分。

乗ってみるとわかるが、これはちょっと退屈するぐらい長い。

若い男性はとにかく席を譲るのが常識

つい先日、日本ではエスカレーターの片側歩行禁止を徹底させるというニュースが出ていたが、モスクワ・メトロにもエスカレーター利用時のルールがある。

“右側に立ち、左側は歩行者のために開けること”

同社のホームページにも記載されている正式なものだ。

わが家の最寄駅も結構深いところに位置しているため、急いでいるときには片側が歩けるのはありがたい。

しかし、日本のそれよりずっと長く深く、出発点から終点を視認することもできないモスクワメトロのエスカレーターを歩くのは、かなりスリリングでもある。一歩踏み外せば、大惨事になりかねない。

日本のものと比べると勾配もきついので、見上げても見下ろしても迫力がある。左側を歩行者のために開けておくルールはおおむね守られているが、そこを歩いて行く人はそれほど多くない。

日本のものと比べると勾配もきついので、見上げても見下ろしても迫力がある。左側を歩行者のために開けておくルールはおおむね守られているが、そこを歩いて行く人はそれほど多くない

もうひとつ、メトロ利用の際の大事なルールを紹介したい。

こちらはホームページでの記載はないが、メトロに限らず、バスでも電車でも、あらゆる“車内”での暗黙のルールなので、モスクワ(ロシア)訪問の予定のある人には、ぜひ知っていてほしい。

・“車内”で年配以上の女性が立っていたら、席をゆずること。
 ・年配じゃなくても妊婦には席をゆずる。
 ・妊婦じゃなくても、荷物をたくさん持っていたりする女性にもゆずる。
 ・年配以上の男性にも席をゆずる。
 ・もし、ゆずるべきかどうか迷う状況で、あなたが若い男性だったら、とにかくゆずっておけば、それが“正解”だ。

もし、ゆずるべき状況下にあるのに、あなたがそれに気づかず座っていたら、おっかない顔をした強そうなロシア人のおばちゃんに、席をどくように促されるかもしれない。

席をゆずったあなたに、お礼のひとつも言わずにドカッと踏ん反り返って座るかもしれない。でも、それに腹を立ててはいけない。

それがモスクワ“車内”のヒエラルキーなのだ。

自分より弱い者(見た目のことではありませんよ)が立っていたら、席をゆずる。

だから、中年女性も年配の女性に席をゆずるし、年配の男性が座っていても、おばあちゃんが乗ってくれば席をゆずる。なんのちゅうちょもなく、ゆずる方もゆずられる方も、当たり前に。

最初の頃は、「席をゆずってあげたのに、お礼も言わないのか」と少し残念な気分になったりもしたが、状況が理解できると、この“暗黙のルール”は結構心地がよい。

旅行などの短い滞在では、建築物や美術品を見るだけで精いっぱいかもしれないが、移動のメトロの車内ではぜひ、ロシア人観察もしてみてほしい。日本とはまったく別のカルチャーの“優しさ”を垣間見ることができるかもしれない。

嫌な所もたくさんあるけれど、こんな飾り気のない“当たり前”な温かさを、私は割と気に入っている。

<連載「『駐在員妻』は見た!」概要>
ビジネスパーソンなら一度は憧れる海外駐在ポスト。彼らに帯同する妻も、女性から羨望のまなざしで見られがちだ。だが、その内実は? 駐在員妻同士のヒエラルキー構造や面倒な付き合いにへきえき。現地の習慣に適応できずクタクタと、人には言えない苦労が山ほどあるようだ。本連載では、日本からではうかがい知ることのできない「駐妻」の世界を現役の駐在員妻たちが明かしていく。「サウジアラビア」「インドネシア」「ロシア」「ロサンゼルス」のリレーエッセイで、毎週日曜日に掲載予定。今回は「ロシア駐在員妻」編です。

【本文執筆】りり
ドイツでの3年を経て、現在駐在生活10年目。モスクワ在住のブロガー。おそロシアで、おもロシア。究極のツンデレ国を素人目線でご紹介します。