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湘南ベルマーレ・大倉智社長(第3回)

Jリーグに退屈な印象があるのは、個性的な指導者が少ないから

2015/9/2
湘南ベルマーレはJリーグにおける「市民クラブ」の模範とされているが、経営は決して楽観視できない。大倉智社長へのインタビュー第3回では、Jリーグが足踏みしている理由を「試合」の内容という視点から論じる。
第1回:湘南の叫び「Jリーグが規制緩和しないと市民クラブはしんどい」
第2回:堀江さんに賛成。Jリーグの強気な規定が自治体を動かす

個性的な指導者が少ない

金子:Jリーグは創設から20年が経ち、勤続疲労を起こしている部分があると思います。経営以外のところでは、どんなところに問題を感じていますか。

大倉:18歳から21歳の育成が課題にあげられていますが、結局、その問題の本質は指導者にあると思います。指導者が差別化されていない。

金子:確かに若い世代のサッカーを見るのは退屈。どれも同じ。

大倉:元日本代表選手たちがS級を取っても、クラブがやらせてくれないからなのか、自分の色があるサッカーをなかなかできない。俺のサッカーはこうだ、という個性的な指導者が限られていますよね。

大倉智(おおくら・さとし)1969年東京都生まれ。暁星高校から早稲田大学に進学し、1994年に日立製作所に入社。社員選手として柏レイソルでFWとしてプレーし、1996年にプロへ転向。ジュビロ磐田、ブランメル仙台を経て、現役最後の1年間はアメリカ独立リーグのジャクソンビル・サイクロンズでプレーした。スポーツマーケティングに興味を持ち、引退後にバルセロナのヨハン・クライフ国際大学に約3年間留学。そこで得た人脈から2001年にセレッソ大阪のチーム統括ディレクターに抜てきされ、2005年に湘南ベルマーレの強化部長に就任。2013年にゼネラルマネージャーになり、2014年4月に社長を任された

大倉智(おおくら・さとし)
1969年東京都生まれ。暁星高校から早稲田大学に進学し、1994年に日立製作所に入社。社員選手として柏レイソルでFWとしてプレーし、1996年にプロへ転向。ジュビロ磐田、ブランメル仙台を経て、現役最後の1年間はアメリカ独立リーグのジャクソンビル・サイクロンズでプレーした。スポーツマーケティングに興味を持ち、引退後にバルセロナのヨハン・クライフ国際大学に約3年間留学。そこで得た人脈から2001年にセレッソ大阪のチーム統括ディレクターに抜てきされ、2005年に湘南ベルマーレの強化部長に就任。2013年にゼネラルマネージャーになり、2014年4月に社長を任された

監督が選手を信用しないと、試合が退屈になる

金子:日本の指導者を見ていて思うのは、基本的にコピーですよね。自分で新しいサッカーをつくって、世界を驚かせようっていう発想はほぼゼロ。それがJリーグがつまらない一番の理由だと僕は思っている。ただ、楽観視している部分はあって、明治維新後、日本が西洋をこぞってまねした中、山本五十六は出てきたわけで。

大倉:なるほど。ただ、今の日本サッカー界においては、指導者がコピーさえもしていないと感じる部分があります。もっと本気で世界から勉強したほうがいい。

口では海外はこんなサッカーをしていると言っていても、いざ監督になると目的が勝ち点3だけになってしまう。そういう指導者があまりにも多いと思います。もうひとつは、選手をできない前提で指導している。だから戦略で勝ち点3を取ろうとする。それだと選手の成長は一生ない。これが見ていてつまらなくするんだと思います。

哲学のぶつかり合いを見たい

金子:Jリーグを見ていても、あまりサッカーに違いがないですもんね。

大倉:もっと監督の哲学のぶつかり合いを、試合で見たいんですよ。第1ステージの柏レイソル対湘南ベルマーレはまさにそうでした。レイソルは後ろからパスを回そうとして、うちが全部追いかける。そのやり合いで、純粋に観戦者として面白かったし、あっという間に時間が過ぎました。結局0対0でしたが、ベルマーレにとって第1ステージのベストゲームだったと思います。

金子:TV観戦でしたが、最高に楽しませてもらいましたよ。

大倉:手前味噌ですが、ベルマーレを率いる曺貴裁は、選手を鍛えて90分間走らせて、「お前ら世界に行くんだぞ! 世界はこんなんじゃないぞ!」って言い続けられる指導者です。

Jリーグのクラブは、勝ち点3だけでなく、もっとサッカーの試合という商品にこだわらなければいけないと思います。

「市民クラブだから言えるんだ」とよく言われるんですが、でもサッカーの試合という商品にこだわれば、勝つ確率は間違いなく上がる。それを今季のJ1でベルマーレは証明したい。

アメリカの独立リーグに行った理由

金子:そもそもなぜ大倉さんは、サッカー村の住民にとどまらなかったんですか。

大倉:現役時代にクラブのマネジメントに対して、不満があったからです。その疑問を解決するために、スポーツマネジメントを学びたいと思い、現役の最後にアメリカの独立リーグへ行きました。

金子:アメリカを選んだのは、当時としてはすごく画期的だったと思うんですが。

大倉:もともと親の仕事の関係で、子どものときにアメリカに住んでいたことがありました。だから英語は問題なくて。

友人の紹介で、コロンビア人がオーナーのクラブのテストを受けました。ニューヨークにあるジャクソンビル・サイクロンズというチームで、アメリカにおける実質2部です。

テストに合格して、4月から10月までプレーしました。月給は15万円くらい。最後の2カ月は給料の未払いが起きてしまいましたが、それでもサッカーをやりたかったんです。

ヨハン・クライフ大学で学んだこと

金子:その後、大倉さんはバルセロナに行き、ヨハン・クライフ大学に入学しました。なぜスペインを?

大倉:母がアメリカに送ってくれた朝日新聞の記事に、ヨハン・クライフがセカンドキャリアのサポートとして大学を始めると書いてあった。「これだ!」と思って、まだ子どもがいなかったので妻と2人でスペインに渡りました。

金子:クライフ大学での勉強は役に立ちましたか。

大倉:それほど役には立たないですよ。スペイン語で簿記の授業とかをやるわけですから(笑)。

ただ、バルセロナに3年間いて、間違いなく人脈が広がりました。日本のサッカー関係者が来たときにアテンドして知り合いになり、西澤明訓がエスパニョールに加入したときはピッチ外のサポートをしました。

今、もう1度ヨーロッパに行きたいという想いが強くなっているんですよ。ヨーロッパのサッカーの舞台で働いてみたい。そのためにベルマーレでは後継者も育てていますよ。今、元選手が数人フロントで働いています。ヨーロッパでサッカーの仕事を見つけるのは簡単ではないかもしれないですが、いつか実現させたいです。

あとは、サッカー指導者民間学校をつくりたいですね。皆で世界を分析して、勉強して。いつの日か元プロサッカー選手でないJ1の監督が誕生するように。

(構成:木崎伸也、写真:福田俊介)