【井崎英典】高校中退の無職から世界一のバリスタへ

2015/8/4
2014年に開催されたワールド・バリスタ・チャンピオンシップで、アジア人初の世界一に輝いた井崎英典。若干25歳の世界王者は、その8年前の16歳のとき、高校を中退して行き場を失っていた。どん底から、なぜ世界の頂点を極めることができたのだろうか。
アグロ・タケシ。  
その響きは日本人の名前のようにも聞こえるが、ボリビアでも1、2を争うコーヒー農園の名前だ。
長野県小諸市の丸山珈琲にて取材が始まる前、2014年の「ワールド・バリスタ・チャンピオンシップ(WBC)」王者、井崎英典が「ぜひ」と僕に勧めてくれたのが、このコーヒーだった。カップが運ばれてくると、井崎は少し身を乗り出して、とっておきのストーリーを教えてくれた。
「アグロ・タケシは世界で一番標高が高い農園と言われていて、1750メートルから2600メートルの場所にあります。標高2000メートルを超えると高山植物に変わり、普通の植物は自生できないんですけれど、ここの土壌の下にはインカ文明の遺跡があって、大きなゴツゴツとした岩がいっぱい埋まっている」
「だから日中、強い日差しを浴びると石に蓄熱されて土壌が温まるので、コーヒーの根が死なないんです。コーヒーは寒暖差があればあるほど良いと言われているので、アグロ・タケシは世界中のバイヤーが喉から手が出るほど欲しいコーヒーなんですよ」
高山植物しか育たない厳しい環境の中で、インカ文明の遺跡に温められて育ったコーヒーは、口に含むと複雑な酸味がフワッと広がり、驚くほど芳醇(ほうじゅん)だった。
思わず、「……これは美味しいですね」とストレートすぎる感想を漏らすと、井崎はニコリと微笑んで「ありがとうございます」と頭を下げた。
その爽やかな振る舞いからは、「熱血」という言葉が似合う井崎の生きざまは想像できなかった。
井崎 英典(いざき・ひでのり)
1990年生まれ、福岡県出身。高校中退後、父が経営するコーヒー屋を手伝いながらバリスタに。コーヒーの美味しさをもっと追求したいと、法政大学入学と同時に丸山珈琲でアルバイトを始め、2013年に大学を卒業後、丸山珈琲へ就職。バリスタ日本大会では2連覇(2012、2013年)を達成し、日本代表として出場したバリスタ世界大会では2度目の挑戦となる2014年に、日本人初、アジア人初の世界チャンピオンという快挙を見事に成し遂げた。

バリスタを始めた不純な動機

16歳でコーヒーの世界に足を踏み入れたとき、井崎は追いつめられていた。
博多の街でやんちゃな少年時代を過ごしていた井崎は勉強が大嫌いで、「アルファベットはE、F、Gくらいまでしかわからなかった」。
しかし、生活指導の教師の勧めで始めたバドミントンにはのめり込み、そのうち、県大会でも上位に食い込むようになって当時、福岡県内で一番バドミントンが強かった高校に、スポーツ特待生として進学した。
ところが思うように成績が伸びずにいら立ち、嫌気がさし、遊び歩くようになって、わずか1年で中退。井崎はこのときを、「俺はグレートになるっていう根拠のない自信があって、俺は中卒でも腕一本、いや、むしろ指一本でも食っていけるくらいに思っていました」と振り返るが、世の中はそう甘くない。
博多に戻った井崎を待っていたのは、グレートではなく、どんよりグレーな日々だった。仕事を探そうにも、高校中退したばかりの16歳を採用する企業はなかなかない。いわゆるガテン系の仕事をしても、「こんなはずじゃなかった」という想いが湧き上がってくる。
次第に焦りが募ってきたときに救いの手を差し伸べたのは、父親だった。
「親父は、自分の人生だから好きにしろ、ただし、自分のケツは自分で拭けという人で、普段は何やっても何も言わないんです。その親父にある日、『英典、お前、これからどうすんだ』と聞かれました」
「親父は博多でハニー珈琲というコーヒー屋をやっているんですけれど、そのときに『お前にやる気があるなら、バリスタをやってみるか』って言われて、僕はもう、このままじゃにっちもさっちもいかないなと思っていた時期だし、それならやってみようかなと親父の店で働き始めました」
実は、井崎は子どもの頃からコーヒー屋の仕事に否定的な感情を抱いていたという。それは、ほとんど朝から晩まで働き詰めの両親の姿を見て、大変な仕事だと肌で感じていたから。
それでも父親のもとで修業を始めたのは、高校に入学してから退学した後まで、なにひとつうまくいかず、精神的に追い詰められていたのもあるのだろうが、もう1つ、心を動かされたことがあった。
「バリスタという言葉の響きがカッコよくて、これはモテるなと思ったんです」

予備校に通い、1年間で偏差値35→70

16歳の少年にとって、モテるか、モテないかは重要な指標になる。ある意味、わかりやすい動機でスタートしたバリスタの仕事は、すぐに井崎の心を捉えた。
「当時、僕は承認欲求がすごく強くて、人に認めてほしかったんです。店では、僕は親父の息子だから、いろいろなお客さんが、『ひでくん、ひでくん』って声をかけてくれました。それでだんだん居心地がよくなってきた。それと同時にバリスタという仕事に出会って、『あ、これが俺の輝ける場所だ』って直感的に思いましたね」
「うまく説明できないですけれど、今でもその感覚を覚えているんですよ。僕は結局、バドミントンから逃げた。自分の弱さに負けて、高校も辞めた。でも、心の中ではもう1回、馬鹿みたいに打ち込める何かを見つけたかったんでしょうね」
もともと、自分がやると決めたことにはとことん打ち込む性格だった井崎は、バリスタのトレーニングに没頭した。
そして1年後、WBCの予選も兼ねているジャパン・バリスタ・チャンピオンシップ(JBC)に17歳で初めて出場すると、参加160人中24位に入った。大会史上最年少だったから、ほかのバリスタからも、審査員からも健闘を称えられたが、このとき、優勝者は世界大会に出場できると知った17歳の少年は人知れず、壮大な野望を抱いた。
「いつか、世界王者になりたい」
世界を意識すると、自分に足りないモノが明確になった。
「親父が仕事で東京に出るときに同行させてくれるようになったんですけれど、仕事の話を聞いていても、円安とか円高とか、何の話をしているのかさっぱりわからない。あと、やっぱりコーヒーはグローバルな飲み物で、英語が話せないと話にならないと気づいて、世界一を目指すには教養が必要だなと」
猪突猛進型の井崎は、目の前に目標があるときには躊躇(ちゅうちょ)がない。
まず、通信制の学校に入って高卒認定試験(旧大検)に合格。その後、予備校に入ると、最初に受けたテストはほぼ0点、偏差値35だった問題児が怒濤(どとう)の勢いで勉強を始め、わずか1年で難関大学合格レベルの偏差値70まで急上昇させた。
この予備校生時代にもJBCに出場し、18歳にして7位入賞。そして、その半年後には法政大学国際文化学部国際文化学科に合格し、世界制覇への一歩を踏み出した。(文中敬称略)
(撮影:川内イオ)