2024/10/21

【東浩紀】「人類一丸はありえるのか」現代社会のジレンマを問う

NewsPicks ThinkVertical / Chief Editor
 気候変動、戦争、エネルギー問題。山積する地球規模の課題を、批評家・哲学者の東浩紀氏はどう捉えているのか。
 技術革新への期待と現実のギャップ。環境問題と経済成長の両立は可能か。分断社会を超える対話の場とは──。
人間と社会の新たな可能性を模索する、刺激的な問題提起。
INDEX
  • 技術停滞の時代に
  • ビッグデータの限界
  • 人類共通の目標は可能か
  • 小さな議論から始まる変革

技術停滞の時代に

──東さんの著書『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)は、共同体の柔軟な原理として「訂正可能性」を導入する視点が、未来社会に向けた課題を探る私たちにとってもたいへん刺激的でした。たとえば、東さんは気候変動問題などをどうご覧になっていますか。
 僕は専門家ではないので、気候変動については意見を言う立場にありません。ただ、社会問題がすべてテクノロジーで解決できるという話には疑問を抱いています。
 そもそも僕は、いまは「知」が停滞している時代だと思っているんです。大多数の人とは異なる時代認識だと思いますが。
 哲学者の廣松渉に『世界の共同主観的存在構造』(1976年)という本があります。その本の冒頭で、廣松は次のようなことを言っているんですね。
 20世紀前半は、科学において次から次へ華々しい変革が起こった。数学なら集合論、物理学であれば量子力学や相対性理論などです。ところが、それから半世紀近く、どの領域でもあまり世界観の革新は生まれなくなった。そこを突破するために自分は新しい哲学をやるんだ、と。
──1970年代半ばそういう認識があったと。
 そうです。廣松は触れていませんが、1970年代は学問の限界がさまざまな領域で指摘された時代でした。
 その前の1960年代までは、「未来学」なる学問があって、バラ色の未来予想がなされていた。いまでいう「シンギュラリティ」のような議論もすでに出ていました。このまま科学が発展していけば、あと何十年かで人類は太陽系を飛び出すこともありえるんじゃないかと、それぐらいのことが言われていた。
 ところが実際には、裏側でさまざまな社会的矛盾が蓄積していました。
 1960年代末になると、それらがどっと表面化してくる。環境問題やエネルギー問題も意識されるようになる。このままだと明るい未来はない、科学がすべて解決してくれるというのは楽観的すぎた、という認識が1970年代頃にはあったわけです。
 では、そのような認識はもう時代遅れなのでしょうか?
──いまはまた、新しいテクノロジーが日々、喧伝されているように感じられますね。
 でも実際、人類はまだ火星にも行っていないですよね。実現していないことだけでなく、解消できていない問題も多い。
 たとえば、原発の問題がそうです。高レベル放射性廃棄物、いわゆる核のゴミをどう処理するのかという問題は、50年も前から認識されているのにいまだ解決できていない。そして人類は問題を先送りしたまま原発を使い続けている。
 べつに原子力そのものを否定しているのではありません。そもそもエネルギー問題については、核融合さえ実現すれば、すべて解決するという考え方もありえます。僕自身もそう思います。
 問題はそこが停滞していることです。核融合の実現はまだまだ先です。いまは実用化の可能性がかすかに見えてきたという段階ですよね。
 では、この半世紀、いったいなにが「進歩」したのか? 冷静に見れば、僕たちが本質的に手に入れたのは、けっきょくインターネットと携帯電話ぐらいなんです。
 この半世紀、情報技術やコミュニケーションはたしかに飛躍的に進歩した。世界中の人がいつでもどこでもつながれるようになった。半世紀前には夢にも想像できなかったことが、簡単にできるようになった。
 でも、それだっていまは停滞期に入っているかもしれない。
 ツイッターもフェイスブックももうできてから20年です。そんなネット(ウェブ2.0)を超えようとして、最近でもウェブ3.0だ、ビットコインだ、NFTだ、DAOだといろいろ言われていましたが、けっきょく新しい世界観を打ち出すには至っていない。
 ブロックチェーンはたいへん素晴らしい技術だと思いますが、いまのところは新たな投資対象(暗号通貨)がひとつ増えたということにすぎなかったりする。

ビッグデータの限界

──情報技術の観点では、ビッグデータ利用の問題も『訂正可能性の哲学』で指摘されていますね。
 けっきょく問題は、「データを集めてなにをするのか?」ということではないでしょうか。
 僕もゲンロンという小さな会社を経営していますが、データを集めるのもいいし、分析するのもいい。でも、それで新しい商品や戦略が出てこなければ、意味がないわけじゃないですか。
 同じことが社会全体についても言えると思います。
 現代社会はたしかに膨大なデータを集めることができる。でも、それをもとに新しい知見や政策が生まれているかというと、どうも怪しい。ビッグデータ分析の結果として賑々しく報道されるものも、誰もがすでに常識として実感していることが多いような気がします。
 ひとつ例を挙げると、すでに多くの人が存在すら忘れていると思いますが、コロナ禍にAppleとGoogleが共同で開発した、Bluetoothベースで濃厚接触者を検出するデータ技術がありましたよね。日本でもそれをもとにアプリがつくられました。
 当時は鳴り物入りで発表されましたが、感染予防に役立ったという話を聞きません。ちなみにGoogleはAIを使った感染予測も公表していましたが、あれもほとんど意味がなかった。
 振り返れば、コロナ禍では人々の「常識」のほうがよほど正確だった。パンデミックが始まった頃、感染症の歴史に詳しい一部の専門家は、感染症の流行は2年から2年半ぐらいで収まる、みなさん落ち着いて、ということを言っていた。実際それこそが正しかったわけです。
  繰り返しますが、僕は技術を否定しているわけではない。ただ、いまの技術はまだまだ不充分で、そんなになにもかもテクノロジーで解決できるわけではないということには自覚的であるべきだと思います。
──ビッグデータが扱うのは、私自身のデータではなく、私に似たモデルの人はこう行動するはず、という代理データなので、意外と本質は伝統的な推論と変わらないという話もありますね。
 そのとおりです。しかも数字があることでビジネスになりやすい。この広告はこれぐらいクリックされて、コンバージョンがこうで売上がこうでと数字が並べられると、お金を取りやすい。だから、経済は回る。
 けれども、そこで本当に消費者が商品に満足したのか、次もまた買いたいか、などの心の動きは見えてこない。本当はそれこそがクライアントにとって重要なはずなのですが。
人間は統計の一部ではなく、固有の生を生きている。ひとは一回しか生きることができないし、一回しか死ぬことができない。少なくともほとんどのひとはそう感じている。これは理念や哲学の問題ではなく、いま人間が実際にどう感じどう生きているかという、きわめて具体的な現実の話である。
(東浩紀『訂正可能性の哲学』)
 いずれにせよ、そういったレコメンデーションの限界、あるいは政治的文脈に広げればフィルターバブルの弊害などの問題も、20年ぐらい前からずっと指摘されていますが、とくにそれを解消する技術は現れていません。
 むしろネット広告は山のように増えて、ネットの視聴体験は質的に劣化している。「あと20秒見れば、報酬が得られて記事が読めます」みたいな技術を発明されてもな、と誰もが思っているんじゃないですか。
──ちなみにこの記事はそんなことはないので、大丈夫です(笑)。
 安心しました。ですから最初の話に戻ると、いまは社会と科学技術の関係が停滞期に入っているという認識を持ったほうがいい。
 とりわけ、気候変動は社会的要因が大きな問題です。技術で解決できることには限界があるでしょう。
 問題解決のためには、同時に世界観の更新が必要だと思います。「我々にとって幸福とはなんなのか?」「自然との関係をどう考えるのか?」そういったことを根本から考える必要があると思います。

人類共通の目標は可能か

──自然環境について考えるとき、東さんは市場経済、つまりマーケットという存在はどう捉えますか。
 「社会と市場」「社会と自然」と分けることにはあまり意味がないと考えています。市場も自然も環境のひとつです。あるアクターがいて、それが広義の環境とどう相互作用するのかが重要です。
 誰かがなにか商品をつくるとする。そのためには、技術も、材料も、資金も、人手も必要です。それぞれが変数となる。そのうえで生産者はもっとも利益が出るように判断を下すわけです。
 だから、自然保護の優先度を高くしたいのであれば、「自然」を利用するコストを高く設定するのが合理的なやり方でしょう。
──いわゆる「ピグー税」(自然環境への悪影響分を課税で上乗せする)的な考え方ですね。
東 ええ、結果的にコストが高くつくから、木を無駄に伐採したり川を汚染したり自然に負担をかけることなく商品を開発したほうがいいよね、とみなが考えるようになれば、おのずと自然は保護されていく。
 ただ、ここで難しいのは、その判断は労働力の問題とも関係することです。
 現代社会は人間がやればいいことも、AIやロボットに置き換えようとしている。ファミレスでもロボットが配膳をする。これは、要は人件費が高いからです。
 AIやロボットのほうがコストが安いとなれば、人間の労働はどんどん置き換えられていく。しかし、それはエネルギーや資源の点でみれば、無駄なのかもしれない。つまり、人間ができることは人間がしたほうが、自然には優しいのかもしれない。
──AIのために電力需要が増加するという見方もあります。
 そうです。AI社会はかつてなく電力を消費する社会です。核融合のような飛躍的な技術革新がないかぎり、絶対に環境への負荷が大きくなる。そこは議論すべきです。
 いずれにせよ、人間にやらせたほうが環境に優しいような仕事でも、貧困や社会福祉の観点からするべきでないことがある。ここにもジレンマがあります。
──経済活動の外部条件として、気候変動については、COP(気候変動枠組条約締約国会議)など国際的な枠組での目標も設けられています。
 もちろん国際機関が目標を設けることは重要です。ただ、強制力はない。加えて重要なのは、環境問題は軍事や安全保障と密接に関係していることですね。
 いくら日常生活で抑制しても、戦争が起こればミサイル一発で膨大な量のCO2が出てしまう。ウクライナやガザでは市街地がバンバン燃えている。
──ロシアのウクライナ侵攻に関連して、短期的だとは思いますが、欧州では化石燃料への回帰があったり、LNGの買い占めで価格が高騰するなどの影響が言われています。そして、戦争自体が膨大なCO2を排出するのもまちがいありません。
 それを放置して「カーボンニュートラル」と言っても虚しい。
 ロシアのウクライナ侵攻の前は、グレタ・トゥーンベリの発言が注目され、セレブがジェット機を使うのが問題視されたりもした。その観点で戦闘機やミサイルを見たらどうなるか。
 いま戦争の例を出しましたが、これはじつは本質でもあります。つまりは、国際社会の足並みをひとつのモノサシで揃えようというのがどだい無理なんです。
 戦争が起これば、CO2抑制の問題など吹き飛んでしまう。
 科学者は「気候変動は人類共通の問題のはずだ」と言うかもしれませんが、そんなことを言ったら貧困も人類共通の問題です。気候正義のもとに、ある地域の人たちは貧しくても資源の利用が制限されるとか、経済成長が阻害されるとかが許されるのか。
──先進国が引き起こした気候変動の影響を被るのも、主にそうした地域の人たちが多いと言われています。
 乱暴な仮定ですが、たとえば気候変動の問題が19世紀の帝国主義時代に起こっていたとしたら、意外と解決は楽だったかもしれない。少数の帝国が自分たちの正義を全世界に押しつけ、途上国に負担をかけても知らんぷりをすればいいだけですから。
 しかし、現代はそういう時代ではない。そして、僕は気候変動にかぎらず、いまの世界で、ひとつの大きな目標に対して、人類一丸となって自分たちの欲望を抑え込むようなことはできないと思う。
 人類はそういうふうに社会をつくってこなかったし、むしろそうならないようにしてきた。
ぼくたち人間は、絶対的で超越的で普遍的な理念を、相対的で特殊的な事例による「訂正」なしには維持できない。そのようなかたちの知性しかもっていない。政治の構想もまたその限界には制約される。
(東浩紀『訂正可能性の哲学』)
 これは『訂正可能性の哲学』にも書いたことですが、社会をうまく管理すれば、私たちはもっと効率よく生きられるはずだと考える人がいる。けれどもじつは、人類はそれを望んでいないんです。
 人類の歴史は、他人に管理されたくない、自分のことは自分で決めたいという自由の拡大の歴史です。それは人権の基本でもある。その前提と、気候変動に対して人類社会が一丸となって取り組むというのは、残念ながら原理的にぶつかっているように思います。
 できることは、さきほども言ったことですが、「人々が自発的に気候変動に取り組むようにする」制度を少しずつ整えることぐらいしかないでしょう。ですが、それだって従わない人々や団体はどうしても出てくるし、それを完全に抑え込むのは不可能だと思います。

小さな議論から始まる変革

──では、ここから長いスパンで人類が進歩していく可能性は?
 問題は「進歩とはなにか」ですね。たしかに技術は進歩している。人権意識も高まっている。それはまちがいない。
 でも、同時に大きな限界もある。人間は繰り返し同じ失敗を繰り返す。
 20世紀は人類の転回点となる世紀でした。第1次大戦の毒ガス兵器から始まり、第2次大戦におけるアウシュビッツや広島・長崎など、かつては想像もできない数の人々が殺された世紀でもあった。
 だから、21世紀が始まった頃は、さすがにもう人類は、たとえ地域紛争のような小競り合いはあれ、20世紀のような大戦争を行い、大量に人を殺戮するようなことは行わないだろうと思われていた。ところがいまやガザでは子どもたちが殺され、世界戦争の可能性も囁かれるようになっている。
 今年のノーベル平和賞は日本原水爆被爆者団体協議会が受賞しましたが、実際、人類は核戦争もやりかねないと思います。そういう意味で、僕はいま、数年前より悲観的ですし、人類が「進歩している」ということに躊躇いを覚えます。
──東さんは、チェルノブイリと福島で原発事故後の調査取材を行い、書籍(『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』『福島第一原発観光地化計画』)も編まれました。いま、政府が電力需給の逼迫を理由に原発再稼働の声を上げ始めていますが、これについてはどう思われますか。
 電力問題は複雑なので、とくに意見はありません。再稼働どころか新設もありえるでしょう。実際いまの日本の条件だと、それも必要かもしれない。
 ただ、僕が思うのは、それをやるならば、電力会社のような民間事業ではやってほしくないということです。原発事故の影響は莫大で、民間で対応するのは不可能だからです。原発は国有化し、責任の主体を明確に国にしてほしい。
福島第一原子力発電所 / Getty Images
──ただ、そういった議論のないまま、ぬるっと再稼働しそうな気配もあります。
 そうでしょうね。そもそもこうした大きな問題について議論するには、日本社会はいろんな点で劣化してしまった。国民と政治家や官僚との間で信頼関係がない。だから議論もない。
 まず、政治家や官僚が国民を信じていない。なんにせよ政策を出せば、かならず反対が起こって潰されると考えている。彼らの自意識としては、「こんな状態を放置していたら国が沈没するので、国民をダマしてでも、自分たちが必要だと思う政策を通す」という考え方なんでしょう。
──一方、国民の側は、説明されれば一定の理解はするでしょうか。
 そこも、国の言うことになんでも従う人と、国の言うことになんでも反対する人とで分断しているように思います。なにかを聞いて意見を変える、つまり「訂正可能性」が閉ざされている。
 僕はいまマスメディアにほとんど出ませんが、それは、テレビや新聞では、実のところ問題提起や議論は求められていなくて、政府追随にしろ政府批判にせよ、あらかじめ決まった結論を言う、型どおりの役割だけが求められているからです。それなら、べつに僕が話す必要がないですよね。
──処方箋はあると思われますか。
 ちょっと抽象的ですが、「意見を変える」ということに対する感覚を変えたほうがいいと思います。
 本来、ディベートや議論は、そこで双方の考え方が変化したり、意見が成熟したりしなければ意味がありません。けれども、いまの日本では、ずっと同じことを言い続け、相手を「論破」するような人がいちばん賢いとみなされている。これは教育の敗北でもあると思います。
 僕にできるのは、そうではない議論や対話ができる小さな場所をつくることだと思って、ゲンロンをやっています。
──小さな場所では、参加者の考え方が変わりうる?
 はい、変わります。信頼がベースにある人間関係では、むしろ人はどんどん変わる。これは僕のやっているゲンロンにかぎった話だけでなく、あらゆるところで起こっていることです。
 けっきょく啓蒙活動というのも、小さなコミュニティが基盤になければできないと思います。歴史的にも、特定地域の出身者やグループのメンバーがいっせいに重要人物となり、時代を変えたりすることがありますよね。それは小さなコミュニティが基盤にあったからだと思います。
 そのような小さな基盤なくして、大きな社会変革は起こりえないと思う。
 なのに、いまはそうしたコミュニティの力が失われてしまっている。人文系の知なんてそれがとくに大事だったのに、ズタズタになってしまった。
 いま、ゲンロンの活動を支えてくれる「ゲンロン友の会」の会員数が、変動はありつつも3500人ほどいます。みなさん、さまざまな仕事や背景を持っている。年齢も居住地も家族構成もさまざまです。
ゲンロンでは会員同士の交流イベントも定期的に開催。写真は食事会「パワーディナー」の様子
 僕はいま、この人たちの相互ネットワークや、同じようにゲンロンに関わってくれる有識者たちで、小さな公共圏のようなものがつくれたらと考えています。僕にできるのは、まずはそういうことです。
 もちろん僕以外にも、同じように活動をしている人たちがいることでしょう。そういう信頼関係をベースにしたコミュニティや運動体が生まれ、さらに周りにそれを応援する人たちの輪ができてくる。
 いまの日本はそういうところから立て直していくしかないだろうな、と思います。