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「見る」の歴史:写真・映像・VR

「見る」の歴史:写真・映像・VR

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47本の記事
写真・映像・VRなど「見る」テクノロジーは、私たちの知覚や認識、リアリティ、想像力、記憶力にどんな影響を与えているのか?
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唐戸 信嘉
大学教員(英語圏文学)
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写真・映像・VRなど「見る」テクノロジーは、私たちの知覚や認識、リアリティ、想像力、記憶力にどんな影響を与えているのか?
画像vs文字  情報伝達の闘争史
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メディア史の議論でしばしば指摘されることですが、情報メディアという観点からすれば、まず図像があり、それから文字が主流となり、また図像が盛り返してきたという流れが、古代から21世紀までのメディア史の動きとしてあります。このトピックスでも、文字が主流となる時代(中世後期から19世紀初頭まで)に私たちの意識がどう変化したのか少し前に考察しました。文字は画像とくらべ、圧倒的に抽象的であり、そのために文字文化は哲学や科学の発展に大きく寄与しました。しかし文字は同時に、私たちの自意識を肥大させ、かつ世界をも抽象化したことで私たちと世界との距離も広げてしまいました。 画像と文字の相互影響 もちろん、文字が重視された時代に、画像が忘れられたわけではありません。画像と文字は互いに影響を与えながらその性質を変化させたのです。文字は、次第に読むものから見るものへ性質を変化させ、逆に、画像は見るものから読むものに変化しました。どういうことかピンときませんでしょうか? たとえば、美術館の絵画を見る場合、それは画像なのですから、純粋にそこにある色や形態を見て楽しめばいいはずです。しかし私たちはその背後にある「意味」や「内容」、「メッセージ」を探してしまいます。つまり、画像を文字のように読もうとしているわけです。これは明らかに、私たち自身の倒錯というよりも、画像そのものが読むものへと変化してきた結果といえます。文字は画像へ、画像は文字へと、長い歴史のなかでこの二つのメディアが互いに影響を及ぼした結果なのです。
もし私たちの目が見えなかったら?:ジョゼ・サラマーゴと「見る」こと
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ポルトガルのノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴ(1922-2010)は、現代文明の弊害について考察した重要な作品群で知られています。彼が探求した主題にはいくつかの系統がありますが、とりわけ「見る」ことは彼の強い関心の一つでした。代表作のひとつ『白の闇』(1995、日本語訳2001年)は、謎の病で国中の人々が失明する話です。突如あらゆる人々の目が見えなくなった場合、何が起こるか? サラマーゴの壮大な思考実験が描き出す世界は、地獄絵図のように恐ろしい世界ですが、現代人がいかに「見る」ことに依存していて、「見る」こと抜きにはほとんど何もなしえない存在であるかがわかります。 『白の闇』では国中の人間が失明しますが、ただ一人だけ失明を免れる人物がいます。物語で中心的な役割を担う「医者の妻」です。物語が進行するうちに、周囲の人間がすべて失明してしまうと、「見る」ことのできる医者の妻は、まるで超能力者のようになります。見えている私たちとっては当たり前なのですが、彼女ははるか遠い場所の人影も見える。人数もわかる。街角の風景も目で記憶することができるので、同じ道を迷わずに引き返すこともできる。右にも左にも、正確に歩くことができる。普段私たちは意識していませんが、「見る」ことは実に優れた能力なのです。
電子テキストは読書の概念をどう変えるか?
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電子書籍の存在論、というと大げさですが、電子書籍は書物というものに対する私たちの考え方、読書の概念、知識へのアプローチの仕方をどう変えつつあるのでしょうか。紙の書物は、もともと「読む(音読する)」ものでしたが、それがだんだん「見る」ものへと変化してきたと、前回、前々回の記事で書きました。そうした読書の進化により、現在は電子書籍がかなり一般化しています。しかし、紙の書物と電子書籍では、同じコンテンツであっても読書の体験そのものが大きく異なる。体験の質が異なるばかりでなく、読書の概念そのものを変えつつあるのではないでしょうか。 幽霊のような電子テキスト まず大前提ですが、紙に印刷された書物は、モノとして存在しています。海外の図書館に行くと同じ書架に、100年以上前の書物と最近刊が隣同士に並んでいることも間々あります。100年前の本を手に取れば、100年前に誰かが触れたページを、100年後の私も触っているわけです。少々ロマンチックな感じ方かもしれませんが、モノとしての書物には唯一無二の存在性が宿っています。一方、PC上に現れる電子テキストは、100年前(にも存在したとして)にそれを読んだ人と、100年後にそれを読む人を、モノでつなぐことはできません。なぜなら電子テキストは紙やインクといったモノを介さない、単なるスクリーン上の光点でしかないからです。物理的な書物と比べて、電子テキストには幽霊のような不確かさがあります。
声を欠いたテキスト、人間を欠いたテキストの時代
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フランスの思想家ギー・ドゥボールは『スペクタクルの社会』(木下誠訳、ちくま学芸文庫、2003年)の中でこう書いています。「スペクタクルは、人間の活動を、見るというカテゴリーの支配下で理解した西洋哲学の企図の持つ弱点のすべてを受け継いでいる。(中略)すべての人の具体的な生が、思弁的な世界に堕落したのである」(p.21)。人間活動が「見る」ことに集約されてきた近代の歴史は、手触りのあるユニークで特殊な個人の生の経験を、没個性的で観念的なものへと変えてしまったということです。「見る」という行為には、冷めた眼差しがあります。一方的に見ている「私」がおり、他方に、徹底して受け身の見られるものがあり、両者のあいだには距離がある。近代的な主客二元論の世界が、そこには大前提としてある。「私」の優越した視線のあり方に、権力や暴力が内在していることを多くの識者が指摘してきました。つまり、スペクタクル(見る世界)の登場は、世界から「私」を疎外し、「私」を孤独にした。しかし孤独にはなったが、「私」は見る者として特権的な位置にいるので、スペクタクルの世界の中では擬似的な全能感を味わうことができる。もちろん擬似的なものにとどまるので、それはどこまで行っても「思弁的な世界」であり、出口のない、他者のいない世界であり、そのどん詰まりにおいては、やはり二重の孤独を味わう羽目になるという悲劇。
「見える」と「ある」の決定的な違い
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現在、東京国立近代美術館で回顧展が開催中の写真家・中平卓馬(1938-2015)は、70年代に出版された『決闘写真論』(篠山紀信との共著、朝日文庫、1995)で若者の感性の変容について述べています。彼は、歌人の佐佐木幸綱の指摘を引用しつつ、ものの名前を知らない、覚えない若者に驚き、なぜこれほど世界に対する好奇心を失ってしまったのか、と問います。中平によれば、新しい世代の感性は、より観念的で抽象的なものへと向かっている。世界は手触りのあるものではなく、概念であり、イメージであるような何かなのだと言います。 子供たちはどこへ消えてしまったのかといつもいぶかしく思う。テレビでゴレンジャーや甲子園野球でも見ているのか。あるいは受験勉強に追われて塾にでも通っているのか。磯ばかりではない。子供たちは街の小路からもいつしか消えてしまった。昔、子供たちは空き缶ひとつをたったひとつの遊び道具にして、日没すぎまで街中をかけめぐっていたものだ。秋になれば柿やあけびを採り、冬には山へ入って山芋を掘った。子供たちはひとつひとつのもの、季節の移り変わりとともに変化するものに対して極めて近しい関係をもって遊んでいたように思える。
思い出の品の処分は、必要なのか?
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プロフィール欄に書いてある通り、私はかつて写真を趣味としていて、そのためにかなりの量のフィルムを所有していました。書棚一個を占めるほどなので(しかも狭い住居に住んでいるものですから)、どうにかしないといけないとずいぶん前からその処置に頭を悩ませてきました。ちなみに私の父親も写真を趣味とし、私をはるかに上回る量のフィルムを所蔵していますが、父親は田舎住まいでスペースに余裕ある家に住んでいるため、整理してその量を減らす気もないようです。デジタルに移行した現在はフィルムこそ増えはしませんが、プリントアウトした写真やら何やらで着実にモノは増殖しています。里帰りするたびにその様子を見て、ますます危機感を募らせています。なぜならもういい歳をした父親はやがて鬼籍に入るときがくるわけで、そうなれば遺された荷物は家族に、自動的に遺贈されてしまいます。何も考えずに処分すればいいとも思いますが、切手やコイン、骨董のようなコレクションと違い、写真は家族と全く無関係でもないぶんタチが悪い。自分たちが写った写真もあり、家族の歴史の記録という側面もあります。だから、何も考えずにそっくり捨ててしまうのは躊躇する。

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