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為末大の未来対談 第12回 名古屋大学・天野浩氏

ブレークスルーには方法論がある。ではイノベーションは?

2015/5/20
元陸上プロ選手の為末大氏が、科学・技術の各分野をリードする第一人者に、5年後から10年後の近未来における「未来像」を聞いている。
今回、為末氏が対談するのは、名古屋大学工学研究科教授でノーベル賞受賞者の天野浩氏だ。天野氏は、名古屋大学で師事してきた赤﨑勇氏(名古屋大学特別教授、名城大学終身教授・窒化物半導体基盤技術研究センター長)、それに中村修二氏(米国カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)とともに2014年、「高輝度・低消費電力白色光源を可能とした高効率青色LEDの発明」でノーベル物理学賞を受賞した。
従来の光源よりも発光効率が高いLED。中でも青色の発光を実現することは、多くの研究者が諦めてしまうほどの至難の業とされてきた。
前人未到の成績を得るために高い目標設定する。そして日々前進をしていく。これはアスリートと研究者の共通点かもしれない。世界の舞台でメダリストになることを目指してきた為末氏にとって、ノーベル賞を受賞した天野氏の研究の進め方はどのように映るのだろうか。
今回は天野氏との対談の2回目。研究が飛躍的に進歩すること、いわゆる「ブレークスルー」はどのように起きるのか。さらに、青色LEDがそうであったように、社会に変革をもたらすような「イノベーション」は意図的に起こすことができるのか。アスリートと研究者の対話は深まっていく。
1回目:“知らないでいること”が人間を前に進める

考え抜いて決めた研究テーマ、だから変えなかった

為末:今回は、研究者のブレークスルーやイノベーションの起こし方をメインテーマに、天野先生にさらにお話を伺っていきたいと思っています。

私自身の「研究」に対するイメージだと、一人でもくもくと研究に打ち込んでいるようなものもあったんです。でも、天野先生は赤﨑先生に師事なさる中で研究を続けてこられたんですよね。赤﨑先生との研究の進め方はどのようなものだったんですか。

天野:赤﨑先生は、材料については「窒化ガリウムでやるんだ」という方針を立てられましたが、それ以外のことはほぼすべて若い人たちに「自由にやりなさい」と任せてくれました。

為末:そうなんですね。

天野:それは自分で考えなければならないことでもあるので、その責任も自分にあると感じるものですが、それでも自分の考えどおりに研究をやらせてもらえたことは、すごくよかったと思っています。

一般的に、大学の研究室ではトップの教授は他のメンバーとだいぶ年齢が離れていることもあって、一人で部屋で仕事をやるんですね。それで、学生たちと同じ部屋には、今でいう准教授や助教の先生がいて、たいてい学生はその先生たちとディスカッションをするんです。

学生は「自分はこう思う」っていうことを主張するわけですが、最初のうちは当然、先生に言い負かされます。それが悔しくて「いつか負かしてやろう」と思って、土日も実験に没頭していくものなんです。私も、あとから考えると、チームで研究をしてきてたくさんのヒントをもらったと思っています。

為末:先生はある程度、自由に任せてくれるということですが、とはいえ完全に放ったらかしている状態ではないんですよね。

天野:私の場合は、数カ月に1回、「報告会」があって、そこで実験結果などを赤﨑先生に報告しました。先生からはよく「天野くんの結晶はいつも磨りガラスのようだね」と言われまして。要は「汚いね」っていういうことなんですが(笑)。

言われた時はとても悔しいんですが、その言葉で「きれいな結晶にしないと青色LEDはできない」ということを教えていただいていたんですね。

為末:ほかに、赤﨑先生からはどんなことを学ばれましたか? 背中で学んだようなこともありますか。

天野:「一度、決めたテーマは変えてはいけない」ということですね。

為末:でも、勇気も要りますよね。

天野:その段階に至るまでには、さまざまな材料がある中で考えに考え抜いてこれだと定めましたので。「これだ!」って決めたら、他の材料のことは考えずに、結晶を実用化するまで頑張るんだということです。

扱う結晶によって、実用化までの困難さは違いますが、世の中に役立って初めて研究には意味があるので、かならず世に役立つまでは責任をもって研究に取り組みなさいというメッセージだと捉えています。

為末:でも、もしそれで最後まで続けて、うまくいかないまま研究人生が終わったらさみしい気もするんですが。

天野:私の場合も、成果が出るまでに時間はかかりましたね。大学4年生から研究を始めて、3年後の修士課程2年の時、ようやく結晶はできましたが、まだ青色LEDにはたどり着いていませんでした。

その後、博士課程の3年間では結果を出せず、そこから2年後にようやくLEDに必要なp型半導体の結晶ができるようになって、さらに実用化のめどが付いたのがそれから4年後ですから。

でも、その途中では「いつか必ず実用化できる」っていう気持ちはもち続けていたと思います。

天野浩(あまの・ひろし)名古屋大学大学院工学研究科教授。同大学赤﨑記念研究センター長。1983年、名古屋大学工学部卒業。1988年、同大学大学院工学研究科博士課程単位取得退学後、同大学工学部助手に。1989年、工学博士(名古屋大学)取得、その後、名城大学講師、助教授、教授を経て、2010年より名古屋大学教授。2011年より赤﨑記念研究センター長も務める。1981年に民間企業から名古屋大学に移ってきた赤﨑勇氏(現・名古屋大学特別教授、名城大学終身教授)の下で、窒化ガリウムを材料とする高輝度青色発光ダイオード(青色LED)の研究開発に取り組み、実用化への道を開く。2014年、「高輝度・低消費電力白色光源を可能とした高効率青色LEDの発明」でノーベル物理学賞を受賞。他、1998年の英国ランク賞、2001年の武田賞、2009年応用物理学会フェローなど受賞歴多数

天野浩(あまの・ひろし)
名古屋大学大学院工学研究科教授。同大学赤﨑記念研究センター長。1983年、名古屋大学工学部卒業。1988年、同大学大学院工学研究科博士課程単位取得退学後、同大学工学部助手に。1989年、工学博士(名古屋大学)取得、その後、名城大学講師、助教授、教授を経て、2010年より名古屋大学教授。2011年より赤﨑記念研究センター長も務める。1981年に民間企業から名古屋大学に移ってきた赤﨑勇氏(現・名古屋大学特別教授、名城大学終身教授)の下で、窒化ガリウムを材料とする高輝度青色発光ダイオード(青色LED)の研究開発に取り組み、実用化への道を開く。2014年、「高輝度・低消費電力白色光源を可能とした高効率青色LEDの発明」でノーベル物理学賞を受賞。他、1998年の英国ランク賞、2001年の武田賞、2009年応用物理学会フェローなど受賞歴多数

興味を積み重ねた先にある「拍手喝采」のイメージ

為末:天野先生は、「青色LEDで世の中のディスプレイを変えたい」という大きな目標があったんですよね。一方で、日々の研究にも喜びや発見のようなものもあったのではないか、と。

研究っていうのは、その両方のバランスはどんなものでしょうか。スポーツだと、金メダルを獲った瞬間の自分の姿を想像しつつ、昨日できなかったことを今日できるようになるということに喜びを感じる側面もあります。

天野:そうですね。遠い目標をもちつつ、日々を大切に過ごす。そのバランスはとても大事ですね。日々のことでいえば、修士課程の頃は2〜3時間の実験を1日5〜6回していました。

為末:そんなにですか!

天野:考えに考え抜いて実験するんです。思い描いていたとおりになれば「やった!」ってなるし、思い描いたとおりにならないと「あれ、何でだ?」となって論文や教科書を調べ直す。その繰り返しなんですが、一つひとつが面白い。そうした結果がまとまってくると、成果を学会に発表することになるので「拍手喝采」のイメージにつながってくるわけです。

日々の研究を面白いと感じることと、将来の時点で拍手喝采を浴びること。その両方があることがモチベーションが続く理由なんだと思います。

為末:「いつか成果を出して拍手喝采を浴びるんだ」と思う一方で、それがいつになるかはわからない。そういう中で、踏ん張り切れる人とそうでない人の違いは何だと思いますか。

天野:“こだわり”かな……。

為末:こだわり、ですか。こだわるときにも、視点が定まりすぎてもよくない気がするんです。ある程度は柔軟にやり方を探ったり……。

天野:こだわっていく中で、うまくいかなくなったときには、いろんな情報をとにかく入れようとしました。その中で「これは大事」「これは大事じゃない」と吟味していたと思いますね。

情報以外にも、東北大学の先輩や企業の知り合いの方を訪れて装置を見せてもらったりして、取り入れられそうなものは、何でも取り入れようという気持ちはありました。

“換骨奪胎”的方法でブレークスルーを起こす

為末:停滞期から一気にブレークスルーが訪れるということもある気がします。ブレークスルーにはパターンのようなものもあったんですか。

天野:やはり外から情報を得て、それを当てはめる中でブレークスルーが生まれるというパターンはあったと思います。今まで扱ったことのない材料について「こういうやり方をするときれいな結晶が得られる」という情報を得て、それを自分の対象でまねしてみると劇的に結晶がきれいになったっていうことはありましたね。それは大きなブレークスルーでした。

為末:とんでもないことばかり試していたら、成功したっていうわけでもないんですよね。

天野:そうですね。熱力学や量子力学といった、自分の研究を進めるうえでの基本となる学問は勉強しますから。それらに基づいて考えていはいます。

為末:それでも、突拍子もないようなことからブレークスルーにつながったっていう例もありますか。

天野:博士課程の時、NTTの武蔵野通信研究所にインターンシップをしたんです。その時、窒化ガリウムに電子線を当てて結晶の状態を評価していたんですが、見る見るうちに青色の発光が強くなってきまして。その結果だけでは、まだ青色LEDのp型半導体にはならなかったんですが、実現のための重要なブレークスルーでした。

為末:チームで研究を進めていく中で、年齢や経験と役割との関係はどんな感じなんですか。

天野:アスリートの方ほどではないとは思いますが、研究に打ち込めるのはせいぜい30歳代前半までですね。その後は、いかに後輩や学生を育てるかに重心が移っていきます。ディスカッションや実験方法を指導したり。40歳代になると体がついていかなくなってきて、今度は研究費をもらうための申請書などを書くことが仕事になっていきますから。

為末:なんか、つまらなくなっていくような……。

天野:まあ、会社でもだんだん管理する側になっていくというのは同じじゃないでしょうか……。

為末大(ためすえ・だい)1978年広島県生まれ。2001年エドモントン世界選手権および2005年ヘルシンキ世界選手権において、男子400メートルハードルで銅メダル。陸上トラック種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2014年10月現在)。2003年、プロに転向。2012年、25年間の現役生活から引退。現在は、一般社団法人アスリート・ソサエティ(2010年設立)、為末大学(2012年開講)などを通じ、スポーツと社会、教育に関する活動を幅広く行っている。著書に『諦める力』(プレジデント社)『走る哲学』(扶桑社新書)などがある

為末大(ためすえ・だい)
1978年広島県生まれ。2001年エドモントン世界選手権および2005年ヘルシンキ世界選手権において、男子400メートルハードルで銅メダル。陸上トラック種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2014年10月現在)。2003年、プロに転向。2012年、25年間の現役生活から引退。現在は、一般社団法人アスリート・ソサエティ(2010年設立)、為末大学(2012年開講)などを通じ、スポーツと社会、教育に関する活動を幅広く行っている。著書に『諦める力』(プレジデント社)『走る哲学』(扶桑社新書)などがある

大きな方向性をもっておくことがイノベーションの条件

為末:「イノベーション」についても方法論があるものなのか、天野先生に聞きたいと思っていました。「どのくらい意図的にイノベーションは起こせるのか」ということなんですが……。

スポーツの世界では「天才を生むシステムを考える人が凡人だったら、それで本当に天才を生むことができるのか」ということがよく言われるんですね。革新的なことを意図しようとそこにだけ注力していても、実はまったく革新的なことに結びついてない可能性もある気がします。その辺が、イノベーションを創出する難しさとも相通じるんじゃないかと……。

天野:意図してイノベーションを起こせるか、っていうのは難しい問題ですね。ただし、大きな方向性は見えていたほうがよいような気はします。

たとえば、食糧問題や地球環境問題、エネルギー問題といった大きな規模での方向性は頭に入れつつ、自分たちの今の研究がそれに対してどれだけ貢献するかということを考えながら研究していくと、イノベーションともいえる新しい成果が生まれるんじゃないかと。自分はそう思ってやってきました。

為末:多くの分野や人材に資金を与えられればいいんでしょうけれど、予算にも上限があるわけで。

スポーツでも、本当は誰が5年後にメダリストになるかわからないんですよね。そこで、選択をしなければならなくなるわけですが、その方法が難しいなといつも感じています。研究でも資金の配分は難しいんだろうな、と。

天野:難しいですね。完璧にできるっていうのはないと思います。ただし、フランスやドイツなどでは、コンスタントに研究成果が出ているといった傾向はあります。一人ひとりが集中できるようなシステムを彼らはつくっているんだろうなと。そういうところから学ぶべきことはあるんだと思います。

為末:アメリカもイノベーションが多く生まれると聞きますが……。

天野:アメリカはハイリスク・ハイリターンの国という印象ですね。中村修二先生にもアメリカの研究システムについて伺ったことがあります。

研究を続けるためには国や企業などから予算を、毎年必ず集めなければならなくて、それができなくなると大学を辞めざるを得ないといった話でした。「アメリカは大変だ」って言っています(笑)。

アメリカは常にイノベーティブな仕事が出てきますが、必ずしもおカネを集めたところからのみ、それが起きているという気はしません。細々とでも続けているような研究から新しい成果が生まれることも多いと思います。

日本はアメリカに倣って「選択と集中」という合言葉を掲げて、ある特定の研究室に多額の研究費が付く一方で、基礎的な研究をするための予算は削られているのが現状です。少し行き過ぎているような気もします。

シーズというものはどこから出てくるかわからないもので、狙ってシーズを出そうとしても、たいていはうまくいかないんですよね。いろんな人が着実に研究できるような仕組みにしたほうがいいんじゃないかと思います。

為末:スポーツ界の人たちは今、2020年の東京オリンピックとパラリンピックを大きな目標にやっていますが、メダルが獲れそうな競技に絞って力を入れていては、2020年で終わってしまう感じもあります。教育がいいのか、強化がいいのか、システムに力を入れるのがいいのか、と。

天野:研究についていえば、私はもっと海外とのインタラクションはあってもいいのではないかと思っています。

若い日本人がアメリカ、ヨーロッパ、アジアに出て行って、同世代の人たちと議論しあって、文化や考え方の違いを肌で感じるようなことがもっと必要になる気がしますね。自分たちがいかに小さな世界で暮らしていたかということを実感することになりますから。(続く)

(構成:漆原次郎、撮影:大澤誠)

※次回は来週の水曜日に掲載予定です。