2024/2/28

“ハモニカ横丁の仕掛け人”が試みる「多文化共存の実験」とは

フリーライター&稀人ハンター
 全国の各地域には、都市部とは異なる資源を活かすことで、自らの事業のみならず、地域全体のポテンシャルを底上げしている経営者がいる。そんな共存共栄を実現している新しいスタイルの“地方の虎”を、稀人ハンター・川内イオが発掘するシリーズ連載。#6は、吉祥寺駅前の名所「ハモニカ横丁」を仕掛けた経営者による、多文化共生の実験的新事業について探った。
INDEX
  • 「ランチバイキング500円」の店
  • 典型的な優等生だった子ども時代
  • 「変な人」が好きになった理由
  • 「多分、日本で初めて」の専門店をオープン
  • 「ハモニカキッチン」の誕生
  • 飲食店は「総合芸術」
  • 「外国人とも仲良くやっていくしかない」
  • 「科学の実験」のように商売する
  • 外国人との共存を探る計画の行方は?

「ランチバイキング500円」の店

 JR中央線・三鷹駅の北口を出て徒歩数分、三井住友銀行の支店の裏手に、奇妙な建物がある。自転車の車輪に使われるスポークを全面に貼り付けていて、壁面には「ASIANSアジアの小さな百貨店」とある。ベトナム、ネパール、中国、台湾、韓国の料理や食材、雑貨を取り揃えているこの店は、2023年3月にオープンした。
 某日、お昼時に訪ねると、提灯が吊るされた店内には屋台が置いてあったり、馴染みのない銘柄のビールが並ぶ冷蔵庫やポップなバーカウンターがあったりと、不思議なカオス感。スーツを着た会社員からスマホでサッカーを観ているアジア系の若者まで、多様なお客さんで賑わっている。
 お客さんの目当ては、ランチバイキング。12時から14時30分まで、マーボー豆腐、焼きそば、餃子、ピザなど10種類ほどの料理を破格の500円で提供しているのだ。
 このお店のオーナーは、手塚一郎さん。吉祥寺駅前の「ハモニカ横丁」内に12店舗の飲食店を構えるほか、キッチン雑貨ショップ、自転車屋、イベントスペースなど計25店舗を有するビデオインフォメーションセンター(VIC)の創業者である。
 ほかの店ではなかなか手に入らないようなアジアの雑貨や食材を扱い、バイキングを500円に設定しているのは、ひとつの理由のため。
「今、うちに外国人労働者が60人くらいいるんですよ。外国人がいないと、現実的に会社として成立しない状況になっている。それなら、彼らとも仲良くやっていくしかないよね」
 1979年、吉祥寺でビデオデッキ販売店を開いて以来、「科学実験のように商売をやって」、グループの総売り上げおよそ10億円まで成長させてきた手塚さん。「ASIANS」は、76歳で始めた外国人と共存していくための新たな試みだ。

典型的な優等生だった子ども時代

 手塚さんは1947年、栃木県宇都宮市で国鉄職員をしていた父、専業主婦をしていた母のもと、4人きょうだいの長男として生まれた。小学生の頃のあだ名は、スッポン。祖父が滋養強壮にいいとされるスッポンの生き血やマムシなどを黒焼きにして粉にしたものを販売する「手塚スッポン店」の創業者だったことに由来する。
 教育熱心な祖母の影響で、手塚さんは絵に描いたような優等生として育ち、中学時代は生徒会長、高校は県内トップの宇都宮高校に進学。17歳の時に迎えた1964年の東京オリンピックでは、地域の聖火ランナーを務めている。
 最初の転機は、岡本太郎のファンだった高校の書道の教師との出会い。幼い頃から書道を習い、お手本をきれいに書き写すことに自信を持っていた手塚さんに、教師は「もっと自由に書け!」と煽った。それをきっかけに、自分を解放するようになっていった。
「高校2年の時、妹に石原慎太郎の『処刑の部屋』のボクシングのシーンを読んでもらいながら、毛筆でアクションペインティングをしました。変身しようと思ってたからね、その頃。なんかね、頭がおかしくなりかけていたんですよ(笑)」
 その頃、アーティストとして書道を究めようと夢を抱いていた。しかし、古書店でたまたま手に取ったジャクソン・ポロックの画集を見て、「これは勝てない……」と敗北感を抱き、方向転換。友人から「一緒に受けよう」と誘われた、国際基督教大学(ICU)に進学した。

「変な人」が好きになった理由

 大学ではICU小劇場という劇団に入り、演出助手になった。高校教師の「もっと自由に書け」という言葉が耳に残って離れなかった手塚さんは、上級生が選ぶ演目すべてが退屈に感じ、2年生になると自分で脚本を書いて、アバンギャルドな演劇を志すようになる。その頃、手に取ったのがICUの視聴覚室にあったソニーのポータブル・ビデオカメラレコーダー「ポータパック」だった。
「これを使って演劇をやろう」と、まだほとんど世に出回っていない、高価なビデオカメラを触り始めた。
 それが面白くなり、大学6年生の1972年、後輩6人に声をかけ、学内有線テレビを制作するために「ビデオ情報センター」を結成。その直後に大学を卒業した手塚さんは、「就職なんて世間に負けるみたいでカッコ悪い」と、「ビデオ情報センター」のメンバーと一緒にアングラ演劇や舞踏の撮影をするようになった。
「学生の時、新宿の花園神社で唐十郎の『状況劇場』を観たんですよ。その時に、うわあ、東京ってすげえなって思ってね。おれ、もう演劇をやめた方がいいかもしれないって思うぐらい衝撃を受けたんです。四谷シモンとか麿赤兒、大久保鷹がいてね。でも、状況劇場でやっていた『腰巻お仙』の台本を読んでみると、なにが書いてあるのか、わけわかんない。多分これ、写真と台本だけ残しても意味不明だから、これをビデオで撮ればいいんじゃない? と思ったんだよね」
 手塚さんを筆頭とする「ビデオ情報センター」の一味は、状況劇場のほか、当時、世の中を席巻していた寺山修司の劇団「天井桟敷」や佐藤信の劇団「黒テント」などにアプローチし、ビデオ撮影を仕事にしていった。
「寺山修司ははじめから記録することの重要性をわかってて、ニューヨークに乗り込む時にビデオが必要だと言ってくれてね。唐十郎はなに言ってるかわかんない、奇妙なおじさんだったな。詩人の入沢康夫のインタビューも撮ったけど、面倒くさいこと言ってた。本当に変な人ばっかりだったから、変な人が面白いと思うようになったの」

「多分、日本で初めて」の専門店をオープン

 1979年、手塚さんは吉祥寺にビデオデッキとビデオカメラの専門店「ビデオインフォメーションセンター(VIC)」を開いた。大学を出てから7年間、アングラパフォーマンスの記録を残そうと演劇や舞踏の撮影をしてきたが、それだけでは食っていくのがやっとだった。
 というのも、当時はビデオテープが高価な時代で、1時間1万円。例えば、演劇や舞踏を50時間撮影するとテープ代が50万円かかる。当時のアングラ関係者がそれを負担するはずもなく、毎回持ち出しで、手取りが5万円程度にしかならなかったのだ。
 VICではソニー、ビクター、ナショナル(後のパナソニック)などと契約して、当時はまだ高価だったビデオデッキとビデオカメラを売った。「多分、日本で初めての専門店」で、広告を出すと全国からお客さんが訪ねてきた。この商売は当たり、その儲けを投じながら、アングラパフォーマンスの撮影を続けた。手塚さんは、「(撮影の)やめ時がわからなかったんです」と苦笑する。
吉祥寺駅の正面に位置するハモニカ横丁にビデオテープ専門店を構えたのは、1988年のこと。
「以前から、電気通信大学の学生がめちゃくちゃビデオテープを買っていたんですよ。それで、VICの店舗は駅から少し離れていたから、駅前でテープだけ買えたら便利だろうと思ってね」
「便利な場所」としてハモニカ横丁を選ぶのが、手塚さんらしい。ハモニカ横丁は戦後の闇市にルーツがあり、昼間でも薄暗いエリアに100軒以上の小さな個人店がひしめき合う。1988年当時はすでに吉祥寺駅周辺の再開発が進み、大手百貨店が出店したことでハモニカ横丁から客足が遠のいており、シャッター商店街化して、さらに怪しさが増していた時期だった。
「戦争の時、武蔵野市には中島飛行機の工場があったから、爆撃されるだろうっていうので、吉祥寺の駅前を更地にしたんですよ。戦後、そこに田舎から米を持ってきたりなんかして、適当に板で仕切って占拠して売り始めたのが、ハモニカ横丁の始まり。そういう育ちの悪さが残っていますから(笑)、あそこは怖いから行くなという人もいたよね」
 時は流れ、1990年代に入るとビデオデッキ、ビデオカメラの価格が安くなっていった。VICを始めた頃は20万円で売っていたものが、1995年頃には2、3万円になっていた。「自分たちが撮らなくても、誰でも撮れる時代」になり、手塚さんはしばらく前にアングラパフォーマンスの撮影からも離れていた。

「ハモニカキッチン」の誕生

 VICという社名の通り、それまでビデオ関連の商品を扱っていた手塚さんが飲食店を始めたのは、ちょっとした遊び心だった。
 たまたまビデオテープ専門店の2階が空いたため、建築家、デザイナー、シルクスクリーンのプリンターを手掛ける友人3人と「夜、飲み屋をやろうか」と軽いノリで始めたのだ。「焼き鳥が好きだから」という理由で、1998年のある日、「ハモニカキッチン」という名の焼き鳥屋が誕生した。
 営業は、金土日の夜だけ。朝6時に築地に食材を買いに行き、17時から仕込みを始めて、19時にオープン。素人4人組だから注文を受けても手際が悪く、料理を出すのに時間がかかる。お客さんから「遅い!」と苦情が出ると、「うるせえ、黙って食え!」と言い返すような店だった。
 オープン当初はヒマで、当時の記録には「今日の売り上げ3000円。誰だよ、ハモニカキッチンって名前つけたの。だから(客が)来ないんだよ」と綴られているという。しかし、「夜は、ほかに2軒しか営業してなかった」という暗がりの商店街に突如現れた自由な雰囲気のお店の存在は口コミで広がり、あっという間に人気店になった。
「どんどん忙しくなって、1年でめちゃくちゃ痩せました」という手塚さんは、次第に飲食店の面白さに目覚めていった。
「僕は料理なんて作ったことなかったんですよ。だからむしろ、実験室みたいで楽しくてね。あれを串に刺して焼いたらどうなんだろうって考え始めたら、止まらないんだよ。プチトマトを串に刺して焼いて出したの、多分、日本で初めてだったと思うんだよね」
 ある時は、家庭用のオーブンで北京ダックを焼こうということになった。中国人の東洋薬剤師から教わったレシピに従う。まずはカモをお湯で洗い、ハチミツを塗って、一晩干した。翌日、お店に行くと、アリがびっしりと張り付いていた。
「すげえな、これ!」
 手塚さんは、アリをぜんぶ落として、そのままオーブンに入れた。その北京ダックは、想像以上においしく焼き上がったという。

飲食店は「総合芸術」

「ハモニカキッチン」が繁盛したこともあり、同じ建物の1階でランチバイキングの店を始めた。ただ、どちらの店舗も狭くてほとんど儲けが出ない。どうしたものかと思っていたら、間もなくして「ハモニカキッチン」の前のお茶屋さんが閉まり、空き物件になった。ある程度の広さがあったその物件も借り、当時、インテリアデザイナーとして最前線で活躍していた形見一郎さん(2015年没)に店舗のデザインを依頼した。
 手塚さんが駒澤大学方面に出かけた時、形見さんが手掛けた駒沢のカフェ「BOWERY KITCHEN」を見かけて、「面白いな」と思ったこともあり声をかけたところ、「僕が作ったなかで一番小さなキッチンの店だ」と面白がって受けてくれたそうだ。形見さんのデザインによって完成したのは、ハモニカ横丁の雰囲気にそぐわない真っ白な壁が印象的なお店だった。
吉祥寺駅前のハモニカ横丁には、手塚さんの仕掛ける店舗が10軒以上もひしめく。
「ハモニカ横丁の薄汚いところに洒落たカフェみたいな店ができてね。すごい人気になりました。アルバイトの面接にもきれいな女の子がたくさん来て、なんで俺がこんなチャラい店をやんなきゃいけないのかなと思ったよ(笑)」
 これで、夜になると人通りがほとんどなかったハモニカ横丁が、さらに賑わい始めた。手塚さんはその勢いに乗り、2003年にはハモニカ横丁内に焼鳥屋、カフェ、食品店、キッチン用品店が一体となった実験的なお店「FOODLABO(フードラボ)」、さらに焼き鳥屋「てっちゃん」を開く。
 近距離に焼き鳥店ばかり増えているが、そんなことはお構いなし。手塚さんは儲かるか、儲からないかで判断していなかった。
「最近の飲食店は、目先で儲けようとしすぎてて面白くないんですよ。儲けようとすると、だいたい同じような方向に偏っていくんだな。飲食業は内装、接客、料理、音楽とか、なんでも自分で好きに作りこむことができるでしょう。僕は総合芸術だと思っているんだよね」
「総合芸術」を志すなかで、手塚さんは「徹底してこの場所にこだわろう。そこにしかない店を作ろう」と決めた。間もなくして、焼き鳥以外の料理を出す、違うコンセプトの店をハモニカ横丁内に作り始めた。その際に意識したのは、映画『ブレードランナー』だ。
「『ブレードランナー』のなんかごちゃごちゃしてた感じ、面白いでしょう。いろんな要素が混じって、消化しきれないみたいな。そういう感じがいいと思ってるから、ハモニカ横丁の店にもなるべく異質のものを入れたいんだよね」
 この『ブレードランナー』戦略が当たり、今では迷宮のように入り組んでいるハモニカ横丁だけで12店舗の飲食店を構える。「ニワトリ」「エイヒレ」「ミュンヘン」「モスクワ」「エプソン」など店名だけ見ても、「いろんな要素」が混ざり合っていることがわかるだろう。

「外国人とも仲良くやっていくしかない」

「なるべく異質のものを入れたい」という思いは、従業員も多様化させた。手塚さんが最初に外国籍の従業員を雇用したのは「10年ぐらい前」。その頃は、日本語を一切話せなくても、「その人がいるだけで面白いから」という理由で採用していた。それから時を経て、現在は約60人の外国人が働いている。
「外国人向けに募集をかけたことはありません。口コミでどんどん広がっていくんですよ。男女平等だし、給料体系も日本人とまったく同じだし、働きやすいんだと思う。なかには、給料が40万円前後になる人もいるからね」
ベトナム、ネパール、台湾、韓国などアジア各国料理を提供する三鷹ASIANSの店内。
 手塚さんがユニークなのは、決して博愛主義的に外国人を雇用しているわけではないということ。
 インタビュー中も「日本人は言葉が通じるから便利だよね。外国人には日本の作法を教えなきゃいけない。彼らはお客さんの前で怒鳴り合ったりしますから」「外国人は、どうやったら儲かるか教えてくれってすぐに聞いてくるんですよ。そんなのわかってたら、俺だって違うことやってるよ」「外国人のスタッフには、もっと謙虚になれと言ってやりたい」などと苦笑しながら話していた。
 こうした愚痴を言いながらも「少しわかり合えたのかなと思う時があるでしょ。その瞬間がいいなと思うよね」と語る手塚さん。初めてベトナム人を雇った時には、うまくコミュニケーションができなかったため、横浜国立大学に留学しているベトナム人を通訳に雇ったという。
 そして現在は、冒頭にも記したように「外国人がいないと、現実的に会社として成立しない」状況になっている。「それなら、彼らとも仲良くやっていくしかないよね」という思いから作り上げたのが、三鷹にある「ASIANS」だ。
 実はこの店舗の前身は、「ハモニカ横町 ミタカ」。ここにハモニカ横丁の雰囲気を再現しようとして、VICの店舗を入れたところ、「こんなに見事に失敗したことは、ほかにない」というぐらい、ズッコケた。
「僕は、ホワイトキューブに世界のブランドを持ってきて、世界を再現しようとする六本木ヒルズは傲慢だって言い続けてきたんです。ハモニカ横町 ミタカの営業を始めてすぐに、あ、同じことしてるってわかったんですよ(笑)。それから10年、あの手この手でやったけど、圧倒的に失敗した。それで、現状を見直した時に外国人のスタッフがたくさんいるから、この人たちと一緒にやろうっていうのは、まあ、いいかなと思ったんだ」

「科学の実験」のように商売する

「ハモニカ横町 ミタカ」からの改修を検討する際、手塚さんは外国籍の従業員に「どういう場所が欲しいか」をヒアリングした。その際、「自分の国の食材が買えない」「自分の国の料理が食べたい」という声が上がり、そのリクエストに応える店として、2023年3月に「ASIANS」を開いた。
「ASIANS」はVICの複数店舗が1フロアに入居している形になっており、ランチタイムに限り、10種類ほどの各国料理のバイキングを破格の500円で提供している。これは、スタッフやその仲間に気軽に食べてほしいと思ったから。想定外だったのは、日本人が行列を作ったことだった。
ASIANS内のスタンド・バー。
「あんまり考えず、バイキングは500円でいいんじゃないって言ったんですよ。そしたら、日本人が並んでビックリした。しかも、最初は時間制限なしだったから、11時半から2時までずっと食べ続ける人がいてさ。それはまずいから、時間制にしたり少しメニューを変えたりしてます」
 決め打ちせず、こうしてその場、その場で柔軟に形を変えていくのが手塚流。なぜなら、手塚さんにとって、すべては実験なのだ。
「頭でっかちはぜんぜんダメ。うちは物販もやっていて、80%の売り上げは上位20%のアイテムが作っているんです。なかには、なんでこれが売れてんの?っていうのもありますよ。つまり、かなりの確率でやってみないとわかんない。だから、科学の実験のように商売やってるんですよ」
 手塚さんの実験は、過激だ。2021年10月1日より、VICが経営する「CLUB Dada」では毎月1日を飲食タダの日にした。当初、その「タダの日」を目当てに「ものすごい人」が来てしまい、後日、先着20名限定のチケット制に変更した。これとは別に、2021年12月1日には、ハモニカ横丁のVIC系列全店で17時から18時までの1時間、ドリンクと料理を「タダ」で提供している。
 なぜ、タダなのか? それは、「世界全体が資本主義に染まっていて、おもしろくない」という理由である。「CLUB Dada」の「タダの日」は2年間開催されて、幕を閉じた。資本主義から外れたところに、なにが見えたのか?
「毎回、タダの日だけ同じ人が来るようになってね。そういう人は、ほかの日には来ないんだ。それがわかったから、もうやめたの」
 結果を聞けば「なるほど」と納得するが、飲食店で「タダの日」を作る人はほかにいないだろう。手塚さんは、誰もやらないことをしてリアルな答えを得ることに価値を感じているのだ。

外国人との共存を探る計画の行方は?

「ASIANS」も、手塚さんにとってひとつの実験。だから、手探りしつつ、独自路線を歩んでいる。店長を務めるベトナム人女性のもと、毎月11日は「ビンボーの日」として、「ASIANS」内のスタンド・バー「ビンボー」に限り、全商品200円で提供。第1日曜日のランチタイムには「子ども大人食堂」を開き、子ども、大人問わずカレーを無料提供している(用意分がなくなり次第終了)。毎月第4日曜日は、出店料タダでクラフト&ファーマーズマーケットを開く。
 また、これまでベトナム祭り、ネパール祭り、ミャンマー祭りを開催しており、こちらは外国人1000円、その他3000円など外国人が参加しやすい価格で各国の料理食べ放題、お酒も飲み放題。この時は大勢の外国人が参加したという。
 これぐらいはまだ序の口。手塚さんの頭のなかには、「ASIANS」でやりたいことが溢れている。
「西洋野菜を作っている種屋さんがいてね。うちのベトナム人、ネパール人が、日本で買えない野菜リストアップしてくれるから、その種屋さんから種を買って、自分たちで作ろうかなと」
 さらに今後は、日本人向けの語学教室やベトナム人の講師を招いての料理教室を開いたり、困っている外国人がいれば弁護士を紹介したりすることも考えているという。
 外国人との共存を探るこの計画が、VICと手塚さんになにをもたらすのか。
 手塚さんは今も毎晩、ハモニカ横丁の自分の店でお酒を飲み、土曜日は2時間、日曜日は1時間、 VICの「ハモニカキッチン」と「モスクワ」のカウンターに立ち、焼き鳥を焼いている。外国人スタッフが忙しく立ち働くそこの現場から見える景色は、今日もきっと『ブレードランナー』のように混沌としている。