なぜタイで建築を学ぶのか?
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注目のコメント
タイの大学で開発学を専攻して3年目になります。
筆者の方の考えにとても共感しました。開発学もヨーロッパが主流と言われているので、よくなぜタイで勉強しているの?東南アジアでしょと言われます。私は世の中の大半の国が援助させる側なのに、援助する側の国だけで学ぶのは違うのではないかと思ってタイを選んだ側面もあります。なので、筆者の方が仰っている話にとても頷きました。
自分がどこに行き、何を見て何を語れるのかの方がよっぽど大切だと常に思ってます。"デザインすることは、同時に社会的な線を引くことだ、と。じゃあ線を引かない方がいいかというと、僕たちデザイナーにとってそれは不可能。"
これは、建築、社会、ご自身について熟考したからこそ出てくる言葉だな感心しました。
それを夜の渋谷で想起したのも、日常の巡り合わせの貴さのようなものを感じさせ、お洒落だなと思いました。
尊敬します。自分も、社会や己の使命について熟考し書き残したいです。同じく東南アジアに留学中のデザイン学徒です。
"Public"とは何か?真に開かれているとはどういう状態か?という問いにドキッとしました。近代以降確立した職種でもある「デザイナー」という明確な役割がいない中でも、つくることと生きることの距離が近いジャカルタの都市集落は、すべての空間が生きている。という指摘について、現在同じく東南アジアに留学してきている身として、感覚として非常に理解できます。
デザインが生まれた地、ヨーロッパで正統に学ぶことへの憧れもあると同時に、デザインよりも断然古い歴史を持つアジア独自の生活への感性(=文化)を今いちど見つめて日本でのデザインへ活かしていくことは、現代に抱える問題を乗り越えてゆく手掛かりになるのではないでしょうか?人々が直視したがらないけれど確かに存在している分断、動植物を無視した不自然な環境、再開発で消えゆく飲み屋街etc... 我々にとっての豊かさとは何か?未来に住みたい"Public"とは何か?を真っ直ぐに考えられる環境が東南アジアにはあると、わたしも直観します。