【重田園江】社会問題を捉える土台としての哲学的思考
コメント
注目のコメント
フーコーしかり、ポストモダン思想は根付かないまま結局カントやデカルトといった近代思想の大物へ立ち返っているのが21世紀の実在論。本質が存在に先立つのか?存在が本質に先立つのか?
最近改めて中世に興味があるのは、モダン(近代)の前のスピノザやスコトゥスあたりが実は何を考えていたのかを、ポストモダンを経由せずに直接理解したいからという理由があります。
しかしドゥルーズも浅田彰が逃走論などを書いたものだからチャイルディッシュとか言われてしまうんですね。最後のキーワードはごく当たり前のことで、抽象的すぎるように思います。「ない」「全て」という物言いは、カッコよいですが、浅い感じがします。また「フーコーは、何々である」「ドゥルーズは何々である」と評価することに意味はないのではないないでしょうか。具体的な著作があり、別な時代、場所に生きていた思想家です。したがって、これこれの問題を扱うときに、誰それのこの概念はこういう見方・考え方を提供してくれる、といった風に、どう活用できるかを語るべきだと思います。すでに提示されている問題(新自由主義、管理主義、オリンピック、万博、財政などなど)、あるいは新しい問いに対してか。「多くの人に再確認していただきたい」の「多くの人」とは誰のことを考えているのか。具体的に、これこれの問題で悩んでいる人には、フーコーのこの「眼鏡」が使えます、と言うようにした方がよいと思います。
明治大学の重田園江さんにお越しいただき、哲学者のフーコーを起点に社会について議論いただきました。
どんなお話にも重田さんならではの視点があり、何者にも囚われていないご発言の数々が本当に痛快でした。
こちらは記事でもお読みいただきつつ、ぜひ番組の方もご視聴いただければと思います。