【與那覇潤】日本人が囚われる「正解フォーマット」の罠
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多様性やルッキズム、ポリコレといった言葉を聞くたびに、どこか心の奥でモヤモヤした感覚を抱いている時期がありました。“正解”の枠の中で慎重に発言しなといけない、不自由になる感覚です。
考えるうちに、自分の中でそうした言葉の本質を見つめようとせずに、世の中の文脈(正解)に乗って使っているからだと気がつきました。意味を落とし込まずに、“正解”に則って言葉をそのまま使うと、自分の考えや意見ではないことまで口走ってしまいそうになります。
ルッキズムについて取材しながら、「自分の考え」を社会の常識に委ねず、より自身の眼であらゆる物事を見つめるようにしたいなと思いました。人間の触覚の中でも「嗅覚」は脳に直結する存在だ。
「この食べ物、もう傷んでそうだ」
「何だか危険な香りがする」
これらはある意味、嗅覚を通じて人間の危機察知能力を刺激しているのだろう。
でもこれもある意味一側面であって、やはり視覚や聴覚など五感をフル活用した方が、より良い気はする。
ちょうど昨日、キッチン周りに少し異臭を感じたので、ゴソゴソ探索してみたところ、常温保存していたじゃがいもが原因だった。見た目にも明らかに傷んでいたことを確認し、一件落着したのだけど、やはりこの時も嗅覚と視覚の合わせ技で判断した。
大切な食料だからこそ、出来れば置いておきたい。けどもう無理な状態なら、早くゴミ処理せねばならない。
ある意味、対象物に対するリスペクトなり愛情なりがあれば、それを多面的に捉えようとする、ということか。
本質はそこにあるような気がしてきた。骨太の寄稿でした。與那覇氏のプロフィールを見て余計に響きました。
特に「パッと見《以外〉の部分の大切な部分を切り捨てる」は本当にそう思います。
人間は(自分は)そもそも不完全で非合理的な存在である自己認識は持っていたいです。
私も学生から20代前半は考えすぎて今から思えば気の病気になっていたかも。
しかし、徐々に自分でコントロールできるものは少なくて、何より幸せの定義みたいなものを考えるとそんな大したことでなくてもプチ幸せを感じることがわかりました。
(例えばコストコにいくとか、、、(笑))
変えれないものやできないことに意識を向けるのではなく、変えれるもの、
できることに集中すること、身近な人(ここでいう触覚)を大切にすることが
私にとっての楽になるヒントでした。
少し切り口は違いますが「住めば都」という言葉があって、都会に住んでいる人から見て
何もない田舎町は魅力的に映らない方が大半ですが、そこの住む方々は幸せで
例え過疎になっても死ぬまでそこにいたいっていうことよく聞きます。
「何故?」って聞くと、地域の住民が家族だからって答える。
そんな関係にヒントがあるように思います。
難しいテーマですが考える機会になります!