「あたりまえ」が「あたりまえではない」時代の、学生と大学と企業の姿勢
コメント
注目のコメント
当たり前、普通、って何ですかね。一時期周りの仲間と合わなくて、自分は普通じゃないのかと考えたこともありましが、もはや考えることも無意味だと思い始めました、普通は存在しないのだろうと。よく変わっていると自分は言われますが、変わってるけど何か?変わっていない人間なんていないよと言い返します(笑)
普通、当たり前という基準は客観視しやすく、画一的な基準が高度経済成長期にはあったら楽だったという、変な社会規範が未だ濃く残っているのだと思います。
これらを大学、企業、個人で考えて議論してみること、非常に価値のあるものだと思います。今や「みんな違って当たり前」の多様性が重視されている時代。「普通」の定義がどんどんわからなくなっていっているからこそ、話し合ってみるのは有意義だと思います。私は普通の人なんていないし、みんな変わってると思って生きてきました。人と違うところなんてどこかしらに必ずあるものです。
余談ですが、「普通に嫌」「普通に無理」のように、「普通」はネガティブな意味でも使っているのも何回か聞いたことがあります。ここでの「普通」は、「私の尺度で考えて」「世間一般的に考えてみて」という意味が込められていそうです。なんとなくですが,最近の学生の「普通」とは「自分に降りかかるリスクが少なく,少しだけ自分の優位性(またはメンタル)が保たれる状態や選択」なのかなぁと思いました.
「普通に美味しい」とか,良い方向性のニュアンスで語る用途があるくらいですし,昔よりはポジティブな意味合いがあるのかと.
あるいは,普通という大多数に紛れることで,少し特異なものから自らを遮断する壁になっているとか?
研究開発など学問的には「普通」は「一般的な話として」という意味は以前とあると思いますが,内面や自己を顧みることに関しては意味が変わっている気がします.