みなさんの常識は世界の非常識

みなさんの常識は、世界の非常識Vol.4

なぜ女性は女性に厳しいのか

2015/3/6
「みなさんの常識は、世界の非常識」では社会学者の宮台真司氏がその週に起きたニュースの中から社会学的視点でその背景を分かりやすく解説します。※本連載はTBSラジオ「デイ・キャッチ」とのコラボ企画です。

日本民営鉄道協会が調べた2014年度の「駅と電車内の迷惑行為」によると、「混雑した車内へのベビーカーをともなった乗車」を迷惑だと思うのは、男性の16.5%に対し、女性はなんと30.2%とほぼ倍にもなることが分かりました。「車内での化粧」についても、迷惑だと思うのは、男性の16.5%に対し女性は18.5%と女性の方が厳しいことがうかがえます。

宮台さん、常識的に考えると逆ではないかとも思えるこの調査結果ですが、いったいどういうことでしょう。

近代的な公共性を知らない大半の日本人

まず、一般的なお話から。日本で「公共」というと、「行政はなにをやっているんだ」問題になりがちで、「ノーマライゼーション」という言葉に象徴される「近代的な」公共性が欠如していることを指摘できます。

ノーマライゼーションとは、もともとは社会福祉のかいわいで使われてきた概念で、非健常者にとってのバリアーを、市民相互のコミニュケーションや助け合いを通じて、いかに解消していくのか、ということを意味するんですね。

例えば、身体にハンディキャップがあるとか、幼児を連れて電車に乗らなければいけない、そういう事情を抱えた人がいたら、「そういう人は通常の人より重荷を負っているから、自分は電車を一本遅らせても、スペースを空けてあげよう」と思うこと。

これがノーマライゼーションの本質で、近代の市民社会における公共性の基本原則を表します。日本にはそういう共通感覚がありません。それが、何もかも行政の責任にされる背景であり、国際的に恥ずかしいマタニティハラスメントの背景にもなります。

さて今日の話題は、こうした話とは違った話です。ベビーカーを迷惑だと思うのは圧倒的に女性が多い。車内の化粧に厳しいのも女性。面白いでしょ。僕が、この理由に当たる、ある命題に気がついたのは、ちょうど援助交際を調べていたときのことです。

なぜ援交から退却してガングロ化したか

1996年が援助交際のピークでした。96年の夏休みを境に、突然ピークが終わり、すぐにガングロのブームになりました。面白いことに、僕の本に縷々(るる)書いてあるとおり、これは、女の子が異性の視線をブロックするための工夫でした。

補足すると、ピーク時までは、影響力があるトンガッタ子たちが援交していたのが、ピーク時に地味な子たちがドッと参入してきた結果、援交が「メンヘラー」的な格好悪いイメージに変化した。それでトンガッタ子たちが援交から退却し、ガングロ化したんです。

僕は当時、渋谷の道玄坂で女の子たちをつかまえては話を聞いていたけれど、ガングロの子たちは、「え? うちらエンコーやってないよ、やってんのはああいう白ギャル」って言って、たまたま通りかかった白ギャルを、みんなで指さしたものです。

つまり、髪の毛にメッシュもいれてないし、肌も白い、みたいな「優等生タイプ」の女の子が、男の性的な視線を意識しすぎ、ということで、後ろ指をさされたんですね。並行して、性的にアクティブな子も、後ろ指をさされるようになったわけです。

自分(女)の反応を他の女がどう思うか

女性は一般的に「異性の視線に敏感だ」と言われます。でも、ちゃんと見ると、「異性の視線に対する自分の反応・に対する同性の反応・に対して敏感」なんです。分かりますか。要は「自分の反応を、他の女性が見たらどう思うか」を気にするんです。

公共性についても同じ。男性が「ベビーカー、別にいいじゃないか」「いや、よくない」という日本的論争をするとき、「だって迷惑じゃないか」「いや、ハンディキャップのある人を助けるのが公共的だろ」って具合に、何が公共的かをベタに議論するでしょう。

他方、女性は「私だったらありえない。空いてる電車を選ぶ。この時間帯に乗らないよ」となりがち。「私だったら」とか「私の周りだったら」という具合に、近接的な同性集団内のモード──仲間内モード──を思い出し、そこから評価しがちなんです。

それは、先の援交の例にも如実に現れています。援交ブームだった頃も、ブームが終った頃も、女子高生の間で「援交は、イケてるのか、ダメなのか」に関して道徳意識は問題じゃなく、女の子の近隣同性集団内の「視線の圧力」だけが問題でした。

「性的に積極的であることがイケてる、とする同性の視線」に反応するか、逆に「性的に積極的であることは過剰だ、とする同性の視線」に反応するか、です。自分としての自分がどっちが良い悪いという話じゃない。まして道徳的な良し悪しの問題じゃない。

同性仲間からの圧力をパッシングする方法

同性からの圧力は大変ですが、そこで僕が指摘したいのが、女性が編み出した知恵です。当時、シノラー(注)みたいな自称「不思議ちゃん」がいたでしょ。今なら「腐女子」や「文化系女子」の自称が機能的に等価です。それって何なのか、お分かりですか?

(注)シノラー:90年代後半、篠原ともえさんが奇抜なファッションと不思議な言動でブームとなり、一部の女性から大きな支持を得た。

「『男にモテない』『男が苦手』って同性に見られるのはイヤだけど、本当は苦手」っていう子がいる場合、「モテもいいけど、腐女子のゲームや文化系女子のゲーム──昔なら不思議ちゃんゲーム──の方が楽しい」っていうふうに表明しちゃうと、楽になれます。

「私はみんなとは別のゲームをやってるんです」って。「恋愛できないんじゃなく、恋愛しないんです」って。そうやってプレゼンテーションすると、やがてそれに同調する同性の仲間もわらわら寄ってきて、視線のプレッシャーをスルーできるんですね。

それを社会学では「パッシング」と言います。つまり、後ろ指をさされそうな状況を、うまくやりすごす(=パッシングする)ために、自分はオルタナティブモードを選んだんだっていう具合に、状況定義をコントロールするんです。

仲間の視線に敏感になれというメッセージ

まとめます。女性は、異性に対して反応する場合も、社会的な公共性に対して反応する場合も、「ウチらだったら、どうするか」と近隣同性集団からの視線を経由して、「近しい仲間が『それもアリ』と承認してくれるだろうか」と考えがちです。

分かりやすく言えば、「自分や近しい仲間だったら、現にそうした振る舞いがあり得るか」と考えて、「あり得ない」ならばフィルタリングする。これに関してはいろんな研究があって、日本に限らず女性のそうした傾向が話題になっています

では、なぜ女性がそうなのか。「生まれつき」ではなく、「そういうふうに育った」可能性があります。「周りの目に敏感に振る舞え」というメッセージにさらされて育って、長じて同じメッセージを子どもに与えるのです。そこから先は「鶏と卵」です。

SNSでハブられることへの怯えの広がり

今のSNSが分かりやすいと思う。LINEを使ったイジメが知られているでしょう。同報でメッセージを送り合うLINEグループがあるけど、リアルで仲良くしているように見えて、その子だけ外したLINEグループでこっそり悪口を言う、みたいな。

LINEグループでつながってても安心できません。別のLINEグループがこっそり作られ、そこで「クソじゃね」みたいな悪口を言われているかも。LINE上ではいくらでも簡単にグループを作れますからね。こうなれば視線に敏感にならざるを得ません。

「Windows 95」発売の1995年が事実上「インターネット元年」ですが、今世紀に入って、ネットでこっそり自分以外の友だちがつながってる可能性に中高生の子たちが怯えるようになりました。今では小学校高学年にも怯えが広がっています。

自分で自分のクビを締める残念な流れ

そこにさらに性的事柄に対するリアクションが入ってきました。2010年は「SNS元年」「フェイスブック元年」と言われますが、世界的に「SNS退却元年」でもあります。コミニュケーション達人たちがSNSから退却していく流れが現に起こっているんです。

例えば、とてもいい発信力をもっていた大学生女子のアルファブロガーたちが、ブログどころか、SNSまで含めてネットから退却しました。同じタンミングで「ビッチ」というやゆが始まるんです。昔なら「性的にアクティブな女の子」で済んでいたのにね。

かつてなら「どうやったらそんなふうに積極的になれるの?」とお手本にされたはずの女の子が、「ビッチ」呼ばわり、「ヤリマン」扱いされるわけで、そうしたコメント欄の荒れに嫌気がさし、素敵なブログを閉じた大学生女子も少なくなかったんですよ。

誰だってそんなふうに言われたくない。だから、濃密な性的リレーションを持っている女性も、昨今では親しい同性に対してさえそれを隠すようになりました。それが基本的なモードになって、性愛に関する知恵が若い女性の間でシェアされなくなっています。

「自分としての自分」から遠ざかる傾向

という次第で、「女性が女性に厳しい」という厳然たる統計的傾向は、公共性を評価する場合にせよ、モテるモテないに関する評価を考える場合にせよ、「同性の仲間たちの反応を、自分の反応にする」という過剰なまでの敏感さに由来するものでしょう。

精神分析学者ラカンは、女が「自分としての自分」としてでなく、いわば「ザ・オンナ」として反応する傾向を、「男は『自分(男)がこの女に似合うか』と考え、女は『この男が自分(女)に似合うか』と考える」というニーチェの言葉を引いて表現します。

それに比べれば、男性は相対的にシンプルだと言えるでしょう。男はやっぱり「おバカ」なんですよ。あっ、これはみなさんの中でも常識ですかね? でも、世の中「おバカ」であるほうが、主観的にも自由だし、社会的にも望ましいという場合が、あるんですねー。

※来週の本連載はお休みです。再来週から再開の予定です。

(構成:東郷正永)

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