2023/4/22

震災でもコロナでも「修理」に行く…地道な経営戦略が最後に笑う

ライター
ヤナギヤ(山口県宇部市)はカニカマ製造機の開発などで培った技術力を生かし、顧客のさまざまな“悩み”を解決することで信頼を得てきました。加えて、大切にしているのがメンテナンスです。「売っておしまい」にしないことが、顧客の信頼を集めるもうひとつの大きな要素になってきました。

それが突起を増やすように事業領域を増やす「金平糖(こんぺいとう)経営」の実践につながっています。そうした経営にこだわる理由を紐解くと、柳屋芳雄社長(72)の長年の理念にいきつきました。
INDEX
  • 危機時にも修理をあきらめない
  • “全員野球”でメンテナンス
  • 恩義を知った修業時代
  • 無理せず規模拡大は追わない
  • 「未来はわからない」が前提
柳屋芳雄(やなぎや・よしお) 1950年山口県生まれ、日本大学経済学部卒業後、兵庫県のかまぼこメーカーに就職。1975年に24歳の若さでヤナギヤの3代目社長に就任。1979年にカニカマ製造機を開発。水産練り製品だけでなく、あらゆる食品や日用品、医薬品向けに装置の販路を広げる。

危機時にも修理をあきらめない

2011年に発生した東日本大震災。大きな被害を受けた東北地方沿岸部には、練り製品など水産加工品メーカーの工場が多くあります。
ヤナギヤはこの地域に、すり身加工機や揚げ物製造機、蒸し機、形成機などさまざまな食品の製造装置を販売・リースしていました。しかし、約120社の取引先が被災し、操業を続けることが難しくなりました。
「とにかく早く仕事を始めたい」――現地で被災した取引先のそんな思いに応えるため、柳屋社長は装置を山口の本社まで運んで修理することを決意します。ダメになった電気部品を交換し、装置に残った海水や塩を洗い流しました。一時は本社工場に何十台もの被災した装置が並んでいたといいます。修理は急ぎで2~3カ月で終わらせるものから、相手方の復旧の度合いによって半年後、1年後になるものまで、直しては納品するという作業が続きました。
当時、修理をした取引先とは、いまも良好な関係が続いています。大震災から10年、ヤナギヤの2021年の社内報に寄せられたメッセージには、感謝の思いが込められていました。
〈震災直後の工場周辺にがれきと化したものが散乱しているとき、工場の中から機械を引っ張りだして外で修理を行ってもらいました。その後、コロナ禍であっても、かまぼこが作れて地域の人たちに買ってもらい、喜んで頂けています〉

“全員野球”でメンテナンス

顧客から装置の修理依頼があれば、基本的に国内外問わず数日以内に駆けつけるのがヤナギヤ流。2020年以降、新型コロナウイルスの感染拡大によって移動が制限されて隔離期間が設けられていても、海外の顧客のもとに修理に出向くことは止めませんでした。
「ほかの日本のメーカーは来なくなったのに、ヤナギヤだけは来てくれた」
そんな評判が現地で広まり、さらに信頼度が高まりました。
海外でのメンテナンスの様子(提供:ヤナギヤ)
2022年に始まったロシアのウクライナ侵攻では、ウクライナ南部の都市のオデッサにいる顧客に通常の配送ルートで部品が送れなくなりました。物流網が断絶するなか、どうすれば配送できるか、社内のチームで根気強く代替ルートを見つけて何とか届けることができたといいます。
「すべて当たり前のことです。自社の製品は娘のように思っています。自分の娘を嫁に出して、娘の具合が悪くなったら実家の親は心配するでしょう。そのときは行きますよっていう感覚です。うちの製品で、うちしか直せないなら行きましょう、ということ。海外戦略がどうだとかは、あまり意識していません。同じ製品なので修理するのはどこでも同じです」
修理やメンテナンスなどアフターサービスがすべてだと思っている――そう語る柳屋社長ですが、ヤナギヤでは社内に明確な担当者や担当部署を置いていません。エリアごとの担当も関係ありません。営業担当でも企画設計担当でも、そのときに行ける人が速やかに機動的に修理に出向くのが基本です。
国内でも国外でも呼ばれればすぐに行く(提供:ヤナギヤ)
たとえば、たまたまヨーロッパに出張に出ている営業マンがいて、現地から修理依頼があれば、そのまま顧客の工場に足を運びます。
「営業も設計もみんなだいたい、修理はできますね。できないのは、社長と総務ぐらいでしょう。社員全員合わせても170人ぐらいで知れてますからね、みんなでやんなきゃ。社長は何の役にも立たないです。壊れるから(装置に)触るなって言われますよ」

恩義を知った修業時代

顧客の悩みに寄り添い、購入後も親身になって製品の面倒を見る。そんな経営スタイルの原点は、柳屋社長が3代目に就く前の修業時代にさかのぼります。
柳屋社長は日本大学経済学部を卒業後、兵庫県姫路市のかまぼこメーカーに就職しました。「お前、田舎に帰ったら何もしねえんだから穴掘れ」とか「木を切ってこい」とか言われながら、雑用を含めてあらゆる仕事をこなしました。
父である2代目社長の体調不良などで柳屋社長は急きょ、社長就任が決まります。24歳のときでした。3年間を予定していた修業は、1年と数カ月で終わることに……。
そのとき、ヤナギヤの経営がピンチだと知った修業先の社長が「10台頼むからやってくれ」と、柳屋社長に800万円ほどの手形をポンと渡しました。資金繰りが厳しかったヤナギヤにとって、大変ありがたいものでした。その企業からは、いまに至るまでヤナギヤの製品を買ってもらっています。
あるいは、社長就任後に販路を広げるために、全国各地をトラックで営業に走り回っていたころのこと。とにかく機械を買ってもらうためのドサ回りでしたが、なかには「よう来たな。なんか買うたらなあかんな」と言ってくれる人もいました。
「ものすごい涙が出ましたよ。いまはもう、そのお孫さんの時代ですからね。『あなたのおじいさんには世話になったんだ』と言いながらやっています」
苦しいときこそ、人から受ける親切や気遣いが身に染みます。柳屋社長が20代でたくさん受けた恩義が、顧客との信頼を大切にするいまの経営スタイルにつながっています。

無理せず規模拡大は追わない

柳屋社長は社外だけでなく、社内からの信頼も大切にしています。そのひとつが従業員の働き方です。過度な負担なく、無理をせずに働いてもらえるよう、受注の取り方に配慮しています。以前、ある小売企業から機械の製造を依頼されたとき、メンテナンスの大変さを理由に断ったことがあります。
「通常の装置の修理は、たまに起こるからきめ細かくできるのです。24時間365日、常に対応する体制を組まないといけないような仕事はできません。僕がしたくないことを社員にお願いすることはしません。断った企業からは『えらく強気ですね』と言われましたが、弱気だからできないのですよ」
どんどん仕事を取っていけば、そのぶん売り上げは伸びます。しかし、背伸びをして売り上げ規模を求めることもしません。
「現在、売上高は年50億円です。それが3~5%成長していくゆるやかなスピード感がちょうどいいと思っています。自動車のような大きなマーケットで事業をしている会社であれば、もう少しがんばらないといけないかもしれませんが、うちは小さいマーケットでしかやっていません。そこで規模を追いすぎると、どこかで歪みが出てしまいます」
売り上げ規模を追う代わりに意識しているのが、金平糖経営における“突起”です。たくさん突起を出せば出すほど経営が多角化して安定していきます。そのために顧客の要望に応え続けて、取引先を広げているのです。
「最近は突起が多すぎて、いまはどの突起が出ているかわかりません。まあ、それはそれで面白いからいいですね」

「未来はわからない」が前提

ヤナギヤの特徴として、「〇年後に売上〇億円」というような将来の経営計画を立てない点があります。市場や業界の先を読み、大きな設備投資をするということもありません。そこには柳屋社長の「未来はわからないもの」という“哲学”が前提にあります。
「1年先くらいは何となく予測できますが、2~3年先になると何が起こるかわかりません。電気自動車が盛り上がりそうだからといって、そこを狙って仕掛けることはしません。カニカマにしても人気が出る年は装置が売れますが、ブームがしぼむと売れなくなります。そんなものですよ。だから特定の業界しかやらない、ということはしない。来年はどこのお客さんがメインになるかわからないし、結局、なるようにしかならないのです。自然体でいいんですよ、自然体で」
冗談めかしてこう語る柳屋社長ですが、そこには揺るぎない信念があります。未来はわからないが、“選ばれる企業”であり続ければ確実に成長できる――。創業100年を過ぎた後も、ニッチな分野で突起を増やすという地道な戦略は変わりません。それがヤナギヤの強さの秘訣なのです。
()