聴覚障害児の死亡事故 「逸失利益」は健聴者の85% 大阪地裁
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私は10年後、働き方も働く人も、今とはまるで違うものになるのだろうと想像している。だから「労働者全体」の平均賃金で算出するのが現時点で妥当だと思う。
注目のコメント
この発言というか判決はアウトだと思う。
そして、データに基づいて公平にやっている感があることが、なんというか残念。
ロジックとしては
①遺児はは聴覚障害者だった
②聴覚障害者は年収が低い傾向にあるし、それはデータ的にも間違っていない。
(データでは健常者の7割。)
(ただしテクノロジーの発展によってハンディは縮まるだろうから85%)
③結果的に、データを元にして算出したから公平でしょ
ということなわけです。まあ個人的にはテクノロジーや社会の理解が進むことによって差が埋まるだろうという判断には一定の理解を示したいものの、前提がおかしいと感じる。
上のロジックをちょっと観点を変えて当てはめてみます。
親の年収と子の学力の相関や生涯年収の相関だって、データが出ています。これをもとに考えると、「うちの子は親の年収も学力も高かったので、いい大学に入って高い年収を得る可能性は高かった。それは統計的にも明らかだ。だから全国平均より高くもらうべきだ」という主張も成り立つ気がしますし、逆もそうですよね。凄く極端に言えば「あなたがたは両親ともに低学歴、低収入なので、これは統計的にも全国平均の7割くらいが妥当です」というのも成り立ってしまう。似たような話でいえば、生まれた都道府県とかもあるのかもしれない。(当道府県によって平均年収が違うこと、生まれた都道府県と将来住む都道府県は一定の予測ができるから)
とまあ自分で書いていても「たとえ話だとしてもひどいことを書いているな
」と思うわけです。確かにハンディキャップはゼロでは有りませんが、遺児はハンディキャップを乗り越えるために人一倍の努力をしたかもしれないじゃないですか。いや、そりゃわかりませんよ。でも親はそうねがっていたかもしれないし、そういうのをすべて蹴散らかして統計、データに基づいて判断したのは嫌だなと。日本の民事上の損害賠償は、あくまで誰かが負った損害を金銭算定して損害を負わせた人に補填させるためのものです。
金銭算定のためには、その人が今後働いたら得たであろうお金を値踏みする必要がどうしても生じてしまいます。
そうなると、人によって逸失利益の額に差が出るのもやむを得ない話だと思います。それが子供であっても同様に。。
(個人的には、テクノロジーの進歩を踏まえるなら障がいの有無による将来的な年収格差は一層生じにくくなっており、そのため85%という数字の妥当性にはやや疑問を覚えますが。。)
ただ、逸失利益はあくまで働いて得たお金の推測・値踏みですので、これを「命の価値」と繋げるのには違和感があります。
逸失利益を命の価値というのなら、命の価値は経済的な生産性で測られると言っているような気がするためです。
少なくとも私が自分自身や大切な人を大切に思う気持ちは、今後の稼ぎの額に左右されないと思っています。
裁判では命の価値の中のごくごく一部である(ですらない)稼ぐ力を金銭換算しただけ、と考える必要があるのではと思いました。この判決は酷いと思います。「差別」と表現してもよい判決と強く思います。
亡くなった方がすでに仕事に就いている大人であれば、医者とサラリーマンでは逸失利益に差が生じるということに一定の妥当性もあるかもしれないが、まだ成人していない小学生の将来を聴覚障害を理由に普通の収入を得られないと考えることが理解できない。結果的には障害のために就労に制限などが残るかもしれないが、選択する仕事や会社によって平均的もしくはそれ以上の収入を得るかもしれない。まだ、小学生なのだ。将来の収入が平均的ではないと判断するには早すぎる。
私は実際の判例の知識はないが、進学校に通う高校生と公立高校に通う高校生では逸失利益に差が設けられているのだろうか?
工業高校に通う高校生ではさらに差があるのだろうか?
有名私立の附属小学校に通う児童と公立の小学校に通う児童でも逸失利益に差があると判決がされているのだろうか? あるとすればその差の根拠は何なんだろうか?
どうしても納得ができない判決と思います。