和田崇彦

[東京 3日 ロイター] - 2013年、当時の安倍晋三首相からデフレ脱却を託され、異次元の金融緩和を主導した黒田東彦日銀総裁が4月に任期満了を迎える。10年にわたる金融緩和で、デフレではない状況は実現したが、2%物価目標の「持続的・安定的」な達成には至らなかった。昨年の資源価格高騰と急速な円安進行で硬直的だった企業の価格設定スタンスは大きく変化した。しかし、賃金と物価の持続的に上昇する好循環には至っていない。賃上げの持続性の見極めや山積するその他の課題への対応は次期総裁に委ねられることになる。

     <黒田総裁、経団連で「最後のお願い」>

昨年12月、恒例となった経団連審議員会の挨拶で、黒田総裁は賃金動向に多くの時間を割いた。「バブル崩壊以降、長きにわたる低インフレ・低成長の流れを転換できるかという重要な岐路に差し掛かっている」と強調。賃上げへの期待を示した。

物価目標の持続的・安定的な達成の観点で、今年の春闘は最重要イベントだ。歴史的な円安で大企業・製造業を中心に企業収益は好調で、経済活動の再開が進展して人手不足感が強まり、労働需給はタイトになっている。企業経営者からは物価高を反映して高い賃上げ率を実現することに前向きな声も相次いでいる。

みずほリサーチ&テクノロジーズは、2023年の春闘賃上げ率を2.59%(うち、定期昇給分を除くベースアップ分が0.8%)と予測。これが実現すれば1998年の2.66%以来の高い水準となる。しかし、2%目標の達成には力不足だという。

酒井才介主席エコノミストは、連合の要求の「満額回答」に近い賃上げ率(定昇込み)4―5%が今回の春闘で実現すれば、2%物価目標の達成に近づくことは事実だが「それでもまだ十分とは言えない」と話す。今年の春闘は物価高に配慮した賃上げが見込めるものの、先行き円高などで輸入物価が下落すれば物価上昇率の伸びも鈍化し、来年の春闘で2年続けて高い賃上げが実現するのは難しいとみられるからだ。

日銀でも賃上げの実現に慎重な声が聞かれるようになった。1月の金融政策決定会合では「賃金の持続的な上昇には時間がかかるので、マクロ経済政策の支えが必要だ」との声が出た。

2日に記者会見した若田部昌澄副総裁は、現在は賃上げと価格の引き上げの循環が安定的・持続的に回るのか「非常に重要な時期だ」と指摘。「どちらかというと下方向に戻る力が強いので、そこはまだ安心できない」と述べた。物価目標の成否を判断するには「1回の春闘だけでは情報量が足りない」とも話した。

12月の経団連での挨拶で黒田総裁は、金融緩和を続けることで企業の前向きな取り組みを「最大限後押ししていく」と語った。

    <看板倒れの「2年で物価2%実現」>

黒田日銀は13年4月、2%物価目標を2年で実現することを目標に掲げて大規模な金融緩和を始めた。黒田総裁就任直後の経済・物価情勢の展望(展望リポート)では、15年度の消費者物価指数(コア、消費税率引き上げの影響を除く)の見通しを前年度比プラス1.9%上昇とし、「(15年度までの)見通し期間の後半にかけて、2%程度に達する可能性が高い」と明記した。

    しかし、消費税率引き上げが実施された2014年度を除くと、21年度までコアCPIの伸び率は1%にも届かなかった。海外経済の減速、消費増税に伴う景気の落ち込み、原油価格の下落などが相次ぎ、物価見通しの達成時期は後ずれに次ぐ後ずれ。黒田総裁の2期目が始まった18年4月には、展望リポートから物価目標の達成時期の記述が消えた。

    展望リポート公表直後の記者会見で、黒田総裁は釈明に追われた。「現実の物価上昇が予想物価上昇率に波及するまでに相応の時間が掛かる可能性があるなど、物価の先行きに様々な不確実性がある」と話し、物価の不確実性がぬぐえない中で「計数のみに過度な注目が集まることは、市場とのコミュニケーションの面からも必ずしも適当とは言えない」と述べた。

    <値上げに動き出す企業>

    しかし、22年に入ると物価を取り巻く環境は一変した。ロシアによるウクライナ侵攻で国際的な資源価格が高騰。米連邦準備理事会(FRB)の急速な利上げに伴う円安の進行で国内企業の輸入物価は高騰した。

    それまで、原材料価格が高騰しても値上げせず、自社で吸収してきた企業も、異例のコスト高でスタンスを転換。原材料高の転嫁が進み、コアCPIの上昇率は昨年4月以降12月まで9カ月連続で日銀の物価目標を上回った。12月には目標の倍となる4%に達した。

    日銀は昨年10月の展望リポートで「競合先の動向も眺めつつ、企業が原材料コストの上昇を販売価格に転嫁する傾向を強めている」との分析を示した。帝国データバンクによれば、今年2月に値上げされる食品は5000品目を超える。

    それでも日銀では、値上げが続いたとしても輸入物価高が主因であり、市況下落や為替が円高に振れれば物価は伸び率を縮小し、日銀が目指す持続的な物価上昇にはならないとの声が根強い。

    <新総裁、課題は山積>

金融政策をめぐる課題は他にも山積している。物価安定目標の達成に向けて日銀が導入してきた政策の副作用が顕在化しているからだ。イールドカーブ・コントロール(YCC)を巡っては、市場実勢から離れた水準に長期金利を抑え込む手法は維持できないと、市場が攻勢を強める場面が目立つようになった。大規模な国債購入で市場の需給もゆがみ、健全な金利形成とは程遠い状況になっている。

日銀は共通担保オペの拡充でイールドカーブの円滑な形成を目指しているが、「YCCの本道は国債買い入れで、共通担保オペの活用は国債買い入れによる金利コントロールの限界を示しているのではないか」(国内証券)との指摘も出ている。

岸田文雄首相は2月中に次の日銀総裁人事を国会に提示する見通し。総裁候補として、雨宮正佳副総裁、中曽宏前副総裁、山口広秀元副総裁、浅川雅嗣アジア開発銀行(ADB)総裁、翁百合日本総研理事長などが有力視されている。

    「日銀の金融緩和だけでは名目賃金を十分に上昇させることはできない」(みずほリサーチの酒井氏)との指摘も出る中、新総裁は4月の就任後、すぐに取りまとめる展望リポートで春闘を踏まえた賃上げの持続性、物価目標達成の蓋然性を判断することになる。

その後、物価目標達成の蓋然性が高まれば、金融政策の正常化という大仕事が待ち受ける。政府との関係では、共同声明改訂の是非も含めた判断が新総裁に委ねられる。

(和田崇彦 編集:石田仁志)