2022/11/21

ヘルスケアITの先駆者が目指す“攻守“の医療DX

NewsPicks Brand Design / Senior Editor
 医療DXの推進が叫ばれている。政府が6月に発表した「経済財政運営と改革の基本方針2022」(骨太の方針)では、医療情報の基盤の整備とともに、稼働状況の徹底的な“見える化”が掲げられた。

 その潮流は勢いを増してはいるが、遠隔医療の普及や業務効率化、それによる現場の負担軽減など、課題は山積みだ。

 そんななか、PHCグループ傘下で世界125カ国以上での医療・ヘルスケア機器の開発・製造・販売を手掛けるPHC株式会社のメディコム事業部は、2020年9月に「ビジネストランスフォーメーションセンター」(以下、BXセンター)を設立。医療・ヘルスケア業界のDXに本気で取り組み始めている。

 これまでも、他社に先駆けてレセプトコンピューターや電子カルテなどの販売を開始し、業界をリードしてきた同社の考える課題とは?

 BXセンター統括部長 池田孝史氏の話からは、医療業界ならではの“DXの時間軸”と、やがてくる変革に備えて持つべき“視点”が見えてきた。
INDEX
  • デジタル化は、本当に「効率化」か?
  • 2つの顔を持つ「BXセンター」
  • BXセンターを“変革の象徴”にしていく
  • 未来に向けた“両輪の人材”の育成

デジタル化は、本当に「効率化」か?

──コロナ禍以降、しきりに「医療DX」が叫ばれていますが、現状をどう見られていますか?
池田 日本の医療DXは、十分に進んでいるとは言えません。
 たとえば診察に欠かせない電子カルテの普及率を見ても、一般病院で57.2%、一般診療所で49.9%にとどまっています(2020年10月時点)。
 つまり、一般診療所ではおよそ半数が、今も紙のカルテを使っている状況ですね。
──医療DXは患者のみならず、医療現場にとってもメリットがあるはずです。それにもかかわらず、なぜ電子カルテの普及すら進まないのでしょうか?
 たしかにDXと言えば、一気に業界全体をディスラプトし、新しいやり方を導入していくイメージがあると思います。
 実際、金融やHRといった業界では急激にDXが進んでいますよね。
 しかし、医療の場合はそうもいかない事情があります。
 人の命に関わることですから、スピードよりも「安心・安全」「信頼」が重要視されるんです。そうなると、どうしても変化の時間軸が長くなってしまう
──たとえ利便性があっても、リスクはとらずに慎重に判断せざるを得ない、と。
 そのとおりです。我々メディコム事業部は1972年に事業を開始して以来、医療現場を支援するさまざまな製品・サービスを提供してきましたが、決して一足飛びに普及したわけではありません。
 たとえば、今では当たり前となった「レセコン(※)」を国内で初めて提供開始したのは私たちですが、このシステムを広める際にも、じっくりと時間をかけ、お客様に心から納得していただくことを大切にしてきました。
※レセプトコンピューターの略称。診療報酬の請求に際して、レセプト(診療報酬明細書)を作成するシステム。病院・診療所・調剤薬局における普及率は約96%(厚生労働省「レセプト請求状況」令和4年8月診療分)。
 電子カルテも同様です。特にベテランの医師ほど、いわば職人のような流儀がある。そのやり方を変えるのは簡単ではありませんから。
 もちろん、変化を歓迎してくれる医師もいます。特にデジタルネイティブ世代の方々はDXに意欲的で、クラウド型の電子カルテのようなツールも積極的に導入しています。
 競合他社も続々と参入し、ゆるやかな過渡期を迎えている今、診療所におけるレセコン及び電子カルテ領域で市場をリードしている我々としても、指をくわえて見ているわけにはいきません。
 新たなテクノロジーの可能性も、模索していく必要があるでしょう。

2つの顔を持つ「BXセンター」

──ゆるやかにですが着実に進みつつある医療DX推進が、池田さん率いるBXセンター設立の狙いなんですね。
 そうです。ただ、医療DXの推進部隊というのは“社外向けの顔”。同時に、“社内向けの顔”も持つ点がBXセンターの特徴だと思っています。
──社内向けの顔、ですか?
 つまり、我々メディコム事業部自体のビジネスのトランスフォーメーションです。設立の目的は3つあります。
 まずは、私たち主導でPHCグループの新しい文化をつくっていくこと
 メディコム事業部は、50年以上の歴史を持ちます。当初は日本で初めてレセコンを発売するなど、ベンチャーマインドに溢れるチャレンジングな社風でした。
 しかし、歴史を重ねるなかで組織がサイロ化し、新しいことへ挑戦する気概も徐々に失われつつある。私たち自身の組織や仕組みも、時代に合わせて更新し続けていかねばなりません。
 そこで現状を変えるきっかけとして、事業部の中枢から少し距離を置いた出島的な位置づけとして、BXセンターを設立しました。
 2つ目の目的は、これまで以上にお客様の声を聞くこと
 これまでメディコム事業部の開発拠点は群馬でしたが、東京に本社オフィスとは別に新たな拠点を設けました。
 医療機関や調剤薬局などのお客様により近い場所で声を聞きながら、サービスを作っていこうとしています。
 3つ目は、IT・ヘルスケア人材の採用です。本気でDXに取り組むなら、これまでのように医療の専門性だけでは足りません。
 BXセンターにエンジニアが働きやすい環境を整備することで、社内にない知見や経験、ITの知識を持つ方々を積極的に採用していく狙いがありました。
 設立当初は5名だったチームも、この2年で70名まで急拡大しました。今後も新たな人材を採用し、さらに組織を強化していく予定です。
──では、そんなBXセンターの戦略について教えてください。
 わかりやすく言えば、“新しいこと”はすべてBXセンターでやろう、と。
 当初はクラウドサービス開発のみでしたが、設立から2年経った今では、既存の事業部が手がけてきた遠隔医療サービスやヘルステックビジネスなども加わり、2022年4月には4部署体制になりました。
 メディコム事業部には、既存と新規のビジネスがあります。
 既存のビジネスは、長年にわたり、地道に医療現場へ提供してきたもの。私たちの担うヘルスケアIT事業の中で言えば、すでに普及率の高いレセコンなどがこれにあたります。
 やはり長年のやり方が馴染んでいる地域の診療所などは、あえて新しいものに変えないほうがいい場合もあるわけです。
 一方の新規ビジネスでは、テクノロジーを駆使してどんどん医療DXの波を広げ、遠隔診療や経営分析による現場の効率化などを後押ししていきたい
 そのためのプロダクトとして、クラウド型の電子カルテ「きりんカルテ」や、調剤薬局が売上データをクラウド環境で管理できる「digicareアナリティクス」などがあります。
 リモート操作可能なリアルタイム遠隔医療システムなどのソリューションとかけ合わせながら、医療アクセスの地域差や診療科別の医師の偏りといった社会課題にも取り組み始めています。
──プロダクトによっては、自社の既存事業と競合するカニバリゼーションの懸念もありそうです。
 たしかに事業領域が重なる部分もありますが、既存の事業部と私たちとでは顧客のターゲットが異なります。
 お客様によって置かれている事業環境や課題が異なっており、メディコム事業部としてベストプラクティスの製品・サービスを提供することで、うまく棲み分けられています。

BXセンターを“変革の象徴”にしていく

──BXセンターの目的に「企業文化の変革」を挙げていましたが、どのように変えていくのでしょうか?
 メディコム事業部は、ヘルスケアITを強みとしていますが、それでもどこか旧態依然としたところがあります。
 その空気を現場から変えていきたいと思っています。
 私が入社した3年前までは、クラウド型のツールを使っている人も少なく、Macは使用禁止でした。会社としての管理の都合が優先されていたんです。
 そこで、BXセンターがある渋谷オフィスでは、そうした制限を撤廃しました。
 エンジニアにとって開発しやすい環境、世の中にいち早く新しいサービスを届けられる環境を最優先に、オフィスの設計からこだわって考えました。
──長年のルールを変えるとなると、社内の調整が大変だったのでは?
 正直なところ、一筋縄ではいきませんでした(笑)。一つひとつの変更に対して、「なぜ必要なのか」を説明するのは骨が折れましたね。
 たとえばSlack一つとっても、ずっと別のツールを使っている人たちには言葉では理解されにくいんです。
 だからBXセンターが実際にやってみせて、他部署の人もそこに巻き込んで、便利さを体感で理解してもらっています。
──まずはBXセンターでミニマムにスタートし、徐々にグループ全体へ広げていこうと?
 はい。すべてにおいて同じアプローチで変えていこうとしています。
 実際に、最近では他部署でもMacを使う人が出始めています。「BXセンターもやっているからいいでしょ」と言えば通りやすくなりますし、前例をどんどん作っていきたいですね。
 極端に言えば、このオフィス自体をPHC株式会社、そしてPHCグループの他事業に対する変革の象徴にしていきたいと考えています。
 企業のカルチャーや考え方、仕事のやり方を変えていき、エンジニアも含めた新しい人材が働きたいと思える環境を整えていく。そして、そこにいるメンバーが生き生きと働いている。
 BXセンターにはプロパー社員もいます。彼ら彼女らがこの場所で考え方や働き方をガラッと変えて姿を示せれば、ゆくゆくはその空気がPHCグループ全体にも伝播していくはずですから。

未来に向けた“両輪の人材”の育成

──時間軸の長い医療・ヘルスケア業界のDXですが、BXセンターは、どこから実現してきますか?
 攻めと守りの融合です。既存と新規の事業でシナジーを生み、グループ全体の新しいビジネスの柱へと育てていくことが理想ですね。
 たとえば「digicareアナリティクス」を他の事業部でも販売していく体制を構築すれば、これまでSaaSプロダクトを扱ったことのない営業担当者も、ITやDXへの理解が必要になりますよね。仕事のスタイルも変わるかもしれません。
 その先に、自然とグループ全体の文化が変化していくのではないでしょうか。
──社内とその先の業界へのインパクトが表れるまで、どのようなロードマップを描いていますか?
 本当はすぐにでも実現したいところですが、医療業界の変化の時間軸は10年単位。社内はもっと急いで5年。
 BXセンターの設立から考えると、残り3年間で、ビジネスの攻めと守りの融合の事例を作り出したいところです。
 BXセンター単体であれば、ひたすら攻めていけばいい。しかし、既存の事業部との融合には、“守り”も考慮しなければなりません。
 長年にわたって積み上げてきた信頼があるからこそ、我々の製品を選んでくださっているわけですから。
 たとえば今後、主に中小の調剤薬局やローカルチェーン店に最適化した設計の「digicareアナリティクス」を既存事業のお客様にも販売していく場合、これまでにない事業環境や課題に対応できるような調整が必要です。
 それを怠り、現状のままの提案を推し進めることは、顧客の信頼を損なうどころか、数億円規模の既存ビジネスが吹き飛んでしまうリスクを孕みます。
 だから、今後3年間で準備すべきは、攻めと守りの双方の視点を持った人材の育成です。
 新しい事業を強力に推し進めつつ、グループ全体のビジネスのバランスを考えて“押し引き”し、自分の部署も他部署もお互いが生きる道を探る視点が不可欠なのです。
 ここまでお話ししたとおり、医療の世界は時間軸がゆっくりで、何かを大きく変えるには長い時間と労力がかかります。遠隔医療も電子カルテも、まだまだ道半ば。
 しかし、それだけに何か一つでも変えられた時のインパクトは計り知れません
 それはビジネスチャンスという意味でも、医療を大きく前進させるという意味でも、とてつもなく意義のあることではないでしょうか。