2022/4/1

「誇るべき失敗」はあるか?失敗を資産に変える「経営哲学」

NewsPicks, Inc. Brand Design Editor
クラウドの浸透などを背景に、SI(システムインテグレーション)産業の危機が叫ばれて久しい。そんななか、40年以上SI産業に身を置き、業界を変えようと奮闘してきた一人の男がいる。
BIPROGY(旧:日本ユニシス)CEOの平岡昭良氏だ。1980年に同社入社後、日本ユニシス一筋にキャリアを歩んできた。
平岡氏は、昨年ある大きな決断をした。1988年以来34年にわたり親しんできた日本ユニシスという社名の変更だ。2022年4月1日付で「BIPROGY(ビプロジー)」に変更し、キャリア40年の集大成として大規模な変革に挑もうとしている。
これまでも社内変革請負人として、過去のしがらみを断ち切り、社内改革を進めてきたこの男とはどんな人物なのか。
話を聞けば、「誰よりも失敗してきたことが私の誇りです」と苦笑いする。40年以上にわたるキャリアを「誇るべき失敗の連続だった」と振り返る平岡氏の経営哲学に迫った。

SIerは路頭に迷う

──人月単価型のビジネスモデルや多重下請け構造など、SI産業の限界を指摘する声が盛んになっていますが、平岡さんは2001年頃に「SIerは路頭に迷う」と題したレポートを会社に提出していたそうですね。
平岡 1999~2000年頃は米国を中心に起こった、インターネット関連の新興企業による経済的熱狂、ドットコムバブルが弾けた直後の時期です。
 当時、わずか3日間ほどですが、シリコンバレーの起業家たちと10年後を予測するワークショップに参加する機会がありました。
 レポートの内容は、その時の議論や論考をまとめたものになります。要約すると、テクノロジーが進歩しコモディティ化が進めば、システムを組むだけでは収益を上げられなくなる。
 「顧客とよりよい関係を築くにはどうすればいいか」「会社を変えるにはどうしたらいいか」という、抽象的な問いに答えられなければ、生き残りは難しくなるというのが論旨でした。
──収益の大半をSIビジネスで得ている立場からすれば、耳の痛いレポートだったのでは?
 そう思います。「未来を見通すには、未来の視点で考えるべき」というのが議論の大前提でしたから、レポートの内容も会社に対する忖度は一切ありませんでした。SIerの本丸に携わっている人にしてみたら、刺激的な内容だったと思います。
 私自身、このままではSIerのビジネスモデルは限界を迎えると考えていました。そこで会社に提案したのがアグリゲーションビジネスです。簡単に言うと、異なる事業やサービス同士をつないで価値を生み出すビジネスモデルになります。
──当時は具体的にどのようなサービスを構想されたのですか?
 たとえば、引っ越し手続きがひとつの窓口で完結できるようなサービスです。しかし周囲に話すと「あれば確かに便利だろうが、本当にできるのか」と訝る声が大多数でした。
 いまのように便利なスマホもない時代でしたから致し方ありません。だからといって受託開発だけでは生き残れないことは明白だったので、このまま黙っていることもできなかった。
 そこで外の世界に出てアグリゲーションビジネスに挑戦したいと思い、上司に辞意を伝えたことがありました。
 率直に当時のSIビジネスに対する危機感を伝えたところ、「そこまで言うなら社内で一度挑戦してみなさい」という意外な言葉をかけられました。
 しかもしばらくしたら「来年から執行役員として、新事業部を任せたい」と言われたんです。驚きましたし、改めて面白い会社だなと思いました。
 実際、上司が約束してくれた通りアグリゲーション事業部を立ち上げることができました。ですがこの事業部はわずか1年足らずで数十億円もの赤字を出し、撤退となってしまいます。
──なぜ失敗してしまったのですか?
 早すぎたということでしょうね。社内の組織体制、新規ビジネスのマインド醸成の面、いずれも準備が足りませんでした。
 企業と企業、サービスとサービスを連携させれば、新しいビジネスが興せるという認識自体が、少し甘かったかも知れません。賛同してくださるお客様は多かったのですが、ビジネスエコシステムとして機能させるまでには至りませんでした。
──大きな挫折になったのではないですか?
 仕切り直しを決めた後、当時の島田(精一)社長から食事に誘われました。当然クビを覚悟で訪ねたら、またも意外な言葉をかけられました。
 「平岡君、優秀な経営者を育てようと思ったらそれなりのお金がかかるんです。あの程度の赤字ではまだその域に達していません。もっとチャレンジしてください」と。
 驚いたとともに痺れましたね。新たなビジネスモデルを確立するため、率先して挑戦してやろうと腹を括った瞬間でした。この経験から「成功のKPIは失敗の数である」と開き直り、失敗を許容する文化づくりを大切にしようとしたことをいまでも覚えています。

社内で一番失敗をしているのは自分だ

──そうした文化は、決して一朝一夕でできるものではありません。社内変革請負人として、どのような施策を実施しましたか?
 おっしゃる通り、どんなに綺麗な言葉で語っても、実績や事例がなければ、それは信じるに値しません。事例を増やすことで、失敗を恐れず安心して挑戦ができるようになります。
 2011年の私がまだ社長になる前、まずは前例をたくさん作ろうと、社内で毎週月曜の夕方に開く私塾を始めました。
 自称若手の30人ほどが集まり、3カ月で新しいビジネスモデルや新規事業を考えるという企画です。いい企画ができたら「私が稟議を通す」と約束して、皆でアイデアを持ち寄り討論しました。
 実際、この私塾から大小さまざまなプロジェクトを提案しましたし、失敗も少なくありませんでした。
──なかでも印象的だった失敗はありますか?
 私が主導した企画ですと、ファッションショーを開いたことがあります。
 中継を観ている視聴者にはテレビショッピング、会場にいる来場者にはガラケー経由でモデルが着用する洋服を購入してもらおうとするサービス設計だったのですが、さっぱり売れませんでした。
 SNSや画像認識が進化した現在は、オンライン上での消費活動は当たり前になりましたが、当時はそうした要素もなく大失敗に終わりました。
 他にも、コンビニに設置してある情報端末で、アイドルのファンが撮影した写真を買えるサービスを企画したのですがこちらも不発でした。
 不意打ちで撮られた写真が世の中に流通するのはマーケティング的によろしくないと、タレントサイドから断られてしまったからです。世に出たもの、出なかったものを含め、本当にたくさん失敗しました。
──失敗を重ねることで得たものとは何だったのでしょう?
 少なくとも社員の先入観を取り払うことには成功したと思います。ファッションショーまでやって失敗したのに、「社内で一番失敗をしているのは自分だ」と開き直っているわけですから(笑)。
 実際、提案の数も格段に増えましたし、参加した社員が、この私塾での学びをさまざまなフィールドで発揮してくれています。
 それに失敗したとしても何も残らないわけではなく、ソフトウェアや収益の仕組み、知恵や人脈は残ります。
 先ほどのファッションショーで得た知見は、現在のライブコマース事業に活きていますし、アイドル写真の販売で使うはずだったシステムは、アニメキャラクターやアイドルの画像配信事業に活きています。
 出すタイミングが早過ぎたなら、機が熟すまで“生け簀”に入れて泳がせておけばいい。大事なのは挑戦し続けること。そうすれば意外なタイミングで活きる場面に立ち会えるんです。
 そうした失敗経験を積み重ねながら新しい分野に挑戦し続けつつ、私たちはコンピュータ黎明期である1958年の創立以来、日本のIT産業の発展を少なからず支えてこれたのだと思います。

「デジタルコモンズ」の提供者へ

──2003年度には営業利益率が1%台だったのに対し、2020年度は8.6%にまでV字回復させています。特に2010年以降、御社の利益率は右肩上がりで増加していますね。
 2000年前半頃から、一社一社の仕様要求に基づいたシステム開発・保守だけではなく、パートナー企業やお客様と一緒にビジネスを作り上げる取り組みを増やすことで、SIビジネスの限界を乗り越えようとしてきました。
 そうした地道な取り組みの成果が、徐々に利益に反映されてきたのが2010年頃だと思います。これまでにない挑戦をしようと言い続け、幾多の失敗を経験したからこそいまがあります。
 それに当社はこの10年以上、ただ闇雲に社員数を増やすことなく、順調に利益を伸ばし続けています。これは旧来型の「人月ビジネス」とは一線を画す、業界と業界のつなぎ役である「触媒」として生産性の高いビジネスモデルを確立できているからだと自負しています。
 そしてV字回復を遂げたいま、私たちは更なる高みに挑戦したい。そのためにも、2022年4月1日付で社名変更をするという大きな決断をしました。
──決断の背景について聞かせてもらえますか?
 米国Unisys社と資本関係を解消した2006年以降も、国内では「日本ユニシス」という社名で慣れ親しんでいただきました。一方で、商標権の関係で海外では「UNISYS」の赤いロゴが使えないという制約がありました。
 社員たちの思考や発想が国内に偏ってしまっては、ビジネスの足かせになってしまいます。社会的価値を創出するために、発想の枠を外すとともに、ボーダーレスに活動したい。それが「BIPROGY(ビプロジー)」に、社名を変えた理由です。
──新社名BIPROGYの由来は?
 日本初の商用コンピュータ「UNIVAC-120」を東京証券取引所と野村證券に納入した歴史あるIT企業としての誇りは、われわれのDNAに脈々と受け継がれています。
 その想いを胸に、新社名はユニシスのユの字もない、世界で唯一無二のブランド名を掲げようと思い「BIPROGY」と名付けました。今までのイメージにとらわれることなく新たな価値を提供していきたい、という覚悟の現れでもあります。
 光が屈折・反射した時に見える、Blue、Indigo、Purple、Red、Orange、Green、Yellowの7色の頭文字を使った造語になります。7つの光は多様性の象徴であり、見通しづらい世界を照らす光でありたいという願いが込められています。
──社名変更を機に、これからどんな存在を目指しますか?
 「デジタルコモンズ」を体現する企業になりたいと思っています。
 デジタルコモンズとは、ジェレミー・リフキンさんが執筆された『限界費用ゼロ社会』や『グローバル・グリーン・ニューディール』からの知見、経済学者の中谷巌さん、評論家の寺島実郎さんや、スタンフォード大学の教授陣と1on1で議論をするなかで磨き上げた概念です。
 簡単に言うと、大量生産、大量消費の時代から、自然環境と寄り添う時代へと移行するために、社会に埋もれた潜在的な価値をデジタルテクノロジーで掘り起こし、誰もがアクセスできる公共財に昇華しようという試みです。これが実現すると、たとえば未稼働または低稼働の資産の有効活用が進み、持続可能な循環型社会へと近づくことができます。
 「コモンズ(資源の共有地)の悲劇」という経済用語があります。誰でも自由に利用できる状態にある共有資源の管理がうまくいかないと、資源が過剰に使われてしまい、回復できないほどのダメージを負うことになる現象のことです。
 牛飼いたちが共有する牧草地に飼っている牛をたくさん放てば、牛飼いの収入は上がります。しかし、すべての牛飼いがそれをやり出したらどうでしょう。あっという間に牧草地は荒れ果ててしまいます。これがコモンズの悲劇です。
 しかしデジタルテクノロジーと人類の知恵を組み合わせればコモンズの悲劇を避け、持続可能な社会が築けると考えています。
 たとえば、国内の自家用車の稼働率はわずか4%程度だと言われています。これをデジタルテクノロジーの力、サービス設計の妙によって、交通弱者のために活用できたら公共財としての価値は高まります。
 もちろんこれはモビリティだけに限った話ではなく、あらゆる分野に偏在している課題解決に活かせるはずです。
 私たちはこれまで、ビジネスエコシステムを構築する過程で知見やつながりを培ってきました。それらをフル活用して、すべての業種で変革の波を起こしたい。そして志をともにする方々と、BIPROGYの新たな歴史を創っていきたいと感じています。
 目指すのは、協業を通じてコモンズの“奇跡”を起こすこと。社会的価値と経済的価値は両立可能であることを、サービスの社会実装を通じて証明していきたいと考えています。