小山田圭吾「いじめ自慢」を生んだ「90年代サブカル“逸脱競争”の空気」
コメント
注目のコメント
私も「俺は昔はワルだった」自慢を聞かされるのはあまり得意ではないです。他愛のない範囲内であれば男性の永遠の幼稚さの側面だと思えばかわいげがあるので許容できますが…
『主として社会の主流文化の領域で上位を占めるのが難しい層の男性が「逸脱による自己顕示欲」を満たそうとするとき、その種の話がなされるのではないか』 というのは的を突いているように思いますね。
それにしても
>「いじめ被害者が懸命に書いた年賀葉書を雑誌に掲載し、しかもそれを嘲笑っていた談話」に……思わず嗚咽の声が上がった。ダメだよ、小山田……、それだけは人としてダメだ。
他の記事で知った入院時の末期癌患者の苦痛の声を嘲笑し、あまつさえ人の死んだ瞬間の機械の音を面白がる、という記事も根源が同じで、そそこにあるのはただただ「悪意の結晶」のみ。
>判断能力の未成熟な子ども時代のいじめ加害経験を反省したものではなく、26歳の社会人の時点から、当時の蛮行を自慢し面白おかしく語っている点
これもポイントでしょう。
そして、
>通常人は、暴力を行使しようとしても、弱い相手のかわいそうな姿や表情を見るとブレーキがかかる。
それは、社会的動物である人間が他者とともにコミュニティを営むことを可能とする原理でもある。
>彼のような「弱者に対して嗜虐性が煽られる」人間ばかりになったら、人間社会のコミュニティの原理が、根底から崩れてしまう
そうなのだ。
ここに感じたのは、あの大矢誠や"こげんたちゃん事件"の松原潤(※)などの歴史に残る残虐な動物虐待犯とまったく同種の悪意なのです。
まともな感性の人間なら、弱い相手の苦しんでいる姿でブレーキがかかる。
そこでアクセルを踏む人間はやはり擁護してはならない種類の人間です。
(※)こげんたちゃん事件
母猫とはぐれた子猫をゴミ捨て場で拾い、ごはんをあげて信じさせておいて、死に至る凄惨な虐待を時間をかけて行う様子を5ch(当時2ch)の生き物苦手板に 公開しつづけた残忍な虐待事件。
『Dear.こげんた この子猫を知っていますか? Kindle版』
https://amzn.to/3xVZmsg