2021/6/14
【金言】イチローの言葉に隠れた「個の時代を生き抜くヒント」
2019年3月21日、プロ野球選手としてのキャリアを終えたイチロー氏。第一線を退いて2年が経った今も、その言動には大いに注目が集まり、氏の哲学や思考法を、ビジネスに紐づけた書籍も少なくない。
我々はなぜ、イチロー氏の考え方や言葉に心打たれるのか。ビジネスパーソンにとって、どんな学びがあるのか。
中学時代に野球部のキャプテンを務め、スポーツにも造詣が深い、経営学者の入山章栄氏にイチローの言葉を分析してもらった。
トップ経営者が魅了されるイチローの思考
──イチローさんといえば言わずと知れた稀代の野球人ですが、入山さんの目にはどう映っていましたか?
入山 真っ先に思い浮かぶのは、ご本人もさることながら、これだけの個性を伸ばすメンターの重要性ですね。
イチロー選手はプロ入り3年目の1994年、オリックス・ブルーウェーブ(当時)の仰木彬監督により見出されましたよね。
当時、彼の個性的な「振り子打法」には懐疑的なコーチもいたようです。でも仰木監督はそれを矯正することなく、そのまま活かしたのは有名な話。2人の出会いがなければ、ここまで開花しなかった可能性さえあります。
イチロー選手の20代でのメジャーリーグ挑戦を容認したのも仰木監督でしたよね。
──イチローさんはMLB通算3000本安打を達成した際にも、仰木監督への感謝の言葉を口にしています。
それほどメンターは重要です。大学教員や社外取締役をしている身として、まずは稀有な才能を見出し、伸ばし続けた仰木監督に尊敬の念を禁じ得ません。
メンターのような直接指導に限らず、私たちのようなビジネスパーソンが一流のアスリートの考え方や言葉にヒントを得ることもありますよね。それは経営者も同じです。
私は日々さまざまな経営者と話をしますが、そこではスポーツ選手の話題も出ます。特にスーパースターであるイチローさんをリスペクトし、彼の思考を学びたい人は多い。
これからの時代は変化の激しい時代なので、経営者に必要なのは「答えのない中で自ら腹をくくって意思決定し、前進すること」しかありません。
そのために、優れた経営者は常に学びを求めています。学びがなくては意思決定もできないからです。
そしてトップクラスの経営者になると、もはや同業の方々から得るものは限られてくるかもしれません。そんな時に、イチローさんのような異分野の超一流ならではの視点は、新鮮に感じられるのではないでしょうか。
私がよくメディアで申し上げていることですが、これからの変化の激しい時代には、イノベーションを起こすことが不可欠です。
そのためには「知の探索」と「知の深化」をバランスよく進める「両利きの経営」が欠かせません。
既存の知から離れ、新しい知を探す「知の探索」と、既存の知を深く活用する「知の深化」。この2つをバランスよく行うのが「両利きの経営」だ
しかし人は、自分の得意な領域ばかりを深掘る「深化」に偏りがちなので、意図的に「探索」を続けねばならない。
優れた経営者が、自分とまったく違う道を極めた達人の感覚を学ぼうとするのには、このような背景があるのです。
自分に素直なリーダーが求められる時代
──入山さんにとって印象深い、現役時代のイチローさんの姿を教えてください。
一番鮮明に覚えているのは、2006年に行われた第1回ワールド・ベースボール・クラシック。
決勝戦の9回で、イチロー選手が試合を決めるヒットを打った。その姿を、ガンで入院していた父と一緒に観たのは、一生の思い出ですね。
大会の2次リーグで韓国に敗れた後の「僕の野球人生の中で最も屈辱的な日です」というイチローの言葉も、個人的にはとても印象的でした。
すごくストレートな言葉ですよね。イチローさんのコメントって、飾りがないんですよ。彼のように自分の感情をぼかしたり取り繕ったりしないのは、これからのリーダーに求められることかもしれません。
実は、このような姿勢は経営学のオーセンティック・リーダーシップ(Authentic Leadership ※)に符合します。
※自らの倫理観や価値観に基づく考え方が特徴。近年、世界のリーダーシップ研修やビジネススクールで重要視されている
これは「自分らしく振るまい、自分らしく感情表現するリーダーがこれからの時代に求められる」というリーダーシップ論です。
韓国に負けた時のイチローは、まさにオーセンティック・リーダーだったのではないでしょうか。
失敗と向き合い続けたイチローの言葉
──「もしもイチローが社長だったら」という設定で、イチローさんが40以上の質問に答えるSMBC日興証券の動画シリーズがネットで話題です。入山さんは“イチロー社長”のどんな言葉が印象に残りましたか?
そうですね……たとえば「経営者としてあるべき姿は?」という質問に対し、イチローさんは「やって見せてくれる人がいい。うまくいかないかもしれないけど、そういう姿はどんな言葉よりも強い」と答えていますよね。
また、「経営幹部候補(後継者)を育てることについて、どう考えますか?」という質問には、「自分は後継者を育てるのに向いていない」としつつ、「僕から盗んでそれをさらに昇華する人(が望ましい)」と言っています。
これらの言葉には、超一流のアスリートであるイチロー社長ならではの経営姿勢がはっきり表れている印象です。
私は、これからの時代に重要な経営理論の一つが、一橋大学の野中郁次郎先生が提唱した「知識創造モデル」だと確信しています。知の創造には「暗黙知」と「形式知」の往復が重要であるとする理論です。
人や組織は言語化できない「暗黙知」の塊。それは一流のスポーツ選手も同様です。
イチローさんがなぜあのようなスイングであそこまでヒットが打てるのか。「暗黙知」として体に染み込んでいても、それを言語化した「形式知」として伝えるのは非常に難しい。イチローさんご自身も当然、それをわかっておられる。
──なるほど。だから、「教える」ではなく「やって見せる」や「見て盗む」という考え方につながる、と。
イチロー社長の言葉でおもしろいのは、全体的にかなりシビアに物事を見ている点ですね。世の中の厳しさや失敗を前提とした回答が多いように感じます。
こうした思考の傾向はイチローさんの選手時代の経験に基づいているのでしょうね。
──つまり、イチローさん自身が失敗を糧に成長してきたということでしょうか?
はい。だって野球では、どんなにいいバッターでもせいぜい打率3割じゃないですか。
ということは、あのイチロー選手だって、実は失敗のほうがはるかに多い。途方もない数の失敗と向き合って、そこから彼がどんな思考を得たのか。すごく興味深いですよね。
もしビジネスの世界で「自分は7割失敗します」となったら大変です(笑)。でも実は、ビジネスの世界もこれからは同じなんですよ。
安定していた時代とは違って、どの企業も新しいことにチャレンジしなければならない。にもかかわらず、新規事業やスタートアップで成功するのはほんの一握りです。
つまり、これからのビジネスパーソンや起業家のほとんどは“負けを経験する”ことになる。
株式上場にまで至ったようなスタートアップ経営者でも、実際には想像を絶するような失敗や敗北、ハードシングスを乗り越えてきているはずです。
だとしたら、成功のためのレシピを学ぶ以上に、「いかに失敗と向き合うか」が重要です。その達人とも言えるイチローさんから学べることは、多いのではないでしょうか。
──確かにイチロー社長の動画でも、自身のメンタルをこまやかにケアし、コントロールしてきたことが窺える言葉がありました。
たとえば「モチベーションを上げる方法は?」という質問に、イチロー社長は「上げる方法はなかった。状態がよくない時に、下げないようにしていた」と答えています。
これはシビれますね。すべてのビジネスパーソンにとって金言だと思います。
不確実性の高い現代こそ、イチローの言葉がヒントになる
──前人未到の記録を打ち立ててきたイチローさんですが、その言葉は広くビジネスパーソンにとっても参考になる、物事の本質を突いた内容です。
本当にそうですね。これからは雇用の流動化が進み、誰もが組織に所属しながらも、一人ひとりがプロフェッショナルとして生きていくことを求められる。
そんな時代に、我々はどういう心構えでいるべきか。イチローさんの言葉が大きなヒントになると思います。
私も弱小チームとはいえ中学時代に野球をやっていたので実感があるのですが、野球はチームスポーツといわれながらも、実際には個人競技の側面も強いのです。
ピッチャーはマウンドで孤独にボールを投げ、バッターは孤独にスイングする。その瞬間、チームメイトは誰も助けてくれません。
すなわち野球は、“強い個が求められるチームスポーツ”。まさに一人ひとりにプロフェッショナリズムが求められるビジネスの世界と似ていますよね。そしてイチローさんはそんな世界で、誰よりも個の力を示し続けてきたわけです。
イチロー社長の言葉も、よく見れば“個”や“人”を尊重するものが多い。
たとえば、「社員にはどのようにお給料を使ってほしいですか?」と問われ、「まず自分に投資してほしい」と答えています。
また、「社長になったら必ず成し遂げたいことは?」という質問には「人を残したい。僕の会社がなくなったとしても、そこで働いていた人たちが独立して遺伝子を受け継いでくれたらいい」と回答している。
組織ではなく、完全に“個”にフォーカスしていますよね。イチローさんの経験から来る美学が垣間見えて、非常におもしろいです。
──個で勝負できる力を養う。どれだけ安定した企業に勤めていても、それは変わりませんか?
当然です。この不確実性の高い時代に、イチローさんの言葉をまったく理解できないなんて人はいないんじゃないでしょうか。
それこそイチロー社長ではありませんが、私はこれからのビジネスパーソンには、一人ひとりに“社長としての意識”が必要だと考えています。
それはつまり、誰もが“自分のキャリアの社長”である、ということです。そんなマインドセットを持てた時に、イチローさんの言葉は、さらに我々の心に響くのではないでしょうか。
執筆:榎並紀行(やじろべえ)
撮影:吉田和生
デザイン:小鈴キリカ
編集:中道薫