バッハ会長「犠牲」発言、IOC否定「日本にではない」
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sacrificeと言う言葉に過剰に反応している人多いようですが、文脈からしてもこの部分は、「IOCなど開催する側」が通常の業務や責任範囲を超えて犠牲的精神で実現に向けた努力が必要な局面(そこまで強くすらないかもだけどあえて語彙や方向性を明確にすれば)だと言う意味で、開催国の国民を犠牲にしてもと言うことではないですね。そもそもこんなスーパーポリティックスの極致を生き抜いてきた人が、そんな単純なセンシティブな言葉遣いのミスを犯すはずもなく…。
とはいえオリンピックを準備している中の人視点では、ここまで準備してきたことを今更無に戻せるかと言うのもよくわかるものの(本当に大変だとは思う)、それは個人事業主や多くの企業や「不要不急」とされている仕事に関わる社会全般に当てはまることで、社会の一部には有無を言わさぬ破滅的な犠牲を強いながら、自分たち(オリンピック主催側)だけは本丸での犠牲は拒絶するという強硬姿勢は、感情的に受け入れがたいものがあるのも現実だと思う。最近その帰りが明確に大きくなりすぎている感覚はある。
今回のsacrificeについても、この社会的な非常事態を乗り切るため既に「生活の糧をあきらめる犠牲」を強いられている社会により一層の犠牲を強いることをを前提に、内部の「目的達成のための犠牲」を臆面もなく発言してしまうことへの怒りが、形を変えて出ているものなんだとも感じます。犠牲と言う言葉の直接的な対象は日本社会ではないけれど、結果的に自分たちの領域だけは死守するという独善的な姿勢自体はより浮き彫りになったという。
僕は個人的に必ずしも中止にすべきとは思わないし、十分な対策と合理的な方針がしっかり示されれば、開催は相応の価値も持ち得るとは考えているのだけれど、聖火リレー然り、市民には集まるなと言っておきながら公園を潰してパブリックビューイング会場を大々的に用意している件然り、とにかく相反する内容を十分な説明も方針の開示もなく、ただ黙って強引に、ブルドーザーのように推し進める姿勢は受け入れられないと強く感じます。ファクトや目的、効果の共有と納得共有への努力がとにかく根本的に足りていない。
いずれにしても、IOCやJOC、政府や東京都の姿勢に賛同するかは別として、言葉尻ベースの曲解はよくない。冷静なファクトベースの議論を(双方に)。たとえ、「犠牲」という発言が日本に向けられてなくても、とても不快な発言であることは間違いないです。私はそう感じました。
何かの犠牲の上に成り立っているオリンピックってなんなのでしょうか。なぜ犠牲を払ってまでもオリンピックを開催しなければならないのでしょうか。
IOC関係者の発言から、何か日本のアイデンティティが無視されているような感覚すら覚え始めています。
前のコメントにも書きましたが、バッハ氏しかり、コーツ氏しかり、国民感情を逆なでするような舐めた発言をされていますが、それに抗えない日本政府に情けなさと悔しさに愕然としています。競技団体総会でのインサイダー向けの発言ですよね?
普通だったら人類皆兄弟的な「我々」って発言しないと思うんですが。。広めにとってIOCと他競技含めた国際競技連盟、それらの傘下諸組織のスタッフ・幹部くらいかな?
皆さん沸点低すぎのようですが、自分の方がずれてんのかと最近ちょっとだけ心配になります(笑