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なぜ無敵だった元の大軍が敗れたのか(PHPオンライン衆知(Voice))

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    侵略戦争としては失敗した歴史なのだろうけれど、亡命した渡来人が流れ着いた後に集落を形成し群をなし、勢力を拡大していく事はある。
    関東でも相模湾近くから埼玉の日高市に至る関東台地の山間部との境のエリアでは、かつて高句麗からの渡来人が群を置き、渡来人による地方豪族として基盤を為していた。今でもその勢力分布として高麗(こま)の地名が点在している。

    何故関東の平野部ではなく山間部との境目に分布しているかは、江戸の開拓以前の関東は河川氾濫による沼沢も幅広く存在し、東西の移動には舟で河を超えなければならなかった。地盤の安定した山間部寄りに古道が存在したと考えられる。また朝廷がそれまで駿河上総エリアに点在していた渡来人を移動させて716年に高麗郡が設置され(今の埼玉県日高市の西側と飯能市の北東部)、その後拡大してその周辺エリアがそれに属する。
    666年には既に天智天皇に貢ぎ物をしたとされるが、この頃日本はまだ大化の改新直後の飛鳥時代。


    高麗王若光は軍力を持って朝廷と対立する事はなく、朝廷によく仕えたとされるが、それより以前の時代、まだ朝廷の形も整う以前の時代。亡命渡来人による地方勢力が群を成し後に力を蓄えて他の豪族などと争ったことはあり得るのではないだろうか。
    またそれらが騎馬勢力、または騎馬兵力を扱う文化背景を持っていたという可能性はある。


    そもそも古代において朝廷の勢力が拡大する以前の日本の範囲は、もっと曖昧なもので、後世から見た日本の国境は古代にはまだ意味を持たないのだろう。


    高麗郡:wiki
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/高麗郡


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