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3.11当日、福島で被災しました。
当時企業再生ファンドにおり、その投資先が福島にあり経営チームとして現地入りした直後のことでした。
震災から数日間、原発付近の避難区域は、事態の深刻度と同調するように、3km、10km、20km、…と次々と拡大していきました。
自分がいた会津は原発から95km。まだ余裕はあったものの当時は放射線が迫ってくる錯覚に陥っていました。思い返せば、自分はその危機感を足元の震災対応に集中することで、精神の均衡を保っていた気もします。勇ましさのかけらもなく内心は戦慄していました。
自分はバス・タクシー・旅行代理店をマネジメントしていたのですが、旅行はすべてキャンセル。手数料なしで払い戻し。
高速バスが走る高速道路は、緊急車両しか通れず、収支のめどがつかず。市内を走るタクシーは震災の影響で電話は一時的に不通。
そして何より燃料不足が深刻で、バスが走れるタイムリミットも迫る。
思い返せばその時の自分にあったのは「会社を救うために、あるいは福島に貢献するために何としてもやってやる」という勇ましい思いでは決してなく、「今この状況にある自分にはもはや逃げ出す選択も、やらない選択もない。消去法的には腹をくくってやるしかない」という何ともいえない悲壮感だったように思います。
周囲の仲間の平常心である様子に感銘を受け、一方の自分は平静を装いながらも逃げ出したい情けない気持ちも少なからずあり、そんな葛藤の中で必死にジタバタしながら仕事をしていました。
その3年後、そのジタバタ感が粘り?に通じたのか、再生を果たしたその企業は、今はIGPIグループのみちのりHDG傘下となり更に磨きがかかっています。
それから更に7年。
最近すっかりその当事者としての感覚が薄れている自分にも気づきます。
改めて思うのは、当事者になるのと、当事者である(あり続ける)のは、大きな飛躍があること。
自分が当事者になったのは偶然でも、そこを離れた後に、当事者でい続けること、コミットし続けることは本当に難しい。
ただ考えてみると、そんな当事者感というか、それを取り巻く自分の人間観や仕事観を作ってくれたのは、3.11を通じた身体感覚であることは間違いない。
言い換えると常に自分の中に福島での身体感覚は確かにあるわけで、その感覚を改めて今日は自覚し、10年間の福島に思いを馳せたいです。
注目のコメント
震災10年。復興10年。もう10年なのかまだ10年なのか。
石巻出身の私は帰るたびに逞しく変化している故郷の姿に励まされている。ただ石巻の人口は2万人も減り、市の中心も内陸へ移動。海沿いの街は未だ更地のまま、海岸線も変化、海と川と共に生きてきた故郷の姿は大いに変貌を遂げました。まだまだ復興途上。
そんな故郷に何ができるか模索し続けた10年。祈り続けた10年。
震災翌月の4月、なんとか助かった親戚に物資を届けに行った時に見た光景は忘れられません。そこで住み、暮らしを立て直し、次世代に向けた取り組みをする人々の努力はいかばかりかと。
実家はすでにないけれど、友人たちもほとんど残っていないけれど毎年「ただいま」を言いに帰る場所です。
忘れずに、そこを訪れること、続けていきたいです。
震災10年の今年小学校からの友人が直後から立ち上げた石巻日々こども新聞が吉川英治文化賞を受賞。コツコツ続けてきた次世代育成の活動が評価されて嬉しいニュースでした。
https://kodomokisha.net/私は宮城県名取市出身です。10年前、小学校の体育館でバスケットボールをしていました。地震が起きて校庭に避難。校長は帰宅指示をしました。そして海沿いの家へ帰った学生はそのまま津波に流されてしまいました。私の家は津波が庭まで来ましたが幸い何もありませんでした。
次の日、道端のあちこちに洗濯機や車、靴やランドセルが落ちていた光景を今でも覚えています。数日後音楽室で生徒だけで行った卒業式にて、親を亡くした同級生が変わらない立ち振る舞いをしていた姿が小学生ながらとても心苦しかったです。
10年経ち大学4年になりました。間もなく社会人になります。10年という節目で注目されていますが今後は風化がより強まるでしょう。その中で自分ができることはこの出来事を忘れず、当時見た光景と恐ろしさを周りに伝えていくことだと考えています。震災当時、就活で仙台にいて多賀城市で津波に流されましたが、第一波で逃れたので運よく助かりました。
地震があった3分間は本当に長く感じて、揺れている時に「まだ死にたくない」という思いしかありませんでした。
震災後は、私が住んでいた地域は水道が2週間止まり、電気が1ヶ月止まり、改めて当たり前の生活に感謝する気持ちが強くなりました。
あれから10年、振り返ってみて自分の生死を分けたのは運もありますが、この行動があったからだと思っています。
・日頃から地震があったらどんな行動をとるか家族で共有する
海沿いに住んでいたこともあり、日頃から地震があったらどうするという会話が日常茶飯事でされていました。
そのため、震災の際もパニック陥ることなく行動ができました。
・家族の位置情報は事前に把握する
家族がどこにいて、何をしているのかを把握していたので連絡する際に、誰に最初に連絡するべきか冷静に判断して行動できました。
・安全な場所に避難したら、可能な限り情報収集をする
当時、ウォークマンを持っていたので揺れが収まり安全な場所に避難したら直ぐにラジオで情報収集をして、何処に津波がきているかを把握して家族に連絡することができました。
情報収集の際、スマホは連絡手段として残すために使用しないようにしてました。
・自分の身は自分で守る
私自身、震災当時母が家族の中で一番海沿いに近いので、とりあえず合流しようとして津波に流されました。
亡くなった人でも、助けに行こうとして津波にのまれた人が多くいます。
なので、まずは自分の身は自分で守るのが大切だと思いました。
・奪い合うのではなく、分け合う心を持つ
震災後に、私の住んでいた地域では近くのスーパーが無償で食糧を配給したり、バイト先から食糧をもらったりなど、独り占めするのではなく皆んなで困難を乗り越えようとする人が多くいたので本当に救われました。