「自分の頭で考えろ」とみんないうけれど

2021/3/10
知る人ぞ知る日本人研究者が、フランス・パリにいる。
小坂井敏晶、パリ第八大学心理学准教授。
多作家ではないが、どの著作も社会の本質を突く内容で、読者に衝撃を与える。2013年に出版された『社会心理学講義』(筑摩書房)は、出口治明氏が「この数年で最高のビジネス書」と絶賛するほどであった。
「NewsPicks NewSchool」では、2021年4月から「『問い』と『対話』で思考を深める アウトプット読書ゼミ」を開講し、その『社会心理学講義』を読むことを通して、「答えのない問い」に向き合う。
講座開講にあたり、著者である小坂井氏に2時間にわたるロングインタビューを敢行。語られることが少なかった氏の半生に、本講座のプロジェクトリーダー・岩佐文夫氏が素朴な疑問をぶつけた。

「自分の頭で考えろ」なんて、言う必要がない

岩佐 小坂井先生、…。
小坂井 「先生」はやめましょう。先生なんて呼んでいたら、対等にお話しできません。
岩佐 そうですか。それでは、小坂井さん、とお呼びします。
早速ですが、本講座のひとつのテーマでもある「自分の頭で考えること」からお話を始めたいと思います。
小坂井 よく言われますね、「自分の頭で考えろ」と。私も、とある予備校で講演を依頼されて「自分の頭で考えること」について話したことがあります。
そのときに「自分の頭で考える大切さはよくわかりました。では、どうしたら自分の頭で考えられるのですか。教えて下さい」という質問が出て、会場全体が大笑いでした。
岩佐 (笑)。
小坂井 そもそも、なぜ自分の頭で考える必要があるのでしょうか?
解きたい問題がある。しかし、1人で考えていてもわからない。だから本を読む。質問して答えてくれそうな人が近くにいれば、本を読む前に尋ねるでしょう。
解かずにはいられない問題があるから、おのずと考え始めて“しまう”のです。解かねばならない問いがない人は、自分の頭で考える必要なんてないと思います。
それに、好きなことを一生懸命やっている人は、どんなことをしていても自分の頭で考えていますよ。隣の人の頭なんか使えないし、猫の頭を借りられるはずもありません。
だから、そもそも自分の頭を使うっていう表現がおかしいわけですね。よくよく聞いてみると「自分の頭を使って考えろ」というのは、「周りに影響されるな」という意味で使われるようです。
すると「特に日本人は画一的で周りに流されやすいから」と言う人が出てくる。でもね、フランスだってそうだし、どこの国に行っても「周りに影響されるな!」「自分だけの答えを持て!」と言われるんですよ。
そもそも、周りに影響されないなんてことは不可能なのですけどね。人間が都合よく生きるためのインチキな固定観念が、この世界には溢れているのです。
岩佐 なるほど。そう言われると、表現としておかしいですね。
小坂井 もうひとつ、「どうしたら創造的になれるか」とよく聞かれるんです。
でも、私は創造的なことなんてひとつも書いてないんですよ。本当に。
そう聞いてくる人は、プラトンが2000年以上前に書いていることを、プラトンの名前を伏せて私が書いてみせたら「小坂井、すごいな!」と言うんですね。
私は先人たちの知恵を借りているだけです。

読者のために文章を書いているのではない

岩佐 新しいことを書いているつもりはないのですね。では、小坂井さんはなぜ本を書くのでしょうか?
小坂井 まず、そもそも本など書かなくて済むならば、書かない方がいいと思っています。
それでも私が書くのは、「自分の問題を解決するため」です。
いいアイデアを思いついたり、他人の問題を解決する方法を見つけて、それを読者と共有したくなったから書くわけではない。
自分の問題と言っても、明確な問題ばかりではありません。でも何か気になってしまうことに対して、その問題の輪郭を掴みながら、それを解消しようと格闘しながら書くんです。
岩佐 ご自身の問題と闘っている、と。
小坂井 (講座の題材となる)『社会心理学講義』という本は、書くのに10年ほどかかったんです。しかし、それは書くのが大変だったからじゃない。
いいアイデアも思いついて、書く材料もそろっていた。ただ、求められている内容と私の問題意識が全然結びつかなかった。
これだと書くモチベーションが湧いてこないんですよ。
私は読者のために研究しているわけではないし、読者のために書いているわけでもありません。そもそも、読者の問題を解決しようとも、解決できるとも思っていない。
私は、自分の問題で精一杯なんです。
『社会心理学講義』は、最終的に自分の問題意識とつながったから書き切れましたけど、なかなか乗り気になれませんでしたね。

研究するのは「自分自身を理解するため」

岩佐 「自分の問い」がないと、書き始められないわけですね。
小坂井 もちろん、昔から考えられてきた大きな問いはたくさんあります。だけど、なんでもいいわけではない。
私が通っていたパリの社会科学高等研究院に入るためには、研究計画書を出す必要があったので、私はそれを3つ作ったんです。
1つは「貧困な国で失業が生じ、移民が先進国に流れるプロセス」というテーマで、2つめは「移民がフランス社会で生きる様子を経済的・社会的・心理的に探る」というもの。
そして3つ目が「『名誉白人』 西洋人に対して日本人が抱く劣等感」と題する異文化受容研究です。
それらの計画書を友人に見せて意見を求めたら、1つ目や2つ目のテーマに関して「他の学者の借り物にすぎない。お前はどこにいるのだ」「魂の入っていない研究には価値がない」「フランス人の差別意識よりも、日本人の朝鮮人差別となぜ向き合わないのか」と叱咤されたんですよ。
「ああ、そのとおりだな」と思いましたね。
3つ目のテーマだけは、西洋に憧れる日本人の問題であり、日本人なのにフランスで学んでいる自分の問題だった。だから最終的にこれに照準を定めました。
そして、自分の問題だからこそ、辛抱強く向き合うことができた。
私は「自分自身を理解するため」に研究しているのです。
岩佐 なるほど。では、社会心理学を専攻されるようになったのは、自分自身を理解したいという思いからなのでしょうか?
小坂井 専攻は、社会心理学でもなんでもよかったんです。研究計画書を持って事務所に行って「どの先生についたらいいですか?」と聞いたら、「これは社会心理学じゃないの?」と言われました。
社会心理学という分野を聞いたことがなかったのですが、「へー、社会学と心理学を同時に勉強できるんだ。いいな」と思って専攻したんです。だからたまたまです。
そもそも私の通っていた学校が、試験もなければ授業もないという変な学校ですから、自分の好きなことしかやっていませんでしたね。
今も仕事上、社会心理学の教員となっていますが、あまり気にしたことはありません。自然科学や科学認識論などの関係なさそうなことも、知りたいと思ったら勉強しています。

客観視するという、至難の業

岩佐 「自分を理解するために研究している」とおっしゃいました。ぼくも日々、もっと自分を理解したいと思うんです。
一方で、自分のことを考えるのが「私」である以上、自分を客観的に捉えるのは難しいですよね。自分を理解することと、人間を理解することは違うのでしょうか?
小坂井 そうですね。そもそも、自分や人間などといった社会的なものを捉えるのはとても難しいんです。
自然科学の場合は対象と距離がありますよね。
ニュートン力学にしろ、離れた物体が引き合うといった引力にしろ、我々の常識に反した変なことを言っているわけですよ。15世紀頃に生きていて「地球が太陽の周りを回っている」なんて考えていたら、おかしな人だと思われます。
でも、変なことを言ってもそれで困ることはないんです。
自然科学は対象との距離が取れているから、どんな変なことでも「へー、そんなもんかい」で済んでしまう。
けれども、たとえば「あなたは殺人鬼である」とか「あの人は強姦魔である」と言われたら、ウソでも困るわけですよね?
岩佐 困ります。
小坂井 社会科学や人文学が扱う問題の場合、自分と対象を切っても切り離せないので、客観視するのが難しいのです。
ちなみにですが、客観性は中立性とは異なります。本の中でも「客観性の追求は、主観性の絶え間ない相対化の努力に支えられる」と書きました。
私たちはいつでも歴史や文化の枠組みに囚われていて、その思考枠から抜け出すことができない。自分の価値観を崩すこともそう簡単にはできないし、普遍的な価値の存在を捨て切ることも難しいのです。
だからこそ、世の中に「べき論」が蔓延るわけですよね。
岩佐 「べき論」、ですか。

「べき論」は、雨乞いの踊りにすぎない

小坂井 私は『答えのない世界を生きる』で、以下のように書きました。
世には「べき論」が氾濫する。だが、それらは人間の現実から目を背けて祈りを捧げているだけだ。集団現象を胎動させる真の原因は、それを生む人間自身に隠蔽され、代わりに虚構が捏造される。

「べき論」は雨乞いの踊りにすぎない。しかし、それでも我々は「べき論」を語り続ける。それは愚痴を垂れてストレスを発散するのと変わらない。

「社会を少しでも良くしたいから、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学を学ぶ」

この素朴な善意の背景には無知や傲慢あるいは偽善が隠れている。それをまず自覚しなければ、何も始まらない。
人間の世界は人間の手を離れて動いている。世界は人間の意図に沿って進行しない。
これは何度も拙著に書いてきたことです。それにもかかわらず、世界をコントロールしようと足掻こうとする人が後を絶たない。
カジノでサイコロに息を吹きかけ、良い目が出ろと念じる。乗客の半分が死亡する航空機事故が起き、家族の名が生存者リストにありますようにと手を合わせる。事態はすでに確定しており、今更何をしようと変わらない。
それでも我々は祈る。未来だけでなく、過去さえもねじ曲げようと呪文を唱える。
これらと「べき論」には、なんの違いもありません。「べき論」は、雨乞いの踊りにすぎないということです。
岩佐 耳が痛いお話です。いまだに僕は小坂井さんの本を誤読しているようです。
小坂井 加えて『増補 責任という虚構』の補考には、なぜ多くの哲学者が「べき論」を語ってしまうかについて書きました。
哲学者は誰よりも考える訓練をしていて、その能力があるはずですよね。ところが、人間とか社会を考える場合はやっぱりダメなんですね。
彼らは、近代の思考枠に取り込まれてしまっている。
自由とか平等とか責任とか、そういった普遍的なものがあるという前提で話を進めようとする。より普遍的なものとか、よりよい社会の像を求めるもんだから、対象と距離を取れずに本質を掴めないでいるのです。
あるはずのない「普遍的な価値」から距離をとって人間や社会を捉えられるようになるには、相当な訓練が必要になります。

苦しみながらも、現実を受け入れる

岩佐 難しいですね…。人間や社会を理解するためには、自分の生活を支えている常識的な価値観や、普遍を求める主義主張を捨てないといけないのですね?
小坂井 そうですね。言うのは簡単なんですけど、実際はとても難しく、そして苦しいことです。だから、本当は泣きながらやることなんですね。
私は名誉白人の研究をしていましたが、もともと左翼少年だったということもあって、支配に対して批判的な考えを持っていたわけです。
なぜ非白人は白人の真似をするか。それは支配されているからだ。支配されているから影響を受ける。非白人や少数派は犠牲者だ。そう思い込んでいました。
ただ、それだと日本の西洋化さえ説明できないんです。なぜ一度も植民地になったことのない日本が、これほどまでに西洋の影響を受けているのか。詳しくは『社会心理学講義』に書いていますが、日本の西洋化を説明できないということは、この支配理論に欠陥があるということなのです。
ぼくが師事したセルジュ・モスコヴィッシという人が、少数派影響理論という理論を提唱しています。多数派が少数派を影響すると思われていたけど、少数派も多数派を強く影響するんだと言うわけですよ。
それを聞いたとき「モスコヴィッシは世界に支配があることをごまかそうとしている」と思ったんです。おそらく当時の私には何か許せないものがあったのでしょう。彼に食ってかかったこともあった。
岩佐 受け入れられない現実だったのですね。
小坂井 でも、あれこれ必死に論争したり、いろいろ経験する中で徐々にわかってくるんです。
自分は間違っているんだ、と。
私はアルジェリアという国にも住んでいたことがあるのですが、アルジェリアは130年間フランスの植民地として支配されていて。だから、アルジェリアの人々は自由とか平等を求めるんです。
でもね、彼らも彼らで、同じような支配関係をアルジェリアの中でつくっていたんですよ。
結局、みんな自由とか平等って言うのだけど、それは実はウソだった。本当は、「自分は上に行きたい」と言っているだけなんですね。
権威に反発していた当時の私には、自分のアイデンティティを崩されるような感覚があって、そういった事実を受け入れるのが辛かった。
自分の問題と向き合うというのは、苦しいことなんです。

自分の中の「矛盾」と共存する

岩佐 小坂井さんは、苦しみの末に一度自分の信念を捨てることができた、と。
一方で、その小坂井さんでも、また新たに自分の信念、主張を持つことはあると思います。そういう自分の信念とどのように付き合っているのでしょうか?
小坂井 良い質問ですね。これまで私が述べたことは、いわゆる相対主義です。あらゆる価値を相対化することによって、絶対的なものに囚われない考え方です。
美人の基準を考えてください。顔をどれだけ眺めても美しさの理由はわからない。美しさゆえに美人と呼ばれるのではないからです。
善悪の基準も同じです。悪い行為だから非難されるのではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれるのです。
真理だから受け入れるのではない。共同体に受け入れられた価値観だから真理に見えるんです。
普遍的だと“信じられる”価値は、どの時代にも生まれます。しかし時代とともに変遷する以上、普遍的価値ではありえません。
相対主義とは、そういう意味です。
ただそれは、何をしても良いということではない。悪と映る行為に我々は怒り、悲しみ、罰する。裁きの必要と相対主義は何ら矛盾しない。
岩佐 何かを判断するような価値観は、普遍的で絶対的なものではありえない。
小坂井 ただ、そのような価値観を持ってしまうことは、人間として仕方のないことだと思います。
私たちは特定の社会の中で、特定の歴史や文化に制限されて生きていますから、それらの要素を完全に除いてしまったら、考えることはおろか、生きること自体成立しません。
だから、偏りあるイデオロギーを持つ自分と、それを俯瞰して相対的に見ている自分が、両方とも存在していいのです。
左翼少年として支配に抗いながらも、研究者として支配の現実を認める。もちろん内容は矛盾しているけども、それでいいと思います。
再度哲学者の話ですが、彼らは相対主義を嫌うんですね。すべてを相対化してしまったら、ヒトラーもスターリンも間違っていたと言えないじゃないか、と。
でもね、ヒトラーやスターリンが悪いか否かなんて、私たちの価値観の中の話なんですよ。自分の価値観の範疇で、悪いと思うのなら悪いと言えばいいし、それ以上のことではないのです。
それを踏まえた上で、いかに自分のイデオロギーと距離を置けるか。
もう一度言いますが「客観性の追求は、主観性の絶え間ない相対化の努力に支えられる」のです。
自分の思考枠を絶えず崩していこうとする、ある種の運動みたいなものですね。

個人の意見に優劣は、ない

岩佐 そうなると、小坂井さんがある問題についての考えを聞かれたときは、どのように答えるのでしょうか? 研究者としての考えと、一個人としての意見があると思うのですが。
小坂井 おおかた研究者としての考えしか言わないと思います。
ただもちろん、私の一個人としての意見を言うこともある。しかし、それは総理大臣の個人的な意見とも、1人の子どもの意見とも同列のもので、そこに価値の優劣はないと思っています。
『答えのない世界を生きる』という本は、自伝のような部分もあるので私個人の考えを書いています。なので「こんなもの書くな!」「小坂井のばかやろう!」と言ってくる人もいましたね。
岩佐 なるほど(笑)。それは、単純に書き分けているということなのでしょうか?
小坂井 そうですね…。でも、やはり自分の中で絶えず喧嘩しているのだと思います、研究者としての自分と個人としての自分が。
私の書いているものを時系列で読んでいただくと、らせんを描きながらどこかに向かって進んでいるような気がすると思うんです。
自分の中の矛盾が推進力になって、少しずつ両者を変化させながら本を書いているのでしょう。

意志という虚構

岩佐 ありがとうございます。もう少し『社会心理学講義』の内容にも入っていきたいと思うのですが、この本の中で小坂井さんは「意志は虚構である」と述べていました。
このような意志と、願望や欲求は別のものなのでしょうか?
小坂井 まず「意志が虚構だ」と言うと、多くの人は「人間が周囲の影響を受けているから、意志は完全に自由であることはできない」といったように捉える。
でもそうではない。
私の立場では「意志は存在しない」のです。
岩佐 意志は存在しない、ですか。
小坂井 じゃあ意志とは何なのかというと、意志とは「行為の原因を人間に帰属するために用いられる、人間が作り出した架空の概念」なんですね。後付けの解釈であり、社会現象とも言えます。
本の中ではベンジャミン・リベットの実験をもとに詳しく説明しましたが、近代社会の人間は行動の原因として意志を持ち出す。
しかし、行動と意志は「まったく関係がない」。
人間が行動するまでには、まず脳が無意識のうちに行動の指令を出し、その後並行して「行動」と「その行動をしようという考え」が生まれてくるわけです。
受け入れ難いかもしれませんが、そもそも行為の原因となる意志なんてものは存在せず、私たちは無意識のうちに行動しているのです。
でも、それだと近代社会ではいろいろ不都合が出てくる。
近代は、「意志」を根拠に行為の「責任」を個人に帰属させて、処罰を与えるわけですから。意志は、処罰や格差を正当化するための架空の装置にすぎません。
もちろん根拠となる「意志」が虚構ですから、「責任」もまた虚構です。
岩佐 虚構ばかりですね。
小坂井 ただ願望とか欲求はあるんですよ。でも、それは決して行為を導くものではありません。
タバコを吸っている人が、吸うのをやめたいなと思う。これは願望ですが、やめるわけではありませんよね。
願望や欲求は行為とは無縁のものであるし、もっと言えば、願望や欲求は遺伝・環境・偶然という外因が生むものであって、決して内因ではあり得ません。
岩佐 でも、欲求のままに行動することもあれば、欲求を制御することもありますよね?
小坂井 これも「制御しようと思うこと」と、「制御したこと」とは関係がないのです。制御したのは外部の影響を受けた脳であって、後から「制御しようと思った」だけです。不思議なことかもしれませんが。
岩佐 脳が制御しただけ、ですか。
では、もうひとつ。僕は、前々から小坂井さんにインタビューをしたいと思っていました。ただ、なかなか一歩を踏み出せなくて、今回重大「決意」をして取材を申し込んだんです。
これも脳による無意識の行為でしょうか?
小坂井 それも、岩佐さんが重大決意をしたわけではありません。外因によって脳が信号を出して無意識の内に行動し、後から「重大決意をした」と思っているだけ。
いろいろ状況が重なって、たまたま今回取材することになったのだと思いますよ。
岩佐 ああ…。言われてみれば、そうかもしれません。

納得できれば、それでいい

小坂井 岩佐さんは、なぜそんなことに興味があるのでしょう?
岩佐 僕は自分のことをもっと知りたいのだと思います。
自分がやってきたこと、やりたいと思うことに一貫性がない。「あのときなぜそう思ったのだろう」とか「なんであんなことしたんだろう」とか。思い返すと不思議なことばかりなんですよね。
小坂井 一貫性があると思う人も、ないと思う人も、実際は大した違いがないと思います。あとから一連の行動に理屈を付けるか付けないかだけです。
結局は個人がどう捉えるかなので、自分で納得できればそれでいいと私は思います。納得もインチキですから。
岩佐 納得もインチキですか。ウソの理由でも納得できればいいのですかね。
小坂井 ウソだと思ったら信じられませんから、自分をごまかさないといけません。
簡単に自分を騙せることで幸せに生きている人もいるし、なかなか騙せなくて苦しんでいるひともいる。難しいものです。
まあでも、そんなことを考えているうちに、どうせ人間は死んでしまいますからね。死んでしまったら、納得も何も関係ないですから。
岩佐 なるほど…。でも死ぬのは怖いですね、やっぱり。
小坂井 そうですか? 私は痛みを伴うのは嫌ですが、死ぬのはあまり怖くないですよ。
岩佐 昔からですか?
小坂井 あるとき、わかったんです。一人称の死は存在しない、と。
死んだときにはもう自分はいないわけですから、自分が死んだことなんてわからない。だから自分の死を恐れるって本当はおかしいんですよ。
もちろん、周りの人は悲しむかもしれませんけどね。
昔、90歳くらいの知り合いのおばあさんが、毎朝起きると「あ、また起きちゃった」って言っていたんです。死んでいればいつまでも永久に寝ているわけでしょ。
一人称の死って、それくらいのことなのではないでしょうか。
岩佐 そう考えたことはありませんでした。また考えることが増えました(笑)。
今日は貴重な時間を割いてくださりありがとうございました。まだ聞きたいことが出てきそうです。その際はお付き合いをいただければ幸いです。
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(取材・執筆:山﨑隼、写真:本人提供、デザイン:九喜洋介)