【宮台真司】閉塞した社会で「幸福」を思考する(前編)

2020/12/24
 JTがこれまでにない視点や考え方を活かし、さまざまなパートナーと社会課題に向き合うために発足させた「Rethink PROJECT」。

 NewsPicksが「Rethink」という考え方やその必要性に共感したことから、Rethink PROJECTとNewsPicksがまさにパートナーとしてタッグを組み、ネット配信番組「Rethink Japan」をスタート。

「Rethink Japan」は、これからの世の中のあり方を考え直していく番組です。

 世界が大きな変化を迎えているいま、歴史や叡智を起点に、私たちが直面する問題を新しい視点で捉えなおします。

 全6回の放送を通して、文化・アート・政治・哲学などといった各業界の専門家をお招きし、世の中の根底を “Rethink” していく様子をお届けします。

宮台真司 × 波頭亮 日本の思想を再考する

 Rethink Japan、第5回は「日本の思想」をテーマに、東京都立大学教授、社会学者の宮台真司さんをゲストに迎えてお届け。
 モデレーターは、佐々木紀彦(NewsPicks CCO/NewsPicks Studios CEO)と、経営コンサルタント・波頭亮さん。
 波頭さんが初回から投げかけてきた社会や思想への問題意識を元に、現代社会の閉塞感を徹底的に語り合った今回の収録。白熱した議論は、初期ギリシャの思考からテック革命後の未来まで、かつてない広がりをみせた。

宮台真司が師事した、廣松渉と小室直樹

佐々木 私たちが現在、そして未来に直面する様々な問題を未来のためにもう一度掘り起こす番組、Rethink Japan、スタートです。Rethink Japan ナビゲーターの経営コンサルタントの波頭亮さんです。波頭さん、よろしくお願いします。
波頭 よろしくお願いします。
佐々木 今日は日本の社会学者として有名な宮台真司さんと、日本の思想についてRethinkしていくという大きなテーマなんですが、波頭さんは日本の思想といったとき、どんな問題意識をお持ちでしょうか。
波頭 思想はね、まさに、良し悪しはいろいろあるけれども、20世紀後期のフランスの現代哲学で、面白いけれども粒が小さくなっていった流れ、ありますよね。そこから先、粒が小さいなと思ってるのをもう一回、マックス・ウェーバーとかマルクスとかハイデガーとか、哲学の原論をちゃんと扱ってたときを振り返っていって、それを現代に適応して今どのような状況にあるのかっていうのを宮台さんに語っていただければ。
 私も、いくつか問題意識があってね。今、すごくいろんな意味で、思想的だけではなくてもっとプラクティカルに、プラグマティカルに、人が幸せになるための世の中が実現できてるかっていうと本当に閉塞してると思うの。
 この20年、資本はどんどん巨大になっていって、お金だけは、数字の上では膨らんでるのに、日本の我々の生活を見てて、何がどれだけ豊かになってるかっていうと、止まってる感がある。だからその辺、こういう状況を思想的にどう見てるのかっていう、振り返ってみながら、現代をどう解釈するのかっていうことを宮台さんにご意見聞きたいなと思って、楽しみにしています。
佐々木 はい。それでは早速、ご紹介したいと思います。社会学者の宮台真司さんです。どうぞ。宮台さんお久しぶりです。
宮台 お久しぶりです。
波頭 宮台さんにお会いしたら聞きたかったのはね、廣松渉さんと小室直樹さんがお師匠さんっていう風に言われてるんだけど、その二人をご承知の方もいるかもわかんないけど、左翼のボスと右翼のボスみたいな両極の大物。で、その二人に師事するのって、どういうことなんだろう。
宮台 粋に感じたからということに尽きます。このお二人は、かたや極左、かたや極右という話になっていますが、僕に言わせると、廣松渉はアジア主義者です。
 岡倉天心以降「東洋vs.西洋」の対立を「美vs.力」「武vs.徳」等と描き出して受け継いできたんですが、それを廣松は「関係主義vs.アトミズム」と定め直したのだと思っています。東洋vs.西洋があからさま過ぎるのを避けるべく、「西洋近代思想の枠の中での」関係主義の元祖がマルクス主義なので、マルクス主義者を名乗ったという見立てです。
 実際、廣松に影響を与えていたのはマルクスよりハイデガーです。ハイデガーは、日本の京都学派つまり世界史の哲学が参照した、主意主義的な全体志向を擁護する右翼哲学と言えるものです。その直前のリッケルトという、社会学者ヴェーバーも影響を受けた新カント派の学者と、彼と同時代に活躍したマッハという哲学者兼、物理学者の影響も受けています。廣松は大学に入るまでマッハの影響で物理学志望でした。
 繰り返すと、マルクス主義は僕に言わせるとカムフラージュです。この見解を南京大学廣松渉著作集刊行記念シンポジウム(1996年・岩波書店主催)で話したら、元ブントで戦旗派の荒泰介が観客席で立ち上がって激昂したんだけど、直ぐに廣松さんの奥様が立ち上がって「廣松の口癖は尊皇攘夷でした」とおっしゃり、一秒で決着したという仰天の実話があります(笑)。ちなみに奥様からはよく手紙を貰っていました。
 いちばん好きなエピソードは、廣松が福岡県では修猷館の次に有名な伝習館高校に通っていて、両方ともアジア主義者を輩出してきたんだけど、そこを放校処分になってるんですね。伝説としては「セクト運動で」ってことになってるんだけれど、聞いてみたらヤクザとの出入りだったという(笑)。実際、酔っ払うとヤクザ言葉になりますしね。
波頭 はっはっ(笑)。
宮台 それで僕はめちゃめちゃ気に入っちゃって。まあ小室先生にも似たような逸話が満載で。それでお二人が大好きになりました。

「主知主義 vs. 主意主義」の対立が続いた理由

宮台 お二人の共通要素を言うと、英語の voluntarism を主意主義って訳してるんですね。非常に voluntaristic なんです。主意主義は、 intellectualism の訳である主知主義の対立概念です。
 19世紀のプロテスタント神学者シュライエルマッハの思考では、主意主義が右で、主知主義が左です。つまり、資本主義に賛成するのが右で、資本主義を否定して再配分を志向するのが左だというのは、完全な間違いなんです。だって石原莞爾も北一輝も、資本主義否定してたじゃないですか。
 でも右なんですよ。なぜか。戦後の無教養を横に置くと、左=主知主義は「システムがちゃんとすれば」「制度がちゃんとすれば」「社会がちゃんとすれば」人は幸せになるっていう条件プログラム=if-then文で、真なる if-then 文を集めるのが幸せへの道だというのに対し、右=主意主義は、「社会がちゃんとしても」人は幸せになるとは限らないどころか、社会に依存すれば幸せになれないとするからです。
 だったら北一輝や国柱会メンバーの石原莞爾や重藤千秋や宮沢賢治が右翼なのは、当然です。
 シュライエルマッハはスコラの弁神論 theodecy ──神が絶対者ならばなぜ世界に悪が存在するか──から説きます。主知主義は人から見た悪も「神の計画」だとしますが、主意主義は神が絶対なので何にも縛られずに意志するからだとします。主知主義は世界は合理的だと考えるけど、主意主義は世界は端的にデタラメだとします。主意主義では、人は神の似姿だから、その幸せは if-then 文では書けないわけです。
 ここで皆さん分かっていただきたいことを、予告篇として言うと、システムがちゃんとすると、人はシステムに依存するようになる結果、弱者が困った時にも人を頼らなくなるし、周囲の人には弱者を助けようという意欲もなくなってしまうということ。それでいいのか、ということですね。
宮台 つまり、システム依存が過ぎると──僕は汎システム化 pan-systemization と呼ぶけど──人がバラバラになって人倫の世界(価値観をベースにした人間関係の界隈)が終わる。皆さんがそれを直感しているのかどうかが全てのポイントです。今の日本は、そうした直感さえ訪れない「劣化したオツムとココロ」を持つ人が増殖しているけれど、哲学の古典を弁えていればそうした頓馬(とんま)はあり得ない。
波頭 うん。ちょっと視聴者のために、解読しておくとね。システムと個あるいは言い換えれば、システムと個人の心っていう二つの捉え方ってね、今日は鉄の檻の話からしようかってことで、そこに繋がってくるんだけど(笑)。
宮台 繋がります。マックス・ヴェーバーは19世紀末から活躍した社会学者だけど、後半生は同時代人ニーチェの強い影響を受けて、僕の言葉で言うと初期ギリシャ的な「力の流れの思想家」になったんですよ。「鉄の檻」というのはその力が失われた状態のことを言っています。後でもう少し噛み砕きますね。
 僕が使う「クソ社会」という言葉は、ヴェーバーの「鉄の檻」の言い換えです。「クソ社会」の中には、僕の言葉では「クズ」がウヨウヨいますが、この「クズ」はヴェーバーの「没主体」の言い換えです。ではヴェーバーは何をどう考えたのか。ざっくり言います。
 近代化とは合理化です。合理化とは計算可能化です。計算可能化すると、予測可能性が上がって複雑な社会を営めます。それで、いろんなところに資本を流し込めて経済も発展します。だから、政治界隈の役所だけでなく経済界隈の会社にも教育界隈の学校にも広い意味でのビューロクラシー(行政官僚制)が拡がる。それなくして複雑な近代はあり得ません。
 ところがヴェーバーはその副作用をちゃんと考えた。計算可能性の中でのみ振る舞う「沒主体=クズ」──言葉の自動機械/法の奴隷/損得マシーン──が拡がる。すると二つの困難が生じる。第一に、クズの中から皆のために働く政治家たりうる人材が生まれるのか。第二に、そうした人材が出てきたとき、人々が民主的に政治家として選べるのか。その二つについてヴェーバーは深く絶望していた。
 後でも言うけど、これは社会の「鉄の檻=クソ社会」化の必然的帰結です。「言葉の自動機械/法の奴隷/損得マシーン」であるのをやめると路頭に迷う状態が「鉄の檻」です。だから人々は「クズ」になる他なく、「クズ」が営む「クソ社会」には永久に出口がなく、「クズ」と「クソ社会」が互いに支え合う循環がずっと続くと予想したということなんですね。
波頭 計算可能性と、それの具体的な制度、システムとしての官僚制っていうのって、実は19世紀から20世紀前半の、進歩と生産性の向上を推進した最大の原動力なんだ。それを、実は計算可能性と官僚制にあるっていうのをまさに喝破(かっぱ)して、で、それでいくと危ないよってところまで言えてたのが天才的だよね。
宮台 天才ですね。
波頭 天才。
宮台 ヴェーバーの物差しで、今の僕らが置かれている状況の全体を、原因から将来に渡ってまで記述できる。彼はこの「ヴェーバー予想」の上で処方箋のありかを模索していた。彼は答えを出せたかどうか疑問だけれど、そもそも困難すぎる問題です。
 その困難を認識させてくれるのが、ニーチェを通じてギリシャにまで遡れる問題の根深さです。じゃあどういう根っこか。
 答えは、社会が条件プログラムに覆われたこと。初期ギリシャの思考は、紀元前6世紀のセム族の思考──絶対神信仰──を嘲笑します。セム族──ギリシャ人はエジプトと呼ぶ──は「悪いことが起こるのは、神の言葉に逆らったから」「神の言葉に従えば、いいことが起こる」とする。まさに if-then 文=条件プログラムです。主知主義の出発点はヤハウェ信仰です。これをギリシャ人は徹底的に軽蔑したんですよ。
「世界はそもそもデタラメなので、神に這いつくばったところで何も生じねえぞ。これは弱者を奴隷にする思想じゃねえか」とギリシャの人々は考えたわけです。それを19世紀末に反復して皆さんに知らせたのが、フリードリヒ・ニーチェっていう人でした。古代ギリシャ文献学者ニーチェは、初期ギリシャの復興を企てたというわけです。
波頭 ニーチェだね。
宮台 だからニーチェと30年後の同じく古代ギリシャ文献学者ハイデガーの思考は、紀元前5世紀ギリシャに由来する。じゃあ、ギリシャは対抗して何を考えたのか。まさに「不条理なれども我ゆかん」です。「将来いいことが御褒美で訪れるから、いいことをする」のではない。「世界はそもそもデタラメであり、端的にいいことをしたいから、するのだ」と。そう、実はこれ、イエスの教説そのものなんですよ。
 福音書の「サマリヤ人の喩」を見ると、戒律に従うといいことがあるから戒律に従って人を助ける者は、「クズ」。現に誰も感染しない(隣人にしたくない)。困っている人がいたら思わず体と心が動くような存在だけに、神は関心を持ち、現に人が感染する。だから人はイエスに感染する。これはギリシャ的思考伝統です。現にイエス言行録である共観福音書はコイネーギリシャ語です。
 むろん後先を考えて「リスクやコストを下げて期待利得を最大化しよう」とする発想がない限り、文明=大規模定住社会は回りません。つまり複雑な社会は回りません。そんなことはギリシャ人もニーチェもヴェーバーも百も承知です。
 しかし、人間が条件プログラムに〈閉ざされて〉しまったら、もはや人間の名に値しない。だからヴェーバーが「没人格」と名指す。そこにアンチノミー(二律背反)がある。
波頭 要するに、今の流れの中で、神様に従うだけっていうのは主体性がないし、「クズ」だっていうのは、神の代わりに利得になったっていうことだからね。
宮台 そうです。
波頭 利得のためには、自分の我とか感情とか、まさに自分の意識、欲望も含めてだけど、利得に支配されたら「クズ」だぞっていう、そのメッセージだからね。
宮台 これは文明に必然的なアンチノミーです。だから現に主知主義vs.主意主義の対立が──ニーチェ&ハイデガー以降の「近代哲学vs.現代哲学」等として──今まで続いたわけです。ただ、昨今、必ずしも哲学史をベースにしてもいないのに、同じ問題意識が浮上してきています。特にAIを研究する数理系に顕著です。興味がある人もいると思うので紹介しましょう。

現代に浮上する ontology 問題

宮台 2018年に数学者の新井紀子さんが『AIvs.教科書を読めない子どもたち』を書き、続けて2019年に数理生物学者の郡司ペギオ幸夫さんが『天然知能』を書いた。二人のメッセージはよく似ています。
 郡司さんの言葉を使うと、演繹的 deductive な知能──彼は「人工知能」と呼ぶ──はAIに置換できます。帰納的 inductive な知能──彼は「自然知能」と呼ぶ──ビッグデータと機械学習に置き換え可能です。
 ここに新井さんを入れると、AIに置換可能な人工知能と自然知能しか持たない存在は、AIに置き換えられるし、置き換えたほうがいい。なぜなら、人々が合理性を志向する限り、最大のノイズは人間だからです。システムが完全に回るのは、人間を消去した時だという。ならば、とっとと消去しちゃえ(笑)。
宮台 それが東ロボ(ロボットは東大に合格できるか)プロジェクトの意味だと彼女は言う。僕の言葉で言えば、「感情が劣化した人間は、どんどんロボットに置き換えて、路頭に迷わせろ」ってこと。
 で、迷ったヤツらを救うのがフィンランドやドイツで実証実験が始まったベーシックインカム。「生活保護より行政官僚制を経由しないBIを」みたいな竹中平蔵=ミルトン・フリードマン的な陳腐な構想とは文脈が違う。
波頭 はっはっはっ(笑)。今のでいうとね、人間がものをわかる方法って、今、宮台さんが言われた演繹的 deductive と、帰納的 inductive と、もう一個あるんだよ。abductive っていうのがあってね。閃きなんだよ abductive って。で、この abduction の能力こそが、人間の人間たる所以だっていう風な時代になってきている。
宮台 それをおっしゃったのが郡司ぺギオ幸夫さん。彼は abduction にさらに要素を加えて「天然知能」って呼んだわけです。数理生物学的には「フレーム問題への回答」という結構重大な問題があって。今日のAI設計者の言葉でいえば「ontology 問題(世界はそもそもどうなっているか問題)」です。
 人工知能と自然知能を駆使するAIを考えると、AIはデータをどんどん学習できても、懐疑主義者が言う「100匹目のカラス問題」──99羽までのカラスが黒くても100匹目が白いかもしれない──があるので、世界はそもそもどうなっているのか、ontology を確信できない。だから何かをする時、あれが起こるかも、これが起こるかもと永久に調べて、一歩も動けなくなるというのがフレーム問題でした。
 でも、皆さん動けるんだよね(笑)。だから人間の知能はそういう風にできていないってこと。それどころか、これは人口学的に1割を占めるASD(autism spectrum disorder、自閉症スペクトラム)の知能にも関係する。
 皆が「危ないからやめとけ」って言う時、「危ないのか、だったら俺はいくぜ」って奴が1割いることで、集団的生存確率が上がり、それで個体的生存確率が上がったという。
波頭 だって、本当の意味での弱者だったら、淘汰されているはずだもんね。ASDもADHDもね。そういう特異値込みで、人類の発展と自立があったわけだからね。だけどそういう人たちの資質や力に対してどんどん見直しがでてきているっていうのは、いいことだよね。
宮台 そうです。凄くいい。実は僕もADHD込みのASDだけど(両方が並存しやすいというのが最新学説)、実はそういう人、芸能の人にも多いし、僕が知る限りでは起業した人たちにも有意に多いでしょう。
佐々木 明らかに多いですよね。シリコンバレーとか。
宮台 ですね。僕は、高校のとき、父親に「お前はサラリーマン無理だから、サラリーマンにならない方法考えとけ」って言われましたから。そういう人がシリコンバレーで働いているんですよね(笑)。

ウェーバーとハイデガーによる思考で現代の閉塞感は説明できる

波頭 そういう風な、今、ものを認知するっていう感じの功利的な世の中の成り立ちの解釈を語ってくださっていたけど、現代の閉塞をどうご覧になっています? 何が原因でこうなっていると思います?
宮台 ヴェーバーの図式を使うと、合理化が進む。するとシステム依存が進む。すると「我々が道具としてシステムを使って」いたのが、「システムが我々を道具として使う」フェイズに相転移する。挙げ句は「人間はノイズなんで外そうよ」って話にやがて必ずなる。この「ヴェーバーの予想」を僕は「汎システム化のテーゼ」と勝手に呼んでいるけれど、閉塞感は、第一にそれで説明できます。
 僕らは世界の主役ではないと感じている。自分のポジションもステータスも誰かと置き換え可能だと思える。なので不安になる。不安なので「資格だー!」とか「日本すげー!」とか、全体も数値も無視したデタラメな吹き上がりを示す。
 これって「不安を埋め合わせたがる神経症」でしょう。「不安を埋め合わせたがる神経症」図式はヴェーバー理解のキモです。ヴェーバー自身ひどい神経症だったのも重要なことです。
 神経症と言えば同時代人フロイト。「不安な人はそれを埋め合わせようとして無意味な反復行為をする」という彼の神経症図式と同じものを、実はヴェーバーも使っている。
 例えば『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で語られる「カルヴァンの二重予定説」仮説。「いいことをしたから救え」というヴェーバーが言う「神強制」を否定、「神は取り引きしない。救いと破滅は世界創造時に神が決めている」と。
宮台 クリスチャンとして言うと「サマリヤ人の喩」で話した通り「神強制」の否定は当然として、「二重予定説」はカルト的に突飛です(笑)。それを横に置くと、ヴェーバーによれば、だから自分が救済リストに載っているか不安なので、証が得たくて、神に calling(召命)された職業の、成功こそが救いの証だとして、神経症的に労働反復し、資本主義ができあがった。まさに神経症の枠組みです。
 それじゃ終わらない。神経症的な労働反復で資本主義のシステムが順調に回るようになると、それから外れると食えなくて死んじゃうから、今度は「自分はシステムから外れるんじゃないか」という不安ゆえに、「プロテスタントの勤労倫理」とは無関係に、進んでシステムの奴隷になる、とヴェーバーは言います。
 この「不安ベースの損得奴隷」へと閉ざされるのが、閉塞感の第二の説明です。
 第一の図式をハイデガーで補足すると、ヴェーバーの活動から20年ほど遅れて、第2次大戦後の彼が技術論を展開する。技術とは負担免除です。平たく言うと、どうすれば近道できるかという「安心・便利・快適」志向を支援する道具複合体。
 だから、道具が発達するほど余剰時間が増え、社会が豊かになり、加えて人が自由で幸せになっていきそうです。でもそれが間違いだというのがナチ翼賛を反省した彼の見解です。
 反省は「人間中心主義の非人間性」=「脱人間中心主義の人間性」の形をとる。彼はこう言う。技術は人間次第だと人は思うだろう。だが、昔のきこりと今のきこりは違う。昔は自給自足のために伐採技術を使った。今のきこりは製材業者に卸すために技術を使う。製材業者は加工してパルプ業者に卸すために技術を使う。パルプ業者は加工して出版社に紙を卸すために技術を使う。それを逆方向から見ればどうか。
 結局、技術の体系によるゲシュテル(駆り立て)の連鎖があるだけ。人間が主体だというのは錯覚。主体は技術の体系の方だ。素晴らしい思考です。「総駆り立て論」と呼ばれます。
 明らかにヴェーバーの「鉄の檻論=汎システム化テーゼ」の延長線上にあるけど、「駆り立て」って言葉を使ったのが凄い。「徴用」とか「徴発」とも訳されますが、実にインプレッシヴ。かくてヴェーバーとハイデガーによる20世紀前半の思考を合わせると、閉塞感の全てが説明できる。思想はこんなにも発見的です。
波頭 今のことを補足するとね、ヴェーバーの働くってところを起点に語られたけど、仕事っていうのはやっぱりシステムで変わったの。まだ、こんなに資本主義が強大じゃなかったときに、ヘーゲルが言ったね、仕事っていうのは自己の社会化であって、それは自分の貢献であり、価値実現であって、すごく良きこと。だから自分自身、仕事をすることは社会の一員になるための外化っていう表現してたんだよね。
 で、これがね、システムが強大になって、資本がこんなに上から睥睨(へいげい)するようになってでてきたマルクスの時代って、「働く」を宮台さんの表現で言うと、それのシステムの奴隷になって、労働からの疎外になってるんだよね。
 だから働くってことが、外化ってヘーゲルが捉えたときには良きことだったのが、疎外になって、実は自分をなくすことになったっていうね。
宮台 皆さんご存知のように19世紀への境目が産業革命の転機。ロンドンが大都市になった頃。イギリスは工場労働が主体になり、ナポレオン戦争が終わった後は多くの場所で工場労働がメインになります。
 それまでは働くのは自営業者と地主と農民だったのが、工場労働者がいて資本家がいるという初めての形態が出現した。そこにはロックやヘーゲルの「内的本質の外化としての労働」なんてない。あるのは搾取だと言ったのがマルクスとエンゲルスです。
波頭 資本が出てきてね、資本主義っていう。だから資本主義があったから、例えば一人当たりGDPなんてたった100年で何十倍にも上がったっていう意味では、まさにさっきのテクノロジーとして、うまく社会的には機能したけど、それが人間をさ、分けちゃったんだよね。収奪する方と、される方とね。
 で、そこに着目して対決したのがマルクスだった。で、そこで両方を見て、さらに普遍化したのがマックス・ヴェーバーっていう、そういう流れだね。
宮台 だから、マルクスとヴェーバーとハイデガーを串刺しにして共通点を見ると、「内的本質や類的本質の外化からの疎外」図式を含めて、我々は「内から湧き上がる力= virtue(inherence 内発性)」を奪われ、「言葉と法と損得」に専ら繋がれるようになる歴史が、19世紀初頭からの歴史だよという。僕らにとってこの200年そうだったわけ。
 三島由紀夫や初期の柳田国男が憧憬したけれど、定住以前の遊動段階の人間ないし大規模定住以前の初期定住段階の人間は、もっと力に満ちていた。「条件プログラムなんてどうでもいい! 助けたいから助けるんだ!」という初期ギリシャ的存在だった。
 だから、柳田も三島もギリシャに執着した。ニーチェによれば「力に満ちた人間=超人」。スーパーマンって意味じゃない。「釣られなくったって内から力が湧くぜ」と。
佐々木 それを言いますと、日本的な家族主義の会社っていうのはある種不合理なところいっぱいあったじゃないですか。それっていうのは疎外とかっていうことへの防波堤になっている面もあったんですか。
宮台 それはあります。ファミリービジネスの凄い重要なところは、合理的か合理的じゃないかっていうのとは別の尺度があること。「これが先祖代々のウチの仕事の仕方なの。それを知らねえヤツが横から非合理だとか何とかグダグダ言ってくんじゃねーよ」っていう。
 むろん今日的にはそれが逆にブランディングとして機能したり、従業員の誇りや所属感に繋がって忠誠心が上がるといった合理性も見直されているけど。

性愛からの退却、資本の増大がすすむ現代

宮台 やっぱり人間は、ヴェーバーやマルクスが考えた通り、合理性の内側だけで生きることに不安を抱く存在なんですよ。だって、自分より合理的な存在がいるに決まっているし、挙げ句はAIで置き換えるのとがいちばん合理的じゃんってなるからです。
 そうじゃなく、abductionとか天然知能的な部分を評価してもらわないと、人間は幸せになれない。実は祝祭と性愛がそういう界隈だったんです。
宮台 と思っていたら、今はもっと状況が進んでね。例えば過去20年〜25年ほど性愛からの退却が凄く進んでいる。大学生女子の性体験率は半減。最新のデータだと20代前半男子の半数近くが童貞(25年前の平均初交年齢19歳)。
 若い人にリサーチして「なぜ恋愛しないの?」と尋ねると「コストパフォーマンス悪いですから」とか「リスクマネジメントできませんから」と、ビジネスマインド用語を出してくる。
 本当に「クズ」だと思いませんか? 社会にとっては祝祭、人にとっては性愛こそが「クソ社会」化にもかからず最後に残った「外」なのにね。「こいつら即死したほうがいいな」って思うくらい(笑)。
 でも彼らが悪いんじゃないんです。そういう風に育っちゃった。Abduction や天然知能を、遺伝子的な潜在可能性はあるのに、発揮できないように手懐けられちゃった。システムにテイム(馴致)されているんです。
波頭 それこそさっきのね、佐々木さん自身が「いや家族経営だと、いろいろ不合理もあって」って。そこでいう合理ってさ、さっきの資本合理性なんだよね。資本合理性、あるいは経済合理性の話であって、そこをこう、目を瞑るかわりに他の合理性、あるいはより大事なものがあったって、考えられるわけ。
 ソ連が崩壊して以降、あるいは中国が社会主義市場経済みたいな、まさに市場経済的に動き出していくと世の中どうなってるかというとね、方法論的にはね、思想的には保守主義がレフトから保守主義へっていう転換があり、ケインズ主義から新自由主義へっていう経済の方法論が圧倒的に、日本もアメリカもだけど、新自由主義的なグローバリズムベースの市場メカニズム万能主義の経済をずーっとやって、この30年くらいどんどん経済は豊かになってきた。世界GDP成長率も3-4%できてるよね。最近下がってきたけどね。
 でね、思想的には、レフトから保守へ。だからライトへっていうよりは保守への転換が来て、で、それでずっと来てるんだけど。それでよく考えてみたら、保守ってさ、大事にするものって文化とか歴史とかあるいは思想的にはナショナリズムに近かったりする話と、グローバリズム、効率、徹底的な自由っていうのって、根っこのところで矛盾してるんだよね。
 でも、根っこのところで矛盾してることをやり続けてることによって、何が見えなくなってるかっていうと、この格差の問題なんだよね。格差がここまで広がってきて。
 だから格差が発生するのは自由主義的に、もうしょうがないっていう風にやっちゃうけど本当は、家族だったり文化だったりコミュニティだったり大事にする保守主義だったら、救ってあげなきゃっていう。でも救ってあげるのはそれはレフトだって言って否定されてきて、その挙げ句、資本だけがこんな増大して、権力とお金とが一体化した。

保守主義とネオリベラリズム

宮台 しかし全体がすごく面倒くさく結びついているので、小手先では変えられません。まず、保守主義が消えてネオリベが跋扈し始めたのが1980年代。僕は映画批評家や音楽批評家でもあるけれど、映画表現や音楽表現を見ているだけで、間違いなく1980年代に保守主義がネオリベへと置き換わったのが分かります。保守主義とネオリベはどう違うか?
 保守主義は「記憶の思想」です。記憶の中にある良きものを保とうとする。それを僕は、ネオリベのような「経済保守」や、反共のような「政治保守」や、中絶反対みたいな「宗教保守」を含めたインチキ保守全体と区別して、「社会保守」と呼ぶ。
 実はネオリベみたいな市場原理主義は「記憶喪失」によるものです。だからネオリベは「思想」というより「よきものの共通記憶から見放された人々の自然な立場」です。「よきものの共通記憶」をシェアできなくなった汎システム化の必然的な分泌物なんです。
宮台 共同的な記憶喪失の象徴的な事例を話します。僕が「社会という荒野を仲間と生きろ」と言うと、若い人たちがよく「どうやれば友達が作れますか」と質問してくる。この質問を最初に聞いた時は絶句した。「困っているヤツを助けたら自動的に友達になってるじゃん」って。そんなことも分かんねえクズなの? みたいな。
 それが今の若い人たちの9割だと考えていい。彼らは、保守主義を名乗ろうにも、conserve(保守)するべき commons(共有財)を知らないわけ。実に御粗末。
 すると「勝ち組になりたい」とか「負け組は嫌だ」とか浅ましくサモシイ根性で「過去を閉ざされ、未来にだけ開かれて」生きるようになる。僕の言葉だと「未来へと閉ざされる」。そういうクズは「閉ざされた未来=鉄の檻の中で、死ぬまで戦って孤独死しろ」。それが現実です。
 ネオリベは、御粗末な現実をもたらした原因ではなく、よきものを記憶できなくなった汎システム化の帰結に過ぎない。汎システム化が原因で、ネオリベのような非思想的な構えが増殖し、それが今日の格差社会をもたらした。
 このクズたちは何もシェアできない連中だから──だからクズと呼ぶんですが──、自分は苦しいって言えないわけです。
「お前、負け組じゃん」って言われると思うと何もシェアできなくなるじゃん? そこには gentlification(環境浄化)による blimia(過剰包摂)があって、昔と違ってブルーカラーはブルーカラーに見えないし、地方出身者は地方出身者に見えないので、自分だけが負け組に思えるわけです。
波頭 はいはい。
宮台 つまり、全てが自意識の問題になっちゃうわけ。「恥ずかしいな、言わないでおこう」とかね。ことほどさように、昔ならば当たり前に生じたはずの弱者の連帯は、もう永久に生じません。アメリカや日本の相対的貧困率を見てみてください。
 こんなに格差が拡がっても、底辺の人たちの連帯からの政治が変わる可能性を全く展望できなくなっているのは、そうした構造的な原因があります。
波頭 「はいはい、なんでもかんでもその通り」っていう流れだと面白くないんで、敢えて言うとね、今、宮台さんが言われたのって、保守主義がネオリベに変わったっていう表現で説明されたけど、僕はね、思想的に保守主義で、経済政策でネオリベがきてると思ってる。
 だから、トランプで Make America Great Again ってもう本当に保守主義の典型的なキャッチフレーズ。で、安倍政権のときって「美しき国日本」でこれって本当保守主義の典型的なキャッチフレーズで、でもやってることは、経済政策的にはネオリベ。
 で、そこに、根っこのところでネオリベっていうのは経済的には家族的なものを解体する。でもキャッチフレーズとしてはそういう保守的なものをみんなが選ぶ。
 で、何が問題か。そういう矛盾に気づかずに、自分はどんどんどんどん消費税だったり給料だったりっていうところの経済政策で、苦しくなっていってる一般国民が、その政策をやっているにも関わらず保守主義のキャッチフレーズの政権を選び続けるっていうね。
宮台 そう。
波頭 だからその自己矛盾を解決しないと、なんともならないと思う。
宮台 その「自己矛盾」は敢えてするもので、僕は戦略的マッチポンプだと思っています。Make America Great Again も「美しい日本」も、保守主義=社会保守のメッセージではない。
 ネオリベの成果として生まれた格差化と貧困化で人々が痛みを感じているところに、オピオイド(痛み止め)を処方してやると宣言する。「昔はあんなに凄かったじゃないか」っていう風に、ネオリベが壊したものを、壊れたがゆえに吹聴することで、ポピュリズムを駆動するっていうね。
 政党とか宗教団体の名前挙げないけれど(むろん公明党と創価学会のこと)、僕は昔から「都市宗教的マッチポンプ」って呼んでいます。
 そうした都市宗教が政策に影響力を持ってネオリベを増幅させて、疎外される人が増えることで、都市宗教の入信者って増えるっていうマッチポンプ。そういう非常に狡猾なマッチポンプが、ネオリベが吹聴する保守的メッセージにはあります。
波頭 それ気づけよって思っているのが僕のメッセージなの。それでいうとね、宮台さんが時々過激に煽る表現で「もう本当にお前らクズだ」っていうのがあるけど、クズっていう単語が良いかどうかはわかんないけど、やっぱりもうちょっと、もの考えたり、もの読んだりしないと、どんどんその代償としてますます自分の人生詰むんだよって。
 詰まざるを得ない社会を選択しているの、君らのその怠惰なんだよっていうのを伝えたいんだよね。
記事は後編へ続きます。
 Rethink PROJECT (https://rethink-pjt.jp)

 視点を変えれば、世の中は変わる。

 私たちは「Rethink」をキーワードに、これまでにない視点や考え方を活かして、パートナーのみなさまと「新しい明日」をともに創りあげるために社会課題と向き合うプロジェクトです。

「Rethink」は2020年7月より全6話シリーズ毎月1回配信。

 世の中を新しい視点で捉え直す、各業界のビジネスリーダーを招いたNewsPicksオリジナル番組「Rethink Japan」。

 NewsPicksアプリにて無料配信中。

 視聴はこちらから。