2020/8/4

アスリートの慢性疲労に学ぶ「心身の臨界点」

木崎 伸也
スポーツライター

「追い込み」がもたらす負のサイクル

長期間にわたって、限界ギリギリまで自分を追い込む──。
スポーツの世界で勝者になるために不可欠な行為だ。成長への願いを燃やして練習に取り組み、新たな自分を探し続ける。
しかし、ときに人並み外れた向上心が、アクセルとブレーキのバランスを狂わせてしまうときがある。
回復が十分でないうちに次の負荷をかけることが慢性化すると、疲労が抜けづらくなる。すると結果が出づらいため、さらに練習量を増やしてしまう。この負のサイクルが進むと、どこかで心身の限界が訪れる。
この過度なトレーニングによる慢性疲労状態は、「オーバートレーニング症候群」と呼ばれている。
症状は人によってさまざまだ。
安静時心拍数の上昇、高血圧、体重減少、原因不明の筋肉痛、不眠、食欲低下、集中力の低下、モチベーションの喪失。すぐに息があがり、一般の人よりも体力が落ちてしまう場合もある。
甲状腺疾患やうつ病など他の病気と似た症状があるため、診断は簡単ではない。他の病気の可能性を1つずつ除外していき、ようやくオーバートレーニング症候群と診断される。
スイスのある調査によると、エリートアスリートの9%がキャリア中にこのオーバートレーニング症候群を体験する、というデータもある。
オープンに語りづらい雰囲気があり、相談できずに悩んでいるアスリートもいると聞く。
この症状を乗り越えた選手のひとりが、サッカー日本代表GKの権田修一だ。
16歳からFC東京のトップチームに帯同し、09年に19歳でJリーグにデビュー。翌年1月に日本代表入り。2012年ロンドン五輪で4位になり、2014年ブラジルW杯でもメンバー入りを果たした。187cmという恵まれた体格とインテリジェンスを持ち合わせ、誰もが羨むキャリアを歩んできた。
そんな最中の2015年、オーバートレーニング症候群の診断を受けたのだ。
あれから5年──。権田はどんな風景を見てきたのだろう。
権田修一(ごんだ・しゅういち)現サッカー日本代表GK、ポルトガル1部のポルティモネンセSC所属。19歳でJリーグにデビュー。翌年1月に日本代表入り。以降断続的に日本代表に召集される。15年7月、26歳でオーバートレーニング症候群と診断され、約半年間試合に出られず、引退の危機にさらされた。だが、海外挑戦を通して這い上がり、現在は日本代表にも復帰。2019年1月のアジアカップでは正GKとして準優勝に貢献した。

ひとつの病名でくくることの是非

──本題に入る前にまず教えて欲しいのですが、オーバートレーニング症候群を経験した選手の視点からファンやメディアに理解されづらいと思うことはありますか?
権田修一(以下、権田) まず大前提として、個人ごとにそれぞれ悩み方は違うと思うんですね。だから「選手の視点」とおっしゃりましたが、「選手」でくくるべきではないと思うんです。
同じ選手でも、僕と他の選手では、サッカーに向き合うのが辛くなってしまう理由はきっと違う。最後の決定打、トリガーは人それぞれだと思うんですね。
──なるほど。
権田 矛盾するようですが、くくってもらうと楽になる部分もあります。
たとえば、オーバートレーニング症候群は一種のうつ病って言っていいと思うんですよ。専門家からするとオーバートレーニング症候群とうつ病は違うかもしれないんですが、感覚としてはほぼ同じだと思う。
だからオーバートレーニング症候群というくくりで書かれると、「スポーツ選手特有の症状なんだな」という感じで受け取られ、少しマイルドな印象になる。選手が守られるんです。
でも、「オーバートレーニング症候群は、みんな同じ症状なんでしょ?」みたいに思われてはいけないと思います。
風邪にも喉やお腹の風邪があるように、オーバートレーニング症候群もそれぞれ。これをやれば治るという治療法はない。注意深く原因を見ていかないと、逆にその選手を苦しめることになる。
09年にドイツ代表のGKだったロベルト・エンケさんが自殺してしまいました。ドイツではうつ病と診断されていたそうですが、より深く悩んでいたと思うんです。全員が同じ症状だと思ってはいけないと思います。
──オーバートレーニング症候群になった2015年当時は、どのような状態だったのでしょうか。
権田 本気でサッカーを辞めようと思ってました。
直前の14年ブラジルW杯に帯同していましたが、自分の中ではまったく納得していませんでした。
試合に使ってもらえなかったことに納得いかなかったんじゃなくて、自分が日本代表に入っていることに納得いかなかった。
正直、「俺、まだ日本代表に入っちゃダメなレベルでしょ」と思っていたんです。
僕がFC東京でプロデビューしたのはプロ3年目だったんですが、ポジションを自分で勝ち取ったわけじゃなかった。正GKの塩田仁史選手が体調を崩して、それで出場し始めたんです。
結局、城福浩監督(当時)が1年間通して使ってくれて、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で優勝できて、はたから見たら「いい1年じゃん」と思われるかもしれません。
でも、感覚はそれほどポジティブではなかった。僕のせいで勝ち点を相当に落としているんですよ。結果的にFC東京は5位でしたが、僕がもっと良ければ、絶対ACLに行けたと思います。
納得いかなくて、そのシーズンオフにイタリアに行って練習に参加させてもらいました。イタリア代表GKのブッフォンを指導したエルメス・フルゴーニさんから指導を受けたんです。
でも翌年、FC東京は16位と低迷してJ2に落ちてしまった。「J1の試合には出てるけど、結局こうなんだな」と。

「まだ足りない」と増やした練習量

──降格したことに、責任を感じていた。
権田 責任しか感じなかったです。
イタリアに行って、格段にうまくなったわけではないんですが、自分が今まで味わった感覚と違った「これを信じてやろう」というのができたんですね。僕の中では、信じてプレーできることがすごく重要でした。
なので2年目の方が1年目よりパフォーマンスは確実に良かったんです。なのに結果として、J2に落ちた。
そしてJ2に落ちたら、試合に出られなくなった。
相変わらず日本代表には選ばれて、「21歳で代表に入って輝かしいキャリアですね」と言ってもらえていましたが、自分を“いい選手”だと思ったことはなくて、ずっと自信を得られないままでした。
──とはいえ、ロンドン五輪ではメダルまであと一歩の4位に貢献しました(※)。
※日本は初戦でスペインに勝利して勢いに乗ってグループステージを突破。準決勝のメキシコ、3位決定戦の韓国に敗れたが4位でフィニッシュした。
権田 12年のロンドン五輪でも、自分が良ければメダルを獲れたと思ってます。