集中力、睡眠の質…生体センシングの先にある新しい医療とは?

2020/8/2
 AIやセンシング技術の進歩と普及によって、生体データを使ったウェアラブルデバイスやアプリが増えている。

 これらのコンシューマー向けテクノロジーは、ビジネスパーソンの生活の質を変えるだけでなく、そこから生み出されるデータによって医療・ヘルスケア領域を根底から変革する可能性を秘めている。

 フィリップス・ジャパン代表取締役社長の堤浩幸氏と、メガネ型ウェアラブルデバイス「JINS MEME(ジンズ・ミーム)」の開発を手掛けるJINSの井上一鷹氏が語る、センシングの先にあるプラットフォーム像とは?

「見える化」の先に求められるもの

※本記事は、2020年3月19日に行われた対談をもとに構成しています。
 井上さんはJINS MEMEで「集中力」を可視化しました。そのアイデアの発端は、何だったんですか。
井上 もともと僕のモチベーションは、認知症対策でした。ヒントをいただいたのは「脳トレ」で有名な東北大学の川島隆太教授です。
 認知症の研究医である川島先生は、認知症の患者と健常者を比べると、目の動きのスピードと身体の重心バランスに違いがあるという仮説を立てました。
 JINSはその仮説を検証するため、バイタルセンシング技術を活用したメガネ型ウェアラブルデバイスの研究開発に乗り出したのです。
大学卒業後、戦略コンサルティングファームのアーサー・D・リトルにて大手製造業を中心とした事業戦略、技術経営戦略、人事組織戦略の立案に従事後、ジンズに入社。株式会社Think Labを発足し、事業を統括。算数オリンピックではアジア4位になったこともある。
 メガネって本来は外をよく見るためのものですが、それを身体の内側を知るためのツールとして捉えた。その発想の転換は素晴らしいですね。
 私も仕事柄、様々な医者とお話しする機会があり、健康状態を見るための窓として、「目」に注目しています。
 実は目の奥にはいろんな神経が集まっていて、ここをチェックすることで簡単に健康状態がわかるんです。
 今も眼底検査や視力検査はあるんですけど、もっと人間ドックのような健康診断にも使えると思うんですよね。
1962年生まれ。慶應義塾大学理工学部卒業後、NEC入社。2004年シスコシステムズに入社し、2006年取締役就任。2007年米国スタンフォード大学ビジネススクール修了。2015年サムスン電子ジャパン入社、CEO就任。2016年フィリップス・ジャパン入社。2017年より現職。
井上 そうなんです。人間の身体で粘膜が露出しているのは目しかない。心理状態などの影響を受けない生理データを体液から取るなら、涙液を使うのが一番精度が高いと聞いたことがあります。
 そして、私が川島先生のお話のなかで特に興味深かったのが、「1日のうち、メガネは下着の次に着けている時間が長い」ということ。
 加えて脳や目など、大事なデータを処理する頭部に着けるものですから、そこから取れるデータを検証すれば、認知症の早期発見につなげられるのではないかと考えました。
 なるほど。集中力やパフォーマンスから始まったのだと思っていましたが、そもそも医療的な観点からスタートしたんですね。
井上 ええ。ただ、認知症対策は非常に難しいテーマで、検証に必要なデータ量を集めるのに何十年もかかる。
 まずは、メガネで測れるデータを他の分野に応用し、より広い層に使ってもらう必要がありました。
 日本ではホワイトカラーの生産性が低いという課題があり、働き方改革が叫ばれているものの、仕事の質やパフォーマンスを測るモノサシがない。そう考えた末に「集中力」に着目したんです。
「JINS MEME ES」は、3点式眼電位センサー、加速度センサー、ジャイロセンサーの3つのセンサーで、姿勢や瞬きの数を測定し、スマートフォンと接続することで、仕事中の集中力の度合いを定量的に可視化します。
 自分の集中の度合いが見えるようになれば、人のモチベーションは確実に上がりますよね。もっとパフォーマンスが高まるように、日々の行動を変えようとする。
 ゲーミフィケーションのように、自発的に生活リズムやコンディションを整える動機になると思います。
井上 はい。もし世の中に体重計がなかったら、みんなもっと太っているはず(笑)。
 ランニングがブームになったのも、デバイスやアプリの影響が大きいと思います。走った距離や消費カロリーが可視化されたことが、ランナーにとって継続のモチベーションになっています。
 仕事に集中することも、健康をケアする習慣をつけることも、それと同じですよね。
 そうですね。ただ、一方で私はまだこうしたテクノロジーを活用しきっていない、とも感じています。
 いま、世の中にはセンシング技術を活用した様々なデバイスがありますが、私が感じる課題は、その多くがデータを測ることだけに重きが置かれてしまっていること。
 データを測って見える化することは大事ですが、それで満足してしまっては意味がない。
 今後のヘルステックでは、測ったデータをどのように活用し、具体的にどのようなベネフィットが得られるかが重要になってくるでしょう。
井上 同感です。センシングでデータを測ったうえで、ソリューションを提供して、その先の課題解決につなげる。そのエコシステムを構築しないと、新しい市場をつくることはできません。
 たとえば、JINS MEMEに関して言うと、その研究を通して得た知見を生かし、集中力を高めることに特化した会員制ワークスペース「Think Lab」をつくりました。
Think Labはメガネ型デバイス「JINS MEME」の研究成果を用い、「世界で一番集中できる場所」というコンセプトで開発したワークスペース。飯田橋と汐留のほか、7月30日にはスターバックスと共同設計した銀座店がオープンした。(写真提供:阿野太一)
 植物を配置したり、鳥のさえずりのような自然が感じられる音を流したりと、集中力を高める効果があるとわかっている様々な工夫を盛り込んでいます。ものすごく集中して仕事ができますよ。

センシングで眠りの質を高める

 フィリップスも、センシング技術の研究開発には力を入れています。その一つの応用例が、昨年発売した睡眠デバイス「SmartSleep」です。
【SleepTech最新形】脳をハックする睡眠デバイス、登場
 センシング技術で脳波を測定し、睡眠状態を可視化したうえで、深い睡眠を増やし、すっきりした目覚めを提供する。それがSmartSleepのソリューションです。
 これまで睡眠時無呼吸症候群などの治療向けに販売してきた医療機器の知見をもとに、医療データを検証したうえで14年かけて製品化しました。
井上 コンシューマーデバイスの経験値とメディカルデータの両方を持っているというのは、私からすると羨ましい限りです。
 ヘルスケアとテクノロジーをリンクさせ、BtoBとBtoCのデータをつなげられるプレーヤーって本当に希少なので。
 私も睡眠にはこだわりがあります。いま個人的に実験しているのが、意識的に二度寝することです。
 朝、ノンレム睡眠の谷が深くなるタイミングで一度起きて、また寝て、90分後に起きる。そうすると深い睡眠が得られるんじゃないかと。
 そんな仮説を立てて検証してみたところ、あくまでも感覚ですが、日中の集中力が上がっている実感があります。
 それはぜひ、SmartSleepを使って検証してもらいたいですね。
 生活の質を高めるには、良い睡眠が欠かせない。誰もがわかっていることですが、それでも睡眠時間の確保が難しい人も少なくありません。
 それこそ、JINSさんのメガネから得られたデータと、SmartSleepで得られたデータ、そして医療で得られたデータをマッチングさせることができて、人々の暮らしの活性化につなげられれば、また新しい可能性が広がりますよね。
 フィリップスとしても、睡眠の質を高めるノウハウは自社内にとどめるのではなく、もっとオープン化して、マッチングさせていくべきだと考えています。

あらゆるデータはつながっていくのか

 私は、ヘルステックをもう一歩先に進めるためには、様々なコンシューマーデバイスから得られたセンシングデータと、病院などの医療データ、それらを共有する「プラットフォーム」ができるかどうかが鍵になると考えています。
 将来的には、ただ椅子に座るだけでセンシングが行われ、その人の体調がすべてわかるようになる。そういう世界が夢物語ではなく、確実にやってくると思うんですよ。
 あらゆるデバイスから得られるバイタルデータがつながり、病院や医療従事者はもちろん、一般企業や自治体などみんなが使えるプラットフォーム上で、コモンズ(共有財産)になる。
 当社には「ヘルススイート・インサイト」というクラウドプラットフォームがあります。今後はそこに他の企業も参画していただき、データを連携していけば、新しいビジネスモデルも生まれてくるだろうし、患者さんもベネフィットを享受できるでしょう。
「ヘルススイート・インサイト」
フィリップスが提供する医療・ヘルスケアデータのプラットフォーム。医療従事者、データサイエンティスト、ソフトウェア開発者がクラウド上でデータを共有しながらAI開発や分析を行える。サードパーティがサービスを提供できるマーケットプレイスを備え、ヘルスケア領域の共創を目指す。
井上 メディカルよりもコンシューマー側にいる身としては、センシングデバイスからのデータをソリューションに落とし込むのは、医療のほうがより難しく、時間がかかるイメージです。
 たとえば、食べたものが身体にどう影響するかなんて、すぐに実感できるものではなく、かなり長期的な分析や研究が必要じゃないですか。
 一般ユーザーのことを考えると、JINS MEMEやSmartSleepのようなピンポイントで即効性のあるデバイスも求められる。
 そういった製品でデータ活用やUIの知見を積み重ねながら、最終的にはより広いヘルスケアやメディカル領域の課題解決につなげていきたい、というのが僕の思いですね。
 まさにそこがポイントだと思います。つまり、医療が閉じていられる時代は、よくも悪くも終わってしまった。
 ライフスタイルがさらに多様化していく現代で、私たちは日々の生活からデータを集めないといけない。それが、医療崩壊が懸念される未来に向けた、新しいイノベーションの素地になるからです。
 そのツールの一つが、普段から身に着けるコンシューマー向けデバイスです。一方で、日々のバイタルデータは、医療とつながらなければ真価を発揮できません。
 これからますます高齢化していく社会で、医療のリソースをどう分配するのか。ウィルスによる感染拡大などのリスクもあるなかで、病歴や診療歴を予防や治療などとどう連携させていくかを考えるフェーズに来ています。
 今、医療・ヘルスケア領域は大きく動き始めています。ここから5年後にどう変わっているか。その未来を想像するのが楽しいんですよね。
(編集:宇野浩志、海達亮弥 取材・文:榎本一生[steam] 写真:大橋友樹 デザイン:小鈴キリカ)