パンデミックに際して、私たちはいかに「移動」が現在の社会の根幹となっているかを痛感している。グローバルな移動によってウイルスが世界中に拡散し、都市封鎖や物流を制限すると、世界の経済活動が急激に減速する…。このような社会のあり方をいち早く示していたのが、社会科学において最も注目される研究者の一人であるジョン・アーリだ。

本連載ではアーリが2008年に刊行した書籍『モビリティーズ──移動の社会学』から全8回にわたって、「移動」がいかに社会の根幹を成し、社会を変えてきたかを紹介する。

なぜ会うのか?

この節では、旅と会合と普通は多くの会話を生み出す社会的ネットワークの5つのプロセスを詳しく見ていく。折々の移動と共在による会合を生み出す5つの分析上異なるプロセスを区別することが重要である。
第一に、法や経済や家族がもたらす義務があり、それによって他の場所に旅行し滞在することが折々に求められることになる。
このフォーマルな義務の例として、仕事や就職面接のための旅行や、家族のイベントに参加するための旅行、弁護士や裁判官を訪ねるための旅行、学校、病院、大学、官公庁などに行くための旅行などが挙げられる。
しばしば、そうした「移動の負担」には、力関係の複雑な不平等が見られ、力なき者は、決められた路線に沿って決められた時間に旅を「しなければならない」。
第二に、フォーマルに規定される度合いが弱い社会的義務があり、そこには、しばしば、同じ場に居合わせるとともに注意を向けることへの強い規範的な期待が見られる。
ここでの移動の負担には、「他の人」と「面と向かって」、時には「身体をつき合わせて」会うことが含まれている。
弱い紐帯でつながった人びとが折に触れて姿を見せ合うことで、ネットワークのメンバーは、他の人が考えていることを「読む」ことができ、他の人の仕草に注意を払うことができ、他の人が言わなければならないことに「直に」耳を傾けることができ、他の人のすべての反応を感じとることができ、あるいは、無償の感情労働を引き受けることもできる。
そうした友人もしくは家族、あるいは同僚のネットワークに対する社会的義務は、離ればなれの期間でも保持しなければならない信頼と関心を維持するために必要である。
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こうした社会的義務は、気持ちが高まる「凝集した」時間を過ごす義務と結びつく場合もあり、それはいつもの仕事と家庭生活のパタンから離れた特定の場所でよく見られる。
そうした時には独特の時間感覚が生まれることもあり、それは「いつもの」生活とは切り離されており、相容れないものである。この感情面での一体感が形成される経験には、時として一種の集合的「沸騰」が見られることもある。
第三に、特定の社会的ネットワークでは、さまざまな物的目的に照準されていることがよくあり、一時的なたまの出会いをもたらしている。
他者との共在が求められるのは、特定の契約書にサインするためであったり、文字やビジュアルなテクストを読むためであったり、遠く離れた他者に贈り物を渡すためであったり、うまく機能しない物をどうにかして解決するためであったり、科学的な目的で新たな器具を作り出すためであったりする。
これらの物は固有の場所にある場合もあれば、動かすことができる場合もあるが、このネットワークに関わる人びとはそうした物を働かせ続けるためにある特定の場所で出会うことになる。
さらに、次第に「肘を並べて」働くようになっている。すなわち固定した場(研究室、インターネット・カフェ、職場、空港のラウンジ)あるいはソフトウェアや文書にアクセスできる場で、他の人たちとともに同一もしくは並列したコンピュータの画面に向き合うようになっている。
科学技術スタディーズにおけるアクター・ネットワーク分析が明らかにしているように、科学の社会的ネットワークにおいても「物」が中心的な役割を果たしており、そうした物は然るべき場所に置かれているのが普通であるが、状況に合わせてその様態を保ちながら場所間を移動する場合もある。
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第四に、多くの場合、場所が、ネットワーク化された社会生活の中心をなしている。「直に」ある場所に身を置く義務があり、都市を歩く義務があり、「海辺」にいる義務があり、山を登る義務があり、日没を見る義務があるといった具合にさまざまな義務がある。
そうした「余暇の場所」は、「顔と場所をつき合わせた」共在を通して「直に」経験され、人びとの身体がそのようにして「よその」場所に浸されることもある。
そうした場所を面前にするには、一般に、複数の非場所を越えて旅することが必要であり、そうして唯一無二の場所に辿り着くのだが、その際、「大切な」他者と一緒にいるのが普通である。
このような場所は、社会的ネットワークを構成することを促している。たとえば、専門家組織が会議を開く場所があり、余暇のグループが釣りをする場所があり、家族が休日に行く場所があり、ロック・クライマーがことのほか引きつけられる場所がある。
最後に、多くのネットワークが、特定の日時と場所で起こる「生」の出来事をめぐって形成されている。
たとえば、政治集会、コンサート、演劇、会合、試合、祝賀、映画のプレミアムショー、会議、フェスティバルなどを考えてほしい。そうしたリアルタイムのイベントによって、イベントに合わせて行われる旅行と凝集した共在の時間が生み出される。
いわゆる「ファン」のように何かに特化した社会的ネットワークにとって、そうした機会は「見逃す」ことができず、ある決まった日時にイベントを「ライブ」で「目にする」ために大規模な移動がなされる。
これは、相当に重い「負担」ともなる。そうしたイベントのために、ある特定の場所が他とは異なる場所になる。おそらくは、特定のスポーツ、芸術、祝祭のイベントといった「グローバルでユニークなイベントを開くということで独特の場所」になっているのであろう。
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「行きたくなる場所」とは

場所と移動は、情動と非常に密接につながっている。本章では旅行の歴史に関するこれまでの見解を検討することから始め、訪問先となる場所の特徴に目を向ける。
ここでの主張の要をなすのは、場所は、固定されておらず、所与ないし不変のものではなく、ある程度、その場所における営為に拠っているということである。
場所の諸関係は、情動をもって演示されねばならない。場所はさまざまな種類の演示〔たとえば、歩くこと、身体を動かすこと、写真を撮ること、食べること〕を必要としており、したがって、長期に渡ってそうした演示がなされなければ、その場所は変容し、別のものになってしまうだろう。
場所と演示は、比類なき複雑さと多様さで結びついている。本章では、なかでも温泉町や浜辺でなされていた異色の演示から始める。この演示は、「ゆったりとした(レジャード)」過ごし方を定着させることになる、ある特定の文脈における身体の振る舞い方をもたらすものであった。
次に、場所が情動を介して享受されるようになっていることに対して五感の有する重要性について考える。
土地(ランド)から景観(ランドスケープ)への移行が、世界における特定の身の置き方を表していることを示すとともに、場所が比較、対照、収集され得るものとなり、遠方からの訪問が可能になっていることを示す。
「よそから来る人」にとって魅力的であることを競うグローバルな競争が、場所を変容させている。場所は、よそから来るさまざまな種類の人たちを引きつけるためのスペクタクルとして作り直されるとともに、亡命希望者やテロリストといった別の種類のよそから来る人たちを寄せつけないようにしている。
今や、全世界の人びとが生涯に一度は目にしたい、間近で接したいと願うようなグローバルなイコンがある。
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旅行の仕方と特定の場所が結合していることはよくあり、そうした場所は決まったかたちで旅が行われることで成り立っており、両者は切っても切れない関係にあるとも言える。
たとえば、そうした関係を示すものとして、南西イングランドの保養地への鉄道旅行、オーストラリアからタイへの格安航空、グランド・キャニオンへの自動車旅行などが挙げられよう。

療養者にとっての情動の場

まずは、ヨーロッパの旅行の歴史を簡単に振り返ることから始めよう。巡礼や富裕層の子弟向けのグランド・ツアーを別にすれば、ヨーロッパにおけるきちんとした旅行は、裕福な療養者向けのサービスの提供から始まる。18世紀と19世紀を通して、非常に数多くの温泉町がヨーロッパの全域で大きく発展した。
鉱水を飲み、湯に身を浸からせることで、病人や死にそうな人の回復が望めるようになった。温泉町は、さまざまな重い病状からの回復を演示する場になった。「温泉に入る」ことは、さまざまな医療レジームで行われた流行りの治療になった。水は、肉体的にも精神的にも、いくつもの文明の「病」に対する特効薬であるとみなされた。
19世紀後半、スイス・ヴァレー州のロイカーバートの町にある温泉で大勢の人々。 (powerofforever/iStock)
温泉町は社会的に選ばれた場所であり、(ジェーン・オースティンの小説に見られるように)その訪客は町に家を持つ余裕のある人に限られており、後には、数少ない高級ホテルに泊まることのできる人に限られた。
そして、ほとんどの温泉町は、社会的に選ばれた場所としてのイメージを保ち続けており、そこで働く者たちはしばしば視界には登場しなかった。
温泉町は、新たに形成されたコスモポリタン・エリートたちがヨーロッパ中から集まる場所であり、次第に鉄道で旅行できるようになり、温泉町同士が「より近くに」引きつけられ、そうした時流に乗った場所をめぐる旅と出会いが広がっていくことになった。
温泉によって、文化資本がもたらされ、ヨーロッパの富裕層同士が会えるようになり、いくつものサービスを受けることが可能になった。温泉は、次第に、贅沢三昧の交歓の場所へと発達することになった。
さらに、初期の海辺の保養地も、そもそもは治療の場所として生まれたものであった。シールズがブライトンについて記しているように、浜辺はもともと医療の場であった。18世紀から19世紀初頭までの間、浜辺は病弱な者が海に「浸からされる」場であり、海には人を健康にする特性があると考えられていた。
カリブ海ですら、ヨーロッパからの裕福な病弱者のための場所であるとみなされていた。
1830年代初頭には、キューバの大気が結核治療のために強く推奨され、1903年にはジャマイカが「病弱な者たちの真のメッカ」であると言われた。多くの海辺の保養地は療養者たちの場所であり続け、療養者たちは水に浸かって外気にあたり、治療を受け快方に向かった。
海辺の保養地は、鉄道で訪れるのが常であり、鉄道路線の終着地点に造られていた。後になってはじめて、浜辺は快楽の地になり、とりわけ、快楽を演示する場所となり、以下で論じるように地上の楽園になった(さらに、グローバルな旅行が現代の動的な伝染病を急速に変容させている)。
※本連載は全8回続きます
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本記事は書籍『モビリティーズ──移動の社会学』(ジョン・アーリ〔著〕吉原 直樹・伊藤 嘉高〔翻訳〕、作品社)の転載である。