平田オリザ氏炎上にみる、コミュニケーション教育は「他者と相互理解する能力」を害しているという現実
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注目のコメント
平田オリザ発言は、最初冗談で言われているのかなと思ったくらい驚きました。
30年近く前の筒井康隆『文学部唯野教授』は象牙の塔の住人をデフォルメして話題でした。ずっと外との交流の少ない場にいると、その村でしか通用しない隠語を公の場で話してしまう。今回はそういうことかと思いました。
ドラマに出ていた俳優が演劇に出ると急に芸術人という態度をするのを想起します。演劇は大切な文化であることに1ミリも間違いはないと思ってはいますが、演劇村の方言で外で話したら通じないですよね。主眼は「コミュニケーション教育」のあり方についての再検討であり平田オリザ発言問題はそのためのきっかけなのだが、わりあい自分の見解と近い整理だった。そうした自分の見解に近い記事見つけてくること自体チェリーピッキングじゃねーの的自己批判も含めて論点整理に役立った。どんな箇所かというと以下のような箇所である。
> 平田オリザ氏にとっては、一連の騒動は「自他のことを十全に理解し、それを伝達できる自分」と「自他に対する理解力が低く、伝達能力も低い他人」の間のディス・コミュニケーションであり、それ以上でも以下でもない。基本的には却下してよいものだし、どうしてもという場合は、自身の「伝える力」を駆使して正しいコンテクストを「教え諭す」こともある。こうしてみると、平田氏の一連の対応にも大体の説明がついてしまう。
> さらに言えば、逆に、平田氏や演劇業界を、窮状の援助を訴えたという理由で「叩いて」いる人間の隠れた論理も、これと相似だ。平田氏及び演劇業界は「コミュニケーション」、つまり発話に失敗した。その原因は伝達技術の不足にあり、発話内容を変更するまでは全責任は平田氏、及び演劇業界に帰する。それまでは演劇業界の窮状に耳を傾ける必要はない。
> これが「コミュニケーション」なのだろうか?「他者との相互理解」に繋がる道なのだろうか?なにか決定的におかしくないか?